「地獄への道は善意で舗装されている」

昨日、前に書いた記事にツッコミがあって、どうやら俺の間違いらしい。再三書いているけど俺の英語レベルは中学生にも劣るので他にもツッコミどころはあるだろう。


それにしてもこの格言は謎が多すぎる。昨日あらためて考えてみたんだけれど、英語は苦手だし、キリスト教などの知識にも乏しいし、経済学等にも疎いから、ちょっとした疑問を調べてみようとしても、その解説が新たな疑問を呼ぶという具合できりがない。


たとえば前にも書いたけれど「地獄」とは何かということすら難問だ。普通「地獄」というと閻魔大王がいる地獄のことを思い浮かべる。しかし、もちろんキリスト教の地獄はこれとは違うものだ。さらに地獄は悪人が行くところだと思うけれど「地獄への道」では被害者が地獄へ行くような解釈になっているものがある。もちろんこれは本当の地獄ではなくて現世における地獄という意味だと解釈できるけれども、それって日本では普通に「この世の地獄だ」とか言うけれど、キリスト教社会でもそういうこと言うんだろうか?って、これはもしかしたら初歩的なことかもしれないけれど俺にはわからない。さらにキリスト教社会だからって全部がキリスト教によるものではないかもしれないから、ここでいう「地獄」がキリスト教の地獄なんだろうかというのもわからない。


ところで「はてなキーワード」では

「良かれと思って行ったことが悲劇的な結果を招いてしまうこと。
または、悲惨な出来事が皮肉にも善意の行いが発端となっていることを言う。

と解説しているんだけれど、俺はこれを当初、その人が考える良いと思うことが、その意図通りに上手くいったとしても、他人にとっては地獄の場合があるという意味で捉えていた。たとえば独裁者が私利私欲を一切持たず「善意」の政治をしているつもりで、彼自身は大いに満足しているが、国民は悲惨極まりないというようなケース。しかし、考えて見れば、その人が考える良いと思うことを実行しようとしたが、意図に反して上手くいかず失敗するという解釈も可能だろう。解釈の解釈に迷う。


他にもいろんな解釈がある。たとえば誰もやろうとしない仕事を善意で引き受けたのに、感謝されるどころか恨まれたみたいな話も見た。「善意」の発端と「悲惨」の結果を組み合わせたものなら、どれもそれなりに理があるようにみえるから困る。格言の本当の意味を探すのはあまり実りあるものではないだろう。それよりも、その人がどういう意味で使っているのかを見定めねばならない。



さて、マルクスの「地獄への道」。

 俗流経済学に明るい資本家はおそらく云うであろう、――自分は、自分の貨幣をより多くの貨幣たらしめる意図をもって投下したのだと。

 だが、地獄への道は善き意図をもって舗装されている。彼は同じように、 生産することなく金儲けをする意図をもちえたのである。

この「地獄」の意味だけれど、一般に「資本家は善意だというけれど、それによって民衆は悲惨な目にあう」という意味で解釈されているように思われる。


「はてなキーワード」に

※これは文脈上は、通常(A)と解釈するのが一般的だろうが(B)、つまり「資本家が善き意図を”途中で放棄”⇒道を善意で舗装し/生産しない金儲けに堕落した⇒地獄の道へ向かった」とも解釈できなくは無い?

とあって、前はこの解釈に無理があると書いた。無理があるというのは「途中で放棄」という部分で、そうではなく「善き意図」であると同時に「生産することなく金儲けをする意図」も無意識であろうと発生する。それが「地獄への道」だという意味だろうということ。地獄に行くのは民衆ではなく資本家である。


それに関連して、


マルクスがユダヤ人だということは有名だが、事実は

マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、1723年以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父ザムエル・マルクス(ドイツ語版)もその地位にあった[11]。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが[12]、彼はヴォルテールやディドロの影響を受けた自由主義者であり[6][13][14]、1812年からはフリーメーソンの会員にもなっている[15]。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し[注釈 2]、1816年秋(1817年春とも)にプロイセン国教であるプロテスタントに改宗して「ハインリヒ」の洗礼名を受けた[12][18][19]。

⇒カール・マルクス - Wikipedia
とあり、マルクスはプロテスタントだったそうだ。


プロテスタントといえば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」だ。
⇒プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 - Wikipedia
ウィキペディアによると

そしてプロテスタンティズム、殊にカルヴァン主義は最も禁欲的であり、金儲けを悪として徹底的に否定する宗教のひとつであった。

とある。ところがそのプロテスタンティズムは、

しかし最初から利潤の追求を目的とするのではなく、行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その「結果として」利潤を得るのであれば、その利潤は、安くて良質な商品やサービスを人々に提供したという、「隣人愛」の実践の結果であり、その労働が神の御心に適っている証であり、救済を確信させる証であるとする、ここでも因と果が逆転した論理を生み出したのであった。ここに最も金儲けに否定的な禁欲的な宗教が、それとは全く正反対の、金儲けを積極的に肯定する論理と近代資本主義を生み出したという、歴史の皮肉がある。

ということになったのであった。

また、禁欲的労働によって蓄えられた金は、禁欲であるから消費によって浪費されることもなく貯蓄され(資本蓄積)、利潤追求のために再投資されることになった。これにより大規模産業を興すことが可能となった。

ともある、勤勉を美徳とするプロテスタンティズムが「隣人愛」の実践により資本主義を産みだし、さらに皮肉にも(宗教的に悪徳であるはずの)生産活動をしない資本家を産みだした。これらのことがマルクスの「地獄への道」と関係しているのではないだろうか?


いや、よくわからないけれども…