2024-01-01から1年間の記事一覧

三浦按針はサムライだったのか?(その1)(黒人弥助についてのあれこれ)

念のために追記。三浦按針を例に出してる人がいるが、ウィリアム・アダムスが、三浦按針の名乗りを許されたのはいったいいつでしょうか?徳川家康が引見した直後ではないはずです。彼も、忠功を認められて、名字(家名)を与えられたのですよ。いきなりでは…

「熨斗付」についての史料(その1)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その7)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇 弥助に関連して「熨斗付」について調べて見つけた興味深い史料をいくつか (1)『妙法寺記』(天文21年) 此年霜月廿七日駿河義元御息女樣ヲ甲州晴信様御嫡武田大吉殿様ノ御前…

「鞘巻の熨斗付」について(その7)(黒人弥助についてのあれこれ)

弥助は本能寺にいたのか?(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇 前回の記事からひと月以上間が空いてしまいました。まだまだ書くべきことは多々ありますが、どうにも筆が進みません。理由の一つは、弥助について深入りすると関係史資料の少なさから不…

弥助は本能寺にいたのか?(黒人弥助についてのあれこれ)

弥助が本能寺の変の時に本能寺にいたという話は小説等の創作物には見られます。(榊山潤『築山殿行状』など) 東京大学史料編纂所准教授の岡美穂子氏(と思われるアカウント)は以下のポストをX上でしました。 岡 美穂子. @mei_gang30266 しばらく来ないと言…

「鞘巻の熨斗付」について(その6)(黒人弥助についてのあれこれ)

織田信長が「鞘巻の熨斗付」を与えたのは、(某研究者の主張とは違い)むしろ信長が弥助を武家奉公人として雇用したことの証の可能性が高い。 実はまだ書くべきことがあるのだけれど調べ切れていない。いつか書くかもしれないけれど調べるのに時間がかかるし…

「鞘巻の熨斗付」について(その5)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その4)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇 繰り返しますが 弥助が拝領したのは「鞘巻(短刀)」です。 次に熨斗付について。熨斗付というのは金銀の類を延べて鞘に張ったものをいいます。それについて『武家名目抄』(塙…

「鞘巻の熨斗付」について(その4)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その3)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇 しつこいようですが大事なことなので繰り返します 弥助が拝領した「鞘巻の熨斗付」は「鞘巻の太刀(糸巻の太刀)」ではありません。弥助が拝領したのは「鞘巻(短刀)」です。 …

「鞘巻の熨斗付」について(その3)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その2)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇 これまでに書いたことを簡潔に言えば 弥助が拝領した「鞘巻の熨斗付」は「鞘巻の太刀(糸巻の太刀)」ではない。 ということであります。こんな簡単なことでも証明するには大変…

「鞘巻の熨斗付」について(その2)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その1)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇 古は無之さや卷の刀と云物は有之候、後世糸卷の太刀を、鞘卷の太刀とよびならわし候、甚あやまりにて候。(『刀劔問答』) 軍陣には糸巻(是を今時さやまきの太刀といふはあや…

「鞘巻の熨斗付」について(その1)(黒人弥助についてのあれこれ)

はじめに)俺は刀剣の知識ほぼ皆無です。だから「鞘巻の熨斗付」についての議論はスルーしてました。でも数日前から気になってきたので刀剣の勉強しました。そんで色々調べたんですけど、どうも「鞘巻の熨斗付」の議論は根本的なところで、おかしなことにな…

織田信長の鉄炮三段撃ちとは何か?という素朴な疑問

長篠の戦いにおいて、織田信長が鉄炮三段撃ちの戦法を用いたことは有名。だが実は三段撃ちは無かったということも言われて久しく、現在ではほぼ定説となっている。 俺も今まで三段撃ちは無かった説を支持しているし、今も支持しているかといえば支持している…

宇喜多直家の死因は尻はす」説への疑問(その3)

宇喜多直家の死因は尻はす」説への疑問(その2) - 国家鮟鱇 のつづき 宇喜多直家の死因は「大腸癌」ではないかという説が近年多くみられるという。また『 戦国武将の病が歴史を動かした』(若林利光)は痔瘻癌を主張している。 直家の死因は「尻はす」と呼…

宇喜多直家の死因は尻はす」説への疑問(その2)

『宇喜多直家の死因は尻はす」説への疑問』のつづき 宇喜多直家の「尻ハス」について、前の記事は『備前軍記』を元に解釈したが、『浦上宇喜多両家記』という史料があると知る。 九年直家病気次第ニ重ル、下血の病(俗に尻ハスト云)久シク膿血下リ、一両年…

宇喜多直家の死因は尻はす」説への疑問

宇喜多直家の死因は「尻はす」だと言われている。出典は『備前軍記』 宇喜多直家卒去の事 宇喜多和泉守直家、近年腫物を煩ひ、出陣も叶ひ難く、浮田與太郞基家·浮田七郞兵衞忠家名代として、所々出陣ありしが、病氣重りて、天正九年二月十四日、行年五十三に…

妻木氏の謎(目次)

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妻木氏の謎(その5)

妻木氏の謎について気になる事を順次追記しようと思ってたがあまりにも多いので新たに「妻木氏の謎(その5)」として記事を立てることにした。 (追記1/14) 〇『徳川家康 (人物叢書) 』(藤井讓治 2020)に慶長5年8月27日のこととして さらに、東美濃の様子…

妻木氏の謎(その4)

妻木氏の「諱の謎」についてはほぼ解明できたのではないかと思う。『寛永譜』『寛政譜』の誤った情報は広く採用され、その誤まりを修正しようとする研究も今のところ無いように思われる。また「妻木玄蕃」について記された論文も複数あるようだが、彼が何者…

妻木氏の謎(その3)

この記事は2018年にツイッターで考察したことを思い出しながら書いている。妻木氏の諱の謎はほぼ解けたと思う。だが妻木氏の謎はまだあったことを思い出した。 諱を修正した上で『寛永譜』『寛政譜』を見れば (1)妻木藤右衛門廣忠は明智光秀の叔父で天正10…

妻木氏の謎(その2)

書き忘れてたことがあるので、まずそれを追加。 妻木の八幡神社の棟札に 大檀那 藤衛門尉源廣忠 花押 永祿二(己未)年五月二十八日 慶長十三年 大檀那傳入賴忠 花押 願主 妻木雅樂介源宗賴 とあり(『岐阜県土岐郡妻木村史 』)。これはかなり信用できる史…

妻木氏の謎(その1)

1 www.yamagata-u.ac.jp ニュースで妻木頼利の名前を見たので前々から気になってたことを書いてみる。 妻木頼利(1585~1653) 江戸時代前期の武士。天正13年生まれ。妻木頼忠の子 『寛永諸家系図伝』(以降『寛永譜』)は寛永18-20年(1641年-1643年)に編…

地震とナマズと豊臣秀吉

地震とナマズが結び付けられた最古の史料は豊臣秀吉文書だという。文禄元年12月(1593年1月)前田玄以に宛てた書状の中に ふしミのふしん、なまつ大事にて候まゝ とある。これは「伏見の普請、なまず(鯰)大事にて候まま」で「なまず大事」とは「地震対策が…

『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (目次)

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『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (その5)

徳川家康の「背信行為」を『三河物語』は記す。普通に考えればそれは家康にとって都合の悪い話であり「徳川中心史観」で書かれていると評されているにしては不自然なことである。さらに「背信行為」のアドバイスをしたのは著者大久保忠教の叔父大久保忠俊だ…

『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (その4)

家康は一揆勢との和議の条件「寺内を前々のごとく」を「前々は野原なれば、前々のごとく野原にせよ」という屁理屈によって反故にした。一般的にはこれは家康の「背信行為」であり、卑怯なことだと考えられている。よって家康にとって不都合な話であり、隠蔽…

『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (その3)

徳川家康は「前々のごとく」という起請文を交わしたにも関わらず、「前々は野原なれば、前々のごとく野原にせよ」という理屈で一向宗寺院を破却したと『三河物語』に書いてある。これは家康の「背信行為」だとされている。 この逸話がなぜ『三河物語』に書か…

『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (その2)

昨年の大河ドラマ「どうする家康」でもやってたが、三河一向一揆のときに家康が一揆側と「前々のごとく」という約束したにもかかわらず「前々」は野原だったのだからと、一向宗寺院を破却したという話が『三河物語』に書いてある。 其後土呂、春崎、佐崎、野…

『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (その1)

『三河物語』は『徳川中心史観(松平・徳川中心史観)」によって書かれているとし「徳川中心史観からの脱却」を主張する研究者は多い。だが本当に『三河物語』は徳川中心史観の書なのであろうか? 著者の大久保忠教(1560~1639)は江戸初期の旗本。徳川家臣…