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水を守る・森林篇 第3話-ドイツ林学と本多静六- 

①アーサーラッカム88kb 

 

(グリム童話集。イギリスの挿絵画家アーサー・ラッカム、1909年作画)


  とんでもない飢饉の年のことです。木こり夫婦は口減らしのため、我が子ヘンデルとグレーテルを森の奥に捨てました。幼い兄と妹は森をさまよい、3日目に小さな家に辿りつきます。家はパンとお菓子で出来ていました。2人は夢中でかじりつきます。

「カリカリと我が家をかじるは、どなたさまじゃ?」

家から杖にすがった婆さんが、そろりと出てきました。

実は、婆さんは2人を食べてしまおうと待ちかまえていた魔女でした。

 

 言語学者のグリム兄弟が、この「ヘンデルとグレーテル」や「赤ずきん」「白雪姫」などドイツ語のメルヒェン(お話)を集めだしたのは1806年からです。しかしもうこの19世紀初頭、魔女や小人がひそむ豊かな森はドイツに存在しませんでした。森はすでに木材調達の資源としてヒトに征服されていたのです。森の征服はドイツ林学を発展させます。

 

明治政府とドイツ林学

 

後にドイツに留学する本多静六(注1は新設の東京山林学校(現在の東京大学農学部)に入学しますが、初年度に幾何と代数が出来ずに落第。前途を悲観した静六、古井戸に身を投じます。しかし、たまたま腕が井桁に引っ掛かり未遂に終わりました。

 東京山林学校とは、1882年(明治15年)に政府がドイツに倣い設立した官立校です。当時、社会の近代化にともない木材需要が激増、林学は国家運営に必須な学問でした。



②農学校36kb  


(東京山林学校は明治19年に駒場農学校と合併。東京農林学校と名称が変わり王子から駒場校舎に移転した。写真はその駒場校舎。)

 

静六は埼玉の中農の家に8人兄弟の6番目の子に生まれ、なに不自由なく育ちましたが10歳の時に父親が借金を残して早世。それ以後貧乏生活を強いられ、中学(現在の高校)にも行けませんでした。苦学して受験した山林学校の入学試験も50人中50番でかろうじて合格。そのため幾何と代数についていけなかったのです。

 もしも、19歳の静六が古井戸で他界していたら、現在東京都が所有する広大な水源林はもっとちっぽけな森林だったかもしれません。

 

 一命をとりとめた静六は一念発起、2年後には首席に踊りでます。そんな23歳の“学士さま”に、資産ある家に婿入りしないかという縁談が持ち込まれました。

「会うだけでいい、俺の顔を立ててくれ」と恩師に頭を下げられ見合いをすると大変に気に入られ、是非婿にと請われます。

気の進まない静六は、これで破談になるだろうと、

「卒業したら4年間留学させてくれますか」と無茶な申し出をしましたが、「いいでしょう」とあっさり受け入れられて、静六(旧姓折原)は本多家に婿入しました。

 

本多静六のドイツ留学と林学

1890年(明治23年)10月、ドイツのミュンヘン大学に私費留学をします。グリム兄弟がメルヒェン決定版を刊行してほぼ30年後です。

フランスで始まった林学はドイツで発展、ドイツの国学となります。大航海時代からドイツはオランダなどに木材を輸出、森林はドイツの国家財政を支える重要な資源でした。そのため林学は国家経済学部の下にあり、本多静六は林学と共に経済理論と財政学を学びます。

 当時のドイツ林学は木材資源確保が第一目的でしたから、天然林を計画的に伐採、成長の早いアカマツなどの針葉樹を一斉植樹するのが基本でした。森林の水源涵養機能(注2)は副次的に考えられていたようです。

余談になりますが、この時代の学問とは(特に日本では)、近代国家を支える専門知の構築でした。たとえ文学であってもこの呪縛から自由であることは難しく、漱石をはじめ明治文学者を苦悩させています。

 

さて、留学生活を謳歌していた静六に試練が舞い込みます。本多家の資産を預けていた地方銀行が倒産。

「この先、留学費用は送れない」という書状が日本から届いたのです。

 

③静六帯刀 - 197kbkb

 

(留学時代の写真。なぜか羽織袴に帯刀姿で写真に納まっている。本多静六自伝より)

 

静六は落胆。切腹しようかとまで思い詰めますが気を取り直し、手持ちの資金でなんとか学位を取ろうと通常4年かかる単位を2年で修得。さらに、国家経済学博士の資格試験に臨みます。

この偉業に、ミュンヘン大学は博士号の最終試験・演説討論の日を休校とし、全生徒が大講堂に集合。みごとに合格します。

極東の留学生ドクトルの誕生は新聞に大きく報じられたそうです。

 

東京の水道水源林の再生と本多静六

 

④14kb水道局HP

 

(現在の東京都水道水源林。東京都水道局HPより)


   帝国大学で教鞭を執っていた本多静六は論文執筆のため、帝都の水道水源林を視察。その荒廃ぶりに愕然とします。はげ山だらけだったのです。

「このまま放置すれば、帝都の水道事業が危うい!」と時の東京府知事に直訴。時に本多静六は34歳。これより10数年、奥多摩の水源林再生で思わぬ苦闘をすることになります。(この稿続く)

 


⑤24kbグリム兄弟   

 

(手前が兄のヤーコブ・グリム、奥が弟のヴィルヘルム・グリム。2人は1840年ベルリン大学の教授に就任している。)


   魔女に捕らえられたヘンデルとグレーテル、あやういところで魔女をパン焼き窯に閉じ込めて焼き殺し、魔女の財宝をポケットに深い森から生還しました。

 こんなメルヒェンをグリム兄弟が集め出した頃、実はドイツという国はまだありません、いくつかの小国の寄り集まりで(注3ナポレオン率いるフランスに制圧されていました。

グリム兄弟のメルヒェン蒐集はドイツ民族統一による近代国家への脱皮願望と折り重なっています。メルヒェン蒐集は民族の魂の掘り起こしでした。

 しかし、メルヒェンの起源を遡ればはるかポリネシアのフォークロアにまで辿りつきます。結果として、グリム兄弟は人類が塁々と語り継いできた物語を掘り起こしていたのです。

 

          ~~~~~~~~~~~~~

注1)   本多静六:林学者。帝国大学教授。公園の父と称され、日比谷公園を始めに全国50以上の公園を設計。また明治神宮、鉄道防風林などの造園、水源林の育成など多大な業績を残した。

注2)   水源涵養機能:森林の土壌は雨水を地下に浸透させやすく、雨水の急激な河川への流下を防ぐ機能がある。

注3)  小国の寄り集まりで:ドイツ国家の成立は1870年。静六留学の20年前。

 

2023・6・1 記 文責 山本喜浩 
 

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Tokyo no Mizu

Author:Tokyo no Mizu
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東京都は水道水のほぼ60%を利根川水系・荒川水系に依存しています。
つまり、自給率はほぼ40%。こんな自給率で異常気象や大地震が引き起こす
災害に備えることが出来るのでしょか。
私たちは大変に危うい水行政の元で暮らしています。
これまで東京の河川・地下水の保全と有効利用をめざしてきた市民グループ、
首都圏のダム問題に取り組んできた市民グループらが結束して、
「東京の水連絡会」を設立しました。
私たちは身近な水源を大切にし、都民のための水行政を東京都に求めると同時に、
私たちの力でより良い改革を実践していきます。
東京の水環境を良くしようと考えている皆さま、私たちと共に歩み始めましょう。
2016年9月24日。        
                   
      

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