ないとう‐こなん【内藤湖南】
ないとうこなん 【内藤湖南】
内藤湖南 ないとう こなん
内藤湖南
内藤湖南
内藤湖南
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:20 UTC 版)
その中で大正時代の大正3年(1914年)に東洋史研究の歴史学者の内藤湖南が出版した『支那論』は大きな反響を呼び学問的な影響を広めた。出版物の支那論の影響で支那分割論が一大ブームを呼んだ。東洋史学者として名声を博していた内藤は日本の明治維新の成功を、日本の市民階層と言うべき商工業層を明治政府側が掌握したことが大きいとして、孫文の失敗を中国の市民階層と言うべき郷党・父老の歓心を買わなかったことが最大の原因であるとした(もっとも、郷党・父老こそ中国皇帝政治の核心部分を見出していた孫文に中国統治は不可能だと見なしていたことの裏返しでもあった)。更に顧炎武・黄宗羲の議論を引用して、中国には強力な中央政府は不要で、軍閥の分割統治による連邦共和制がもっとも妥当な線であると述べ、漢民族は世界の労働力として貢献すれば将来において十分発展できるのであるから、国家としての中国の発展は別問題とすべきであると論じ、暗に漢民族に統一国家は不要であると述べたのである。
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