超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

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風立ちぬを見て考えたことなど。

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※ネタバレする可能性は低いですが、内容に一部触れてます。

 

予防線は張っておきます。予防線を張らないと死ぬ病気に幼少期に罹っていますので。
興味引いてくれたなら嬉しいですが理論はグタグタです。弱小Web同人者の戯言と理解して下さい。

 

 

宮崎駿は物語の構造に忠実な作家として理解している。
ここで言う物語の構造というのは「行きて帰りし物語」。単純に説明すると、主人公が目的を遂行するために壁を超えて異世界を彷徨い、目的を果たし元の世界に戻るといったような物語の類型である。
僕は宮崎駿のファンタジーのレベルの高さとして、この現世を超える「壁抜け」の自然さを評価している。
多分、彼は物語を書いていく上で「壁抜け」を呼吸なような物として体得するまでのレベルにまで達しているのだと思う。

 

<行きて帰りし物語>

 

例えばトトロを挙げるなら、サツキが祈りを込めて茂みのトンネルを抜けるシーン。あれが現世を抜けてトトロたちの世界へと「壁を抜ける」シーン。
魔女の宅急便なら、飛べなくなったキキが絵描きの女性の元を訪れるシーンは異世界への探訪。そこで力を取り戻したキキは元の世界へと帰っていく。
ポニョの場合はかなり特殊で、ポニョたちの住む世界が異世界なのだが、物語は異世界から元の世界へとは帰らずそのまま終わってしまう。この展開にした理由はかなり悩んだ。宮崎駿が異世界に没入して戻らないという物語を作ってしまったのはある種の老成なのかな?と理解している。

 

それから風立ちぬである。この作品は実在の航空技術者である堀越二郎の半生を描いた作品である。
自分の印象的なシーンとしては割と序盤の子供のシーンから夢でイタリアの航空技師のカプローニとであって、理想の飛行機を語る。この後も思い悩むたびに夢のなかでカプローニに師事してる姿が描かれている。割と序盤で「壁抜け」をしてしまうのである。

 

宮崎駿は堀越二郎に自己投影をしながらこの物語を書いたのではないかなと思う。夢見がちですぐに向こうの世界へ旅立ってしまい、時間軸も明記はされないままに物語は進んでゆく。これは宮崎駿がみている普段の生活の形なのでは無いかなと思う。
伝記の形を取るならば、堀越二郎はゼロ戦を作った人間である。その部分をクライマックスとして描くはずだ。しかし、風立ちぬではその部分はぼかしたままに、終戦を迎えた堀越二郎がカプローニとゼロ戦を語るシーンで終わる。
おそらく、宮崎駿にとって理想の技術者の形とは、向こう側の世界にある理想の形を追求して、それを現世に実現させることだけを求める人間なのだろう。これは宮崎駿の理想とした人生を投影しているのではないかと憶測する。

 

おそらくとしか書かないけど、宮崎駿のアニメーター人生を堀越二郎の人生に重ねあわせて表現しようとした作品が今回の風立ちぬだったのではないかな。

 

宮崎駿というほどの立場の人間だと、創作物に社会的立場を問う評価が付きまとう。こんな風に。

 

#風立ちぬ は実在の人物を被った宮崎駿の自伝的理想との感想その1 - 旧玖足手帖-日記帳-

 

僕はその自己表現を否定はしない。弱小ながらクリエイターであろうとしている人間だから、表現者が表現物に自己を託すということがアイデンティティだということは理解しているつもりだから。
ファンタジーを描くということは子供向け作品を作るということではない、向う側にある世界に立ち向かい、理想の形を追求する行為なのである。
宮崎駿は向こう側の世界と現世をつなぐということを本質的に理解して作品を作っているのだろう。多分、あれが彼が見た堀越二郎の人生の形だったのだ。


評論家にはなる気になれない。物語を見る目が濁ってしまうから。どうせならばその物語の世界から新たな着想を得て、自分の作品へと反映したい。
僕はそう考えた。