2025年01月11日
美童花染小
美童花染小
みやらびはなずみぐゎー
miyarabi hanazumi gwaa
語句・みやらび結婚する前の娘のこと。・はなずみ 野草の花などで染めたもの。浅地(浅い紺色)から繰り返し染めることによる紺地まで。
作詞 上原直彦 作曲 知名定男
歌 玉城一美
一、ーち手さーじ 二ち誰にくぃゆが 三ち 美童ぬ 真肝色深く染みて またあむぬ 思てぃ 呉りようや かなさしよ
てぃーちてぃーさーじ たーちたーにくぃゆが みーちみやらびぬまぢむいるふかくすみてぃ またあむぬ うむてぃくぃりよーやー かなさしよー
tiichi tiisaaji taachi taa ni kwiyuga miichi miyarabi nu majimu 'iruhukaku sumiti mata 'amunu 'umuti kwiri yoo yaa kanasashi yoo
◯一つ 手拭 二つ誰にあげるのか 三つ娘の真心を色深く染めて また染めるから愛してくださいよね 愛しい人よ
語句・てぃーさーじ手拭(てぬぐい)。女性が手織りした手拭は、汗を拭ったりする実用的なものから、男性に渡して愛を伝える、結婚の意思を表すものまである。・またあむぬ「またあるのだから」「またあるのに」と訳せる。前の語句「深く染めて」に係るとすれば「また染める」という意味を含むと考えられる。・うむてぃ思って。愛して。島唄の場合「愛して」と解釈するほうが普通。
二、四ち 嫁ならわ 五ち イービナギ 六ち睦ましく 楽ぬ玉水ん二人し また飲まや 思てぃ 呉りようや かなさしよ
ゆーち ゆみならわ いちち いーびなぎ むーち むちましく らくぬたまみじんたいし またぬまやー うむてぃくぃりよーやー かなさしよー
yuuchi yuminarawa 'ichichi 'iibinagi muuchi muchimajiku raku nu tamamijiN taishi mata numa yaa 'umutikwiri yoo yaa kanasashi yoo
◯四つ 嫁になれば 五つ指輪して 六つ睦まじく 楽しく清らかな水をも二人で繰り返し飲もうね 愛してくださいよね 愛しい人よ
語句・いーびなぎ指輪。指は「いーび」。「なぎ」は、もともと「いーびがにー」と言っていたものの「がにー」(ganii)の「g」と「n」が入れ替わり「なぎー」になったとする説がある。他にも「みーんま」(巳午)が「みまん」となる例もある。・らくぬたまみじ楽しく清らかな水。
三、七ち情花 八ち約束ど 九ち紺染に 十や十かながき かきてまた給り 思てぃ 呉りようや かなさしよ 思てぃ 呉りようや かなさしよ
ななちなさきばな やーち やくすくどー くくぬち くんずみに とぅーや とぅーかながき かきてぃまたたぼり うむてぃくぃりよーやーかなさしよー うむてぃくぃりよーやーかなさしよー
nanachi nasakibana yaachi yakusuku doo kukunuchi kuNzumi ni tuu ya tuu kanagaki kakiti mata tabori 'umuti kwiri yoo yaa kanasashi yoo 'umuti kwiri yoo yaa kanasashi yoo
◯七つ 愛の花(を咲かせること)八つ約束だよ 九つ紺染(本気の愛)に(なるように) 十は10回も縢掛けを繰り返し掛けてくださいね 愛してくださいよね 愛しい人よ
語句・なさきばな情けの花、と直訳できるが島唄、琉歌の世界で「情け」は「愛」が普通。・くんずみ紺染め。比喩として「浅地」「浅染み」は愛情の浅い「好き」くらいの気持ちや「浮気」の比喩まである。「紺染」「紺地」は「本気」「結ばれる愛」という比喩になる。・かながき 「かな」は縢とか綛と書くことができる機織の道具や糸の巻いたものを意味する。色を染める時に使い、また機織りに使う。琉歌によく登場する「かな」は愛情の表現にも使われ「かながき」は繰り返し染めること→愛情を深くすることの比喩である。
解説
![]()
曲目は「指 数へ歌」とある。
「いーび かぞえうた」と読むのだろう。
演奏がリンケンバンドとあるのが珍しい。
1979年頃発売されたレコードだ。
上原直彦さんは琉歌にも造詣が深いことがよくわかる。若い娘さんのフレッシュな恋心を琉歌にも散りばめられたウチナーグチで見事に数え歌に収めている。
LINEのオープンチャットというところでこの曲について質問があった。「またあむぬ」と「十かながき」のところがわからないと。
「また〜」という言い回し、よく沖縄の方は文章の中で使われる。
「さようなら」という時も「またやー」「またやーさい」。安里屋ゆんたでも「またはーりぬ」という繰り返しでてくる囃子言葉がある。琉歌でも「繰り返ちまたん」(繰り返してまたも)というような言い回しがよく使われる。
機織りや染色などの仕事は繰り返し同じような作業の積み重ねであり、それが人生においても毎日繰り返される喜怒哀楽の様子と重ね合わせて比喩に使われることが多い。
この辺りからこのウタを見直すと上原直彦さんが、何を言わんとしていたのか、より深く見えてくるものがある。
「かきてぃまたたぼり」、また文中に「また」が出てくる。その繰り返し感が若い娘がただ恋焦がれているのではなく「愛を深いものにしてくださいね」という強い幸せ願望が滲みでている。
沖縄の女性らしさ、というものがよく表現されているように思う。
みやらびはなずみぐゎー
miyarabi hanazumi gwaa
語句・みやらび結婚する前の娘のこと。・はなずみ 野草の花などで染めたもの。浅地(浅い紺色)から繰り返し染めることによる紺地まで。
作詞 上原直彦 作曲 知名定男
歌 玉城一美
一、ーち手さーじ 二ち誰にくぃゆが 三ち 美童ぬ 真肝色深く染みて またあむぬ 思てぃ 呉りようや かなさしよ
てぃーちてぃーさーじ たーちたーにくぃゆが みーちみやらびぬまぢむいるふかくすみてぃ またあむぬ うむてぃくぃりよーやー かなさしよー
tiichi tiisaaji taachi taa ni kwiyuga miichi miyarabi nu majimu 'iruhukaku sumiti mata 'amunu 'umuti kwiri yoo yaa kanasashi yoo
◯一つ 手拭 二つ誰にあげるのか 三つ娘の真心を色深く染めて また染めるから愛してくださいよね 愛しい人よ
語句・てぃーさーじ手拭(てぬぐい)。女性が手織りした手拭は、汗を拭ったりする実用的なものから、男性に渡して愛を伝える、結婚の意思を表すものまである。・またあむぬ「またあるのだから」「またあるのに」と訳せる。前の語句「深く染めて」に係るとすれば「また染める」という意味を含むと考えられる。・うむてぃ思って。愛して。島唄の場合「愛して」と解釈するほうが普通。
二、四ち 嫁ならわ 五ち イービナギ 六ち睦ましく 楽ぬ玉水ん二人し また飲まや 思てぃ 呉りようや かなさしよ
ゆーち ゆみならわ いちち いーびなぎ むーち むちましく らくぬたまみじんたいし またぬまやー うむてぃくぃりよーやー かなさしよー
yuuchi yuminarawa 'ichichi 'iibinagi muuchi muchimajiku raku nu tamamijiN taishi mata numa yaa 'umutikwiri yoo yaa kanasashi yoo
◯四つ 嫁になれば 五つ指輪して 六つ睦まじく 楽しく清らかな水をも二人で繰り返し飲もうね 愛してくださいよね 愛しい人よ
語句・いーびなぎ指輪。指は「いーび」。「なぎ」は、もともと「いーびがにー」と言っていたものの「がにー」(ganii)の「g」と「n」が入れ替わり「なぎー」になったとする説がある。他にも「みーんま」(巳午)が「みまん」となる例もある。・らくぬたまみじ楽しく清らかな水。
三、七ち情花 八ち約束ど 九ち紺染に 十や十かながき かきてまた給り 思てぃ 呉りようや かなさしよ 思てぃ 呉りようや かなさしよ
ななちなさきばな やーち やくすくどー くくぬち くんずみに とぅーや とぅーかながき かきてぃまたたぼり うむてぃくぃりよーやーかなさしよー うむてぃくぃりよーやーかなさしよー
nanachi nasakibana yaachi yakusuku doo kukunuchi kuNzumi ni tuu ya tuu kanagaki kakiti mata tabori 'umuti kwiri yoo yaa kanasashi yoo 'umuti kwiri yoo yaa kanasashi yoo
◯七つ 愛の花(を咲かせること)八つ約束だよ 九つ紺染(本気の愛)に(なるように) 十は10回も縢掛けを繰り返し掛けてくださいね 愛してくださいよね 愛しい人よ
語句・なさきばな情けの花、と直訳できるが島唄、琉歌の世界で「情け」は「愛」が普通。・くんずみ紺染め。比喩として「浅地」「浅染み」は愛情の浅い「好き」くらいの気持ちや「浮気」の比喩まである。「紺染」「紺地」は「本気」「結ばれる愛」という比喩になる。・かながき 「かな」は縢とか綛と書くことができる機織の道具や糸の巻いたものを意味する。色を染める時に使い、また機織りに使う。琉歌によく登場する「かな」は愛情の表現にも使われ「かながき」は繰り返し染めること→愛情を深くすることの比喩である。
解説
曲目は「指 数へ歌」とある。
「いーび かぞえうた」と読むのだろう。
演奏がリンケンバンドとあるのが珍しい。
1979年頃発売されたレコードだ。
上原直彦さんは琉歌にも造詣が深いことがよくわかる。若い娘さんのフレッシュな恋心を琉歌にも散りばめられたウチナーグチで見事に数え歌に収めている。
LINEのオープンチャットというところでこの曲について質問があった。「またあむぬ」と「十かながき」のところがわからないと。
「また〜」という言い回し、よく沖縄の方は文章の中で使われる。
「さようなら」という時も「またやー」「またやーさい」。安里屋ゆんたでも「またはーりぬ」という繰り返しでてくる囃子言葉がある。琉歌でも「繰り返ちまたん」(繰り返してまたも)というような言い回しがよく使われる。
機織りや染色などの仕事は繰り返し同じような作業の積み重ねであり、それが人生においても毎日繰り返される喜怒哀楽の様子と重ね合わせて比喩に使われることが多い。
この辺りからこのウタを見直すと上原直彦さんが、何を言わんとしていたのか、より深く見えてくるものがある。
「かきてぃまたたぼり」、また文中に「また」が出てくる。その繰り返し感が若い娘がただ恋焦がれているのではなく「愛を深いものにしてくださいね」という強い幸せ願望が滲みでている。
沖縄の女性らしさ、というものがよく表現されているように思う。
2025年01月10日
今帰仁天底節
今帰仁天底節
なちじんあみすくぶし
nachijiN 'amisuku bushi
語句・なちじん 今帰仁村(なきじんそん)。・あみすく「天底」という村。「あみす」とも呼んだ。
歌三線 大城美佐子 (CD「沖縄恨み節」より)
作者不詳
1、我が生まり島や 枯木山原ぬ 今帰仁の天底 仲本ぬ産子
わが'んまりじまや かりきやんばるぬ なちじんぬ'あみすく なかむとぅぬなしぐゎー
waga 'Nmarijima ya kariki yaNbaru nu nachijiN nu 'amisuku nakamutu nu nashigwaa
〇私の生まれ故郷は枯木のようにさみしい山原の今帰仁は天底の仲本家の子ども
語句・かりき枯れ木。さびしい様子の例え。・なかむとぅ「仲本」という屋号の家。・なしぐゎー子ども。
2、七ちなる年に 二とぅくるぬ親や 我身一人残ち くぬ世界に参らん
ななちなるとぅしにたーとぅくるぬ'うややわみちゅいぬくち くぬしけーにもーらん
nanachinaru tushi ni taatukuru nu 'uyaya wami chui nukuchi kunu shikee ni mooraN
〇七つになる年にお二人の親は私を一人残してこの世界にいらっしゃらなくなった
3、十八なるまでぃや 伯母一人頼てぃ 暮らち居る内に 行ち欲さや大阪
じゅーはちなるまでぃや うばまちゅいたゆてぃくらちうる'うちに'いちぶさや[おおさか]
juuhachi narumadi ya wubamaa chui tayuti kurachiuru 'uchi ni 'ichibusa ya [oosaka]
〇十八になるまでは叔母一人を頼って暮らしているうちに行きたくなった大阪に
語句・うばま 叔母、伯母。
4、情ある伯母 云言葉んすむち 大阪北恩加島(きたおかじま)街頼てぃ来やしが
なさき'あるうぅばまー'いくとぅばんすむち[おおさかきたおかじま]まちたゆてぃ ちゃーしが
nasaki'aru wubamaa 'ikutubaN shumuchi[大阪北恩加島]machi tayuti chaashiga
〇情けある叔母の言葉にも背き大阪北恩加島街を頼ってきたが
5、かかるかたねらん 縋がるかたねらん 我部ぬ新垣ぬ嫁に我なやい
かかるかたねーらん しがるかたねーらん がぶぬ'あらがちぬゆみにわねなやい
kakarukata neeraN shigarukata neeraN gabunu 'aragachi nu yumi ni wane nayai
〇頼れる人は全くいない すがれる人もいない 我部の新垣家の嫁に私はなって
語句・かかるかた 頼れる人。<かかゆん。頼る。・がぶ 今帰仁村の東隣にある屋我地島の字名。昔からモーアシビが盛んな地域。
6、一年二年や 梅とぅ鴬ぬ如に 暮らち居る内に 産子一人でぃきてぃ
ちゅとぅたーとぅや'んみとぅ'うぐいしぬぐとぅにくらち'うる'うちに なしぐゎーちゅいでぃきてぃ
chu tu taa tu ya 'Nmi tu 'uguishi nu gutu ni kurachi 'uru'uchi ni nashigwaa chui dikiti
〇一、二年は梅と鴬のように(仲良く)暮らしているうちに子供が一人できて
語句・んみとぅうぐいし仲良しのたとえ。
7、産子引ち連りてぃ 里が島来ーりば 里が母親に あくむくゆさりてぃ
なしぐゎーふぃちちりてぃ さとぅがしまちゃーりば さとぅがふぁーふぁーうやにあくむくゆさりてぃ
nashigwaa hwichichiriti satuga shima chaariba satuga hwahwa'uya ni 'akumuku yu sariti
〇子供引き連れて故郷にきてみたら彼の母親に悪い報いをされて
語句・あくむく悪い報い。いじめ。・ゆを。
8、罪無らん我身に 朝夕ぶちかきてぃ 噂むち明かち我ねすそーんさりてぃ
ちみねーらんわみに'あさゆーぶちかきてぃ うわさむちあかち わねすそーんさりてぃ
chimineeraN wami ni 'asayuu buchikakiti 'uwasa muchi 'akachi wane susooN sariti
〇罪のない私に朝夕鞭を打ち噂を持ち出して私は粗末にされて
語句・ぶち鞭。むち。・かきてぃ (鞭で)打って。・すそーんさりてぃ
9、哀り泣く泣くに 出じゃさりてぃ我身や 落てぃてぃ花ぬ島 行ちゅる身ぬ苦りしゃ
'あわりなくなくに'んじゃさりてぃわみや うてぃてぃはなぬしま'いちゅるみぬくりしゃ
'awari nakunaku ni 'Njasariti wami ya utiti hana nu shima 'ichuru mi nu kurisha
〇哀れ泣く泣くうちに家を出されて私は落ちて遊郭に行く身の辛さよ!
語句・んじゃさりてぃ(家を)出されて。<んじゃすん。出す。・はなぬしま遊里。花街。遊郭。
10、 胸内や焼きてぃ 色に表さん 知らぬ客びれや 尾類小の勤め
'んに'うちややきてぃ'いるに'あらわさん しらんちゃくびれーやじゅりぐゎーぬちとぅみ
'Nni'uchi ya yakiti 'iru ni 'arawasaN siiraN chakubiree ya jurigwaa nu chitumi
〇胸中は焼けても表には出さない 見知らぬ客との付き合いは女郎のつとめ
語句・いる顔色。・ちゃくびれー客との付き合い。<ふぃれー。付き合い。
解説
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(沖縄恨み節 沖縄島唄 大城美佐子)
大城美佐子さん(故人)をはじめ多くの女性唄者によって唄われてきた女性哀歌。
昭和初期につくられたとみられている。仲宗根幸市氏によれば、昭和5年頃に屋我地島の方によって作詞作曲されたという。
作者の氏名は判明しているが地域との兼ね合いで発表はされていない。
また当時実在した女性の半生をつづっているため、作者はそれに配慮して「天底」(今帰仁村)生まれということにしたらしい。
ヤンバルに生まれたこのウタは戦後も多くの人々に伝えられ、特に関西に住む沖縄出身者にも愛唱された。
このウタが生まれた1930年代、大不況の日本は戦争という暗黒時代に突入していた。
厳しい差別と貧困の中で沖縄の女性たちの権利も抑えられ、本土に出稼ぎに行くも、遊郭の仕事に転落していく。
「島うた紀行 第1集」(琉球新報カルチャーセンター)によると原作は13番まであり、今回紹介したものは大城美佐子さんが唄われたものだが、1996年頃に短縮された「元天底節」だと思われる。
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▲天底は今帰仁村にあり、屋我地島は名護市。我部には昔モーアシビが盛んであったことを示す「平松の碑」がある。(参照 ヨーテー節)
今帰仁村ホームページより
「天底は今帰仁村の東側に位置し、1719年に現在の本部町伊豆昧付近から移動してきた村(ムラ)である。天底にはアミスガーがあり、淡水のシマチスジノリが自生している(県指定天然記念物)。当初、集落は神アサギや御嶽(ウタキ)あたりに移動するが、明治以降になると、さらに天底小学校から山岳(サンタキ)あたりに移動する。天底から屋我地に向けて道路ができ、屋我地島と天底との間に橋が架かり、そこから古宇利大橋へとつながる予定である。」
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2019年頃の大城美佐子さん。
なちじんあみすくぶし
nachijiN 'amisuku bushi
語句・なちじん 今帰仁村(なきじんそん)。・あみすく「天底」という村。「あみす」とも呼んだ。
歌三線 大城美佐子 (CD「沖縄恨み節」より)
作者不詳
1、我が生まり島や 枯木山原ぬ 今帰仁の天底 仲本ぬ産子
わが'んまりじまや かりきやんばるぬ なちじんぬ'あみすく なかむとぅぬなしぐゎー
waga 'Nmarijima ya kariki yaNbaru nu nachijiN nu 'amisuku nakamutu nu nashigwaa
〇私の生まれ故郷は枯木のようにさみしい山原の今帰仁は天底の仲本家の子ども
語句・かりき枯れ木。さびしい様子の例え。・なかむとぅ「仲本」という屋号の家。・なしぐゎー子ども。
2、七ちなる年に 二とぅくるぬ親や 我身一人残ち くぬ世界に参らん
ななちなるとぅしにたーとぅくるぬ'うややわみちゅいぬくち くぬしけーにもーらん
nanachinaru tushi ni taatukuru nu 'uyaya wami chui nukuchi kunu shikee ni mooraN
〇七つになる年にお二人の親は私を一人残してこの世界にいらっしゃらなくなった
3、十八なるまでぃや 伯母一人頼てぃ 暮らち居る内に 行ち欲さや大阪
じゅーはちなるまでぃや うばまちゅいたゆてぃくらちうる'うちに'いちぶさや[おおさか]
juuhachi narumadi ya wubamaa chui tayuti kurachiuru 'uchi ni 'ichibusa ya [oosaka]
〇十八になるまでは叔母一人を頼って暮らしているうちに行きたくなった大阪に
語句・うばま 叔母、伯母。
4、情ある伯母 云言葉んすむち 大阪北恩加島(きたおかじま)街頼てぃ来やしが
なさき'あるうぅばまー'いくとぅばんすむち[おおさかきたおかじま]まちたゆてぃ ちゃーしが
nasaki'aru wubamaa 'ikutubaN shumuchi[大阪北恩加島]machi tayuti chaashiga
〇情けある叔母の言葉にも背き大阪北恩加島街を頼ってきたが
5、かかるかたねらん 縋がるかたねらん 我部ぬ新垣ぬ嫁に我なやい
かかるかたねーらん しがるかたねーらん がぶぬ'あらがちぬゆみにわねなやい
kakarukata neeraN shigarukata neeraN gabunu 'aragachi nu yumi ni wane nayai
〇頼れる人は全くいない すがれる人もいない 我部の新垣家の嫁に私はなって
語句・かかるかた 頼れる人。<かかゆん。頼る。・がぶ 今帰仁村の東隣にある屋我地島の字名。昔からモーアシビが盛んな地域。
6、一年二年や 梅とぅ鴬ぬ如に 暮らち居る内に 産子一人でぃきてぃ
ちゅとぅたーとぅや'んみとぅ'うぐいしぬぐとぅにくらち'うる'うちに なしぐゎーちゅいでぃきてぃ
chu tu taa tu ya 'Nmi tu 'uguishi nu gutu ni kurachi 'uru'uchi ni nashigwaa chui dikiti
〇一、二年は梅と鴬のように(仲良く)暮らしているうちに子供が一人できて
語句・んみとぅうぐいし仲良しのたとえ。
7、産子引ち連りてぃ 里が島来ーりば 里が母親に あくむくゆさりてぃ
なしぐゎーふぃちちりてぃ さとぅがしまちゃーりば さとぅがふぁーふぁーうやにあくむくゆさりてぃ
nashigwaa hwichichiriti satuga shima chaariba satuga hwahwa'uya ni 'akumuku yu sariti
〇子供引き連れて故郷にきてみたら彼の母親に悪い報いをされて
語句・あくむく悪い報い。いじめ。・ゆを。
8、罪無らん我身に 朝夕ぶちかきてぃ 噂むち明かち我ねすそーんさりてぃ
ちみねーらんわみに'あさゆーぶちかきてぃ うわさむちあかち わねすそーんさりてぃ
chimineeraN wami ni 'asayuu buchikakiti 'uwasa muchi 'akachi wane susooN sariti
〇罪のない私に朝夕鞭を打ち噂を持ち出して私は粗末にされて
語句・ぶち鞭。むち。・かきてぃ (鞭で)打って。・すそーんさりてぃ
9、哀り泣く泣くに 出じゃさりてぃ我身や 落てぃてぃ花ぬ島 行ちゅる身ぬ苦りしゃ
'あわりなくなくに'んじゃさりてぃわみや うてぃてぃはなぬしま'いちゅるみぬくりしゃ
'awari nakunaku ni 'Njasariti wami ya utiti hana nu shima 'ichuru mi nu kurisha
〇哀れ泣く泣くうちに家を出されて私は落ちて遊郭に行く身の辛さよ!
語句・んじゃさりてぃ(家を)出されて。<んじゃすん。出す。・はなぬしま遊里。花街。遊郭。
10、 胸内や焼きてぃ 色に表さん 知らぬ客びれや 尾類小の勤め
'んに'うちややきてぃ'いるに'あらわさん しらんちゃくびれーやじゅりぐゎーぬちとぅみ
'Nni'uchi ya yakiti 'iru ni 'arawasaN siiraN chakubiree ya jurigwaa nu chitumi
〇胸中は焼けても表には出さない 見知らぬ客との付き合いは女郎のつとめ
語句・いる顔色。・ちゃくびれー客との付き合い。<ふぃれー。付き合い。
解説
(沖縄恨み節 沖縄島唄 大城美佐子)
大城美佐子さん(故人)をはじめ多くの女性唄者によって唄われてきた女性哀歌。
昭和初期につくられたとみられている。仲宗根幸市氏によれば、昭和5年頃に屋我地島の方によって作詞作曲されたという。
作者の氏名は判明しているが地域との兼ね合いで発表はされていない。
また当時実在した女性の半生をつづっているため、作者はそれに配慮して「天底」(今帰仁村)生まれということにしたらしい。
ヤンバルに生まれたこのウタは戦後も多くの人々に伝えられ、特に関西に住む沖縄出身者にも愛唱された。
このウタが生まれた1930年代、大不況の日本は戦争という暗黒時代に突入していた。
厳しい差別と貧困の中で沖縄の女性たちの権利も抑えられ、本土に出稼ぎに行くも、遊郭の仕事に転落していく。
「島うた紀行 第1集」(琉球新報カルチャーセンター)によると原作は13番まであり、今回紹介したものは大城美佐子さんが唄われたものだが、1996年頃に短縮された「元天底節」だと思われる。
▲天底は今帰仁村にあり、屋我地島は名護市。我部には昔モーアシビが盛んであったことを示す「平松の碑」がある。(参照 ヨーテー節)
今帰仁村ホームページより
「天底は今帰仁村の東側に位置し、1719年に現在の本部町伊豆昧付近から移動してきた村(ムラ)である。天底にはアミスガーがあり、淡水のシマチスジノリが自生している(県指定天然記念物)。当初、集落は神アサギや御嶽(ウタキ)あたりに移動するが、明治以降になると、さらに天底小学校から山岳(サンタキ)あたりに移動する。天底から屋我地に向けて道路ができ、屋我地島と天底との間に橋が架かり、そこから古宇利大橋へとつながる予定である。」
2019年頃の大城美佐子さん。
2024年09月18日
夜半参り
夜半参り
やはんめー
yahaNmee
◯ 夜半参り
歌詞は「ふたり唄〜ウムイ継承〜」(大城美佐子、よなは徹)より筆者聴き取り。
一、(男)今日やぬがやゆら 寝てぃん寝らりらん 心うかさりてぃ 出じてぃ行ちゅん
きゆやぬがやゆら にてぃんにらりらん くくるうかさりてぃ んじてぃいちゅん
kiyu ya nuuga yayura nitiN nirariraN kukuru 'ukasariti 'Njiti 'ichuN
◯ 今日はなんだろうか 寝ても寝られない 心がおかしくなって(家から)出て来た
語句・うかさりてぃ<うかさん。おかしい。可笑しい。滑稽である。の受け身→おかしくなって
二、 (女)しばし待ちみしょり 物ゆ頼まびら 片時やくまに休でぃたぼり
しばしまちみしょり むぬゆたぬまびら かたとぅちやうまにやしでぃたぼり
shibashi machi mishoori munu yu tanumabira katatuchi ya kuma ni yadhiditaboori
◯ 少しお待ちください ある事をお願いしたいのです 少しの時間ここにお休みください
三、 (男)姿見ーでー男 声聞きば女 肝不思議でむぬ 急じ戻ら
しがたんーでーゐきが くいちきばゐなぐ ちむふしぢでむぬ いすじむどうら
shigata Nndee wikiga kui chikiba winagu chimu hushiji demunu 'isuji mudura
◯ 姿を見たらば男 声聞けば女 心から不思議である 急いで戻りたい
語句・んーでー見れば。<んーぢゅん。見る。過去仮定形。・ちむふしぢ心から不思議。・むどぅら 戻ろう。戻りたい。
四、 (女)男身にやちり 百日に通てぃ 忍でぃ来る心 思てぃたぼり
ゐきがみーにやちり ひゃくにちにかゆてぃ しぬでぃちゃーるくくる うむてぃたぼり
wikigamii ni yachiri hyakunichi ni kayuti shinudi chaaru kukuru 'umutitaboori
◯ 男の姿に変装し 百日通って忍んで来たという心をお思いください
語句・やちり変装して。
五、 (男)百日ん通てぃ 思いあらやしが 浮世義理ぬ上や 我自由ならん
ひゃくにちんかゆてぃ うむいあらやしが うちゆぢりぬうぃや わじゆならん
hyakunichiN kayuti 'umui 'arayashiga 'uchiyu jiri nu 'wii ya wa jiyu naraN
◯ 百日も通って思い(愛)があるのだろうけれど 浮世の義理の上(に生きる)私は自由にはならない
六、 (女)むしか里いちゃてぃ ならんうぬ時や 共に計らゆる覚悟やたん
むしかさとぅいちゃてぃ ならんうぬとぅちや とぅむにはからゆるかくぐやたん
mushika satu 'ichati naraN 'unu tuchi ya tumu ni hakarayuru kakugu yataN
◯ もしか貴方と出会って(どうにも)ならないその時は 共に(死を)計る覚悟でございます
語句・いちゃてぃ出会って。<いちゃゆん。出会う。「行き会う」は江戸時代にも使われていた言葉でもある。
七、 (男)命ゆい他に重さしやねらん 義理んうし退きてぃ無蔵になりら
いぬちゆいふかに んぶさしやねーらん ぢりんうしぬきてぃ んぞになりら
'inuchi yui hukani 'Nbusashi ya neeraN jiriN 'ushinukiti Nzo ni narira
◯ 命より他に重いものはない 義理を押し除けて貴女と親密になろう(愛そう)
語句・なりら「馴りら」という漢字が当ててある。親密になる。
八、(女)天ぬ氏神ん まささあてぃたぼち 里連りてぃ宿に戻る嬉しゃ
てぃんぬうじがみん まささあてぃたぼち さとぅちりてぃやどぅきむどぅるうりしゃ
tiN nu 'ujigamiN masasa 'ati taboochi satu chiriti yadu ni muduru 'urisha
◯ 天の氏神も優れてくださって 貴方を連れて家に戻る(のは)嬉しいことよ!
語句・まささ優れていること。
【解説】
ある女性がある男性への恋の成就を神仏に願うために夜中に拝所に願を掛けることを「夜半参」(やはんめー)と呼ぶが、その願いが叶うというストーリーのコンビ唄である。
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「ふたり唄 ウムイ継承」(大城美佐子&よなは徹)に収録されている。
このウタは明治期に盛んとなった歌劇の一つであり、同名の「夜半参」の中で交わされる男女のやり取りと類似している。
歌劇「夜半参」は、1910年に上演された短編喜歌劇で、この真剣な二人のやりとりを覗き、あわよくば女性の相手となろうとする男二人とその妻たちのドタバタの様子を描いている。
京都芸術大学「瓜生通信」には歌劇「夜半参」の解説として
「沖縄芝居は、明治中期に沖縄県民の娯楽として誕生しました。沖縄芝居である本作品は、1910(明治43)年の初演で、数々の名作を世に送り出した我如古弥栄(がねこやえい)作の短編喜歌劇です。
~あらすじ~
恋の成就の為、お百度参りに来る若い女性。その噂を聞きつけた村の男二人は、こっそりと様子を窺いに出かけます。念願叶った女は、意中の若侍とめぐり会い、二人の恋は成就しますが、納得いかない村の男二人。その妻二人も夫の行方を捜しに出かけ、てんやわんやの騒動となります。」((https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/995))
その歌劇の脚本が記録された「昭和五十五年度無形文化財記録作成 歌劇 夜半参」(沖縄俳優協会補綴)には、このような解説がある。
「概説
夜半参は、お冠船踊の後に発生した一つの驚くべき現象であった。
お冠船踊は、琉球の国劇で、中国から冊封使が来たとき、その歓待のために催した劇と踊りで、首里三平中から立派な男達を選んで、踊りや劇の役割りをしたものである。 その美しい男を、女が見そめて夜半、人絶えた頃に男装して拝所に参り、 思う男に会わしめ給えと願かけをしたのである。
田舎には原遊びがあって、思う男女がかんたんに会うことができたが首里にはそれがなかったので、命を的にして、夜半参をする女が現われたのである。深窓にたれこめた娘たちに、男と遊ぶ機会が絶対になかったので、娘の中で勇敢なものが、この驚くべき夜半参りをするようになったものであろう。」
琉球王朝が中国からの冊封使歓待のために作り上げた御冠船踊が夜半参のきっかけだったと言う。
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各地での夜半参
これまでも当拙ブログでは、八重山民謡の「月ぬまぴろーま節」を取り上げ、その中の「夜半参」に注目したが、2024年に18年ぶりに開かれた今帰仁ミャークニー大会でも「夜半参」という語句を含む琉歌を唄った。
その歌詞は
遊びする屋我地 恋路する涌川
夜半参ぬ立ちゅせ 天底門口
〇モーアシビをした屋我地 恋を通わせた湧川 夜半参りが立つ天底の門口
「夜半参」が八重山から今帰仁でも行われていたことがわかる。
また首里の末吉公園には「夜半参り御嶽(ヤハンメーウタキ)」と呼ばれた荒神が祀られた場所があるという。女性がイリガン(髪を膨らませるために自毛で作ったもの)を備えて祈ったようだ。
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(今帰仁村天底にある「天底毘沙門大主」。男子禁制の拝所。もしかしたらこのような場所で夜半参が行われたのかもしれない)
やはんめー
yahaNmee
◯ 夜半参り
歌詞は「ふたり唄〜ウムイ継承〜」(大城美佐子、よなは徹)より筆者聴き取り。
一、(男)今日やぬがやゆら 寝てぃん寝らりらん 心うかさりてぃ 出じてぃ行ちゅん
きゆやぬがやゆら にてぃんにらりらん くくるうかさりてぃ んじてぃいちゅん
kiyu ya nuuga yayura nitiN nirariraN kukuru 'ukasariti 'Njiti 'ichuN
◯ 今日はなんだろうか 寝ても寝られない 心がおかしくなって(家から)出て来た
語句・うかさりてぃ<うかさん。おかしい。可笑しい。滑稽である。の受け身→おかしくなって
二、 (女)しばし待ちみしょり 物ゆ頼まびら 片時やくまに休でぃたぼり
しばしまちみしょり むぬゆたぬまびら かたとぅちやうまにやしでぃたぼり
shibashi machi mishoori munu yu tanumabira katatuchi ya kuma ni yadhiditaboori
◯ 少しお待ちください ある事をお願いしたいのです 少しの時間ここにお休みください
三、 (男)姿見ーでー男 声聞きば女 肝不思議でむぬ 急じ戻ら
しがたんーでーゐきが くいちきばゐなぐ ちむふしぢでむぬ いすじむどうら
shigata Nndee wikiga kui chikiba winagu chimu hushiji demunu 'isuji mudura
◯ 姿を見たらば男 声聞けば女 心から不思議である 急いで戻りたい
語句・んーでー見れば。<んーぢゅん。見る。過去仮定形。・ちむふしぢ心から不思議。・むどぅら 戻ろう。戻りたい。
四、 (女)男身にやちり 百日に通てぃ 忍でぃ来る心 思てぃたぼり
ゐきがみーにやちり ひゃくにちにかゆてぃ しぬでぃちゃーるくくる うむてぃたぼり
wikigamii ni yachiri hyakunichi ni kayuti shinudi chaaru kukuru 'umutitaboori
◯ 男の姿に変装し 百日通って忍んで来たという心をお思いください
語句・やちり変装して。
五、 (男)百日ん通てぃ 思いあらやしが 浮世義理ぬ上や 我自由ならん
ひゃくにちんかゆてぃ うむいあらやしが うちゆぢりぬうぃや わじゆならん
hyakunichiN kayuti 'umui 'arayashiga 'uchiyu jiri nu 'wii ya wa jiyu naraN
◯ 百日も通って思い(愛)があるのだろうけれど 浮世の義理の上(に生きる)私は自由にはならない
六、 (女)むしか里いちゃてぃ ならんうぬ時や 共に計らゆる覚悟やたん
むしかさとぅいちゃてぃ ならんうぬとぅちや とぅむにはからゆるかくぐやたん
mushika satu 'ichati naraN 'unu tuchi ya tumu ni hakarayuru kakugu yataN
◯ もしか貴方と出会って(どうにも)ならないその時は 共に(死を)計る覚悟でございます
語句・いちゃてぃ出会って。<いちゃゆん。出会う。「行き会う」は江戸時代にも使われていた言葉でもある。
七、 (男)命ゆい他に重さしやねらん 義理んうし退きてぃ無蔵になりら
いぬちゆいふかに んぶさしやねーらん ぢりんうしぬきてぃ んぞになりら
'inuchi yui hukani 'Nbusashi ya neeraN jiriN 'ushinukiti Nzo ni narira
◯ 命より他に重いものはない 義理を押し除けて貴女と親密になろう(愛そう)
語句・なりら「馴りら」という漢字が当ててある。親密になる。
八、(女)天ぬ氏神ん まささあてぃたぼち 里連りてぃ宿に戻る嬉しゃ
てぃんぬうじがみん まささあてぃたぼち さとぅちりてぃやどぅきむどぅるうりしゃ
tiN nu 'ujigamiN masasa 'ati taboochi satu chiriti yadu ni muduru 'urisha
◯ 天の氏神も優れてくださって 貴方を連れて家に戻る(のは)嬉しいことよ!
語句・まささ優れていること。
【解説】
ある女性がある男性への恋の成就を神仏に願うために夜中に拝所に願を掛けることを「夜半参」(やはんめー)と呼ぶが、その願いが叶うというストーリーのコンビ唄である。
「ふたり唄 ウムイ継承」(大城美佐子&よなは徹)に収録されている。
このウタは明治期に盛んとなった歌劇の一つであり、同名の「夜半参」の中で交わされる男女のやり取りと類似している。
歌劇「夜半参」は、1910年に上演された短編喜歌劇で、この真剣な二人のやりとりを覗き、あわよくば女性の相手となろうとする男二人とその妻たちのドタバタの様子を描いている。
京都芸術大学「瓜生通信」には歌劇「夜半参」の解説として
「沖縄芝居は、明治中期に沖縄県民の娯楽として誕生しました。沖縄芝居である本作品は、1910(明治43)年の初演で、数々の名作を世に送り出した我如古弥栄(がねこやえい)作の短編喜歌劇です。
~あらすじ~
恋の成就の為、お百度参りに来る若い女性。その噂を聞きつけた村の男二人は、こっそりと様子を窺いに出かけます。念願叶った女は、意中の若侍とめぐり会い、二人の恋は成就しますが、納得いかない村の男二人。その妻二人も夫の行方を捜しに出かけ、てんやわんやの騒動となります。」((https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/995))
その歌劇の脚本が記録された「昭和五十五年度無形文化財記録作成 歌劇 夜半参」(沖縄俳優協会補綴)には、このような解説がある。
「概説
夜半参は、お冠船踊の後に発生した一つの驚くべき現象であった。
お冠船踊は、琉球の国劇で、中国から冊封使が来たとき、その歓待のために催した劇と踊りで、首里三平中から立派な男達を選んで、踊りや劇の役割りをしたものである。 その美しい男を、女が見そめて夜半、人絶えた頃に男装して拝所に参り、 思う男に会わしめ給えと願かけをしたのである。
田舎には原遊びがあって、思う男女がかんたんに会うことができたが首里にはそれがなかったので、命を的にして、夜半参をする女が現われたのである。深窓にたれこめた娘たちに、男と遊ぶ機会が絶対になかったので、娘の中で勇敢なものが、この驚くべき夜半参りをするようになったものであろう。」
琉球王朝が中国からの冊封使歓待のために作り上げた御冠船踊が夜半参のきっかけだったと言う。
各地での夜半参
これまでも当拙ブログでは、八重山民謡の「月ぬまぴろーま節」を取り上げ、その中の「夜半参」に注目したが、2024年に18年ぶりに開かれた今帰仁ミャークニー大会でも「夜半参」という語句を含む琉歌を唄った。
その歌詞は
遊びする屋我地 恋路する涌川
夜半参ぬ立ちゅせ 天底門口
〇モーアシビをした屋我地 恋を通わせた湧川 夜半参りが立つ天底の門口
「夜半参」が八重山から今帰仁でも行われていたことがわかる。
また首里の末吉公園には「夜半参り御嶽(ヤハンメーウタキ)」と呼ばれた荒神が祀られた場所があるという。女性がイリガン(髪を膨らませるために自毛で作ったもの)を備えて祈ったようだ。
(今帰仁村天底にある「天底毘沙門大主」。男子禁制の拝所。もしかしたらこのような場所で夜半参が行われたのかもしれない)
2024年07月06日
クバ笠小
くば笠小
くばがさ ぐゎー
kubagasa gwaa
◯くば笠
語句・くばヤシ科の常緑高木。一般ではビロウと呼ばれる。日笠の他にはミノ、扇などを作る。聖地、拝所に多い。「久葉」とも書く。・ぐゎー①小さいものへの愛称②子どもの愛称③少量④蔑称などの用法がある。ここでは愛称に近い。
一、サヨサー 里前が 情きぬくば笠小 里前が 情きぬくば笠小 ちーいしてぃちーいしてぃ 眺みてぃ遊ばな 語らてぃ 遊ばなや くば笠小 ハーリヌヨーユーイヤサー 語らてぃ 遊ばなや
さよさー さとぅめーがなさきぬくばがさぐゎー さとぅめーがなさきぬくばがさぐゎー ちーゐしてぃ ちーゐしてぃ ながみてぃあしばな かたらてぃ あしばなや くばがさぐゎー はーりぬよーゆーいやさー かたらてぃ あしばなや
sayoosaa satumee ga nasaki nu kubagasagwaa satumee ga nasaki nu kubagasagwaa chii yishiti chii yishiti nagamiti 'ashibana katarati 'ashibana yaa kubagasagwaa haari nu yoo yui ya naa katarati 'ashibana yaa
['の記号は声門破裂音]
◯愛する彼の愛情であるくば笠。ちょっと置いて眺めて遊びたいな。仲良くなって遊びたいな、くば笠
語句・さとぅめー愛する彼氏。女性が男の恋人をいう語。・の。・ちー動詞の前について、「ちょっと〜する」「〜してしまう」・ゐしてぃ置いて。<yishiyuN いしゆん。すえる。置く。「ゐ」の発音に注意。声門破裂音がない「yi」。・かたらてぃ仲良くなって。「語ら」と当て字がされているが意味は「語る」よりも「仲間に入れる」。<かたらゆん。仲間に入れる。味方にする。この「かた」は味方の「かた」に近い。九州には「かたれー」といえば「仲間になれ」という意味の方言がある。
二、サヨサー 花染手巾や 前に結でぃ 花染手巾や 前に結でぃ 美らむぬや 美らむぬや くば笠 ソイソイ 女童遊ぶさや くば笠小 ハーリヌヨーユイヤサー 女童遊ぶさや
さよさー はなじゅみてぃーさーじや めーにむしでぃ はなじゅみてぃーさーじや めーにむしでぃ ちゅらむぬや ちゅらむぬや くばがさ そいそい みやらび あしぶさやー くばがさぐゎー はーりぬゆよー ゆいやさー みやらび あしぶさやー
sayoosaa hanajumitiisaaji ya mee ni mushidi hanajumitiisaaji ya mee ni mushidi churamunu yaa churamunu yaa kubagasa soisoi miyarabi 'ashibusa yaa kubagasa haarinu yoo yuiyasaa miyarabi 'ashibusa yaa
◯花染め手拭いを前に結び 美しいねえ くばがさ笠(で)娘は遊びたいねえ
語句・はなじゅみ「はなずみ」とも言う。「花染め手拭」は着物を織った残りの糸で女性が思いを込めて織ったもの。「手拭い」というが汗を拭く実用性より女性が男性に思いを伝える象徴的な「お守り」のようなもの。現代では文字通りの「手拭い」布のようなものを指している。・めーにむしでぃいわゆる「前結び」は頭の前で手拭いを結ぶ。粋な雰囲気がある。・みやらび娘。「美童」と当て字を使う場合があるが、本来は「女童」で、未婚の娘を指した。・あしぶさとても遊びたい。接尾語の「〜ぶしゃん」「ぶさん」は体言形「ぶしゃ」「ぶさ」で止めると「とても〜したい」となる。
三、サヨサー かんしてぃ 美らさやくば笠小 かんしてぃ 美らさやくば笠小 美らむぬや 美らむぬや かんしてぃうかさや恩義とぅ ふくしんや くば笠小 ハーリヌヨーユイヤサー 恩義とう ふくしんや
さよさー かんしてぃ ちゅらさや くばがさぐゎー かんしてぃ ちゅらさや くばがさぐゎー ちゅらむぬやー ちゅらむぬやー かんしてぃ うかさや うんじ とぅ ふくしんやー くばがさぐゎー はーりぬよーゆいやさー うんじ とぅ ふくしんやー
sayoosaa kaNshiti churasa ya kubagasagwaa kaNshiti churasa ya kubagasagwaa churamunu yaa churamunu yaa kaNshiti wukasa ya wuNji tu hukushiN yaa kubagasagwaa haarinuyoo yuiyasaa wuNji tu hukushiN yaa
◯かぶせて美しいのはくば笠。美しいものだ。かぶせて滑稽なのは恩義と埃だ。
語句・かんしてぃ被せて。かぶせて。<かんしゆん。かぶせる。かぶらせる。・うかさや 滑稽なのは。<うかしゃん。滑稽な。ukashaN←声門破裂音がないのでwukashaNとも。+や。〜は。・うんじ恩義。こちらも声門破裂音がない。・ふくしん 埃。粉塵のようなもの。辞書には見当たらない。
四、サヨサー 沖縄育ちぬくば笠小 沖縄育ちぬくば笠小 働ち者 働ち者 雨風うきてぃん 意地りどぅ 第一や くば笠小 ハーリヌヨーユイヤサー 意地りどぅ 第一どー
さよさー うちなーすだちぬくばがさぐゎー
うちなーすだちぬくばがさぐゎー はたらちむん はたらちむん あみかじうきてぃん いじりどぅ でーいちやー くばがさぐゎー はーりぬよーゆいやさー いじりどぅでーいちどー
sayoosaa 'uchinaa sudachi nu kubagasagwaa 'uchinaa sudachi nu kubagasagwaa hatarachimuN hatarachimuN 'amikaji 'ukitiN 'ijiri du deeichi yaa kubagasagwaa haarinuyoo yuiyasaa 'ijiri du deeichi doo
◯沖縄育ちのくば笠は働き者。雨風受けても意気地こそ第一だ。
語句・いじり意気地。気力。「いじ」とも言うが、こちらは意地、意気地、に加え勇気や怒りという意味も含まれる。
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(「くば笠小」カセットテープ)
解説
作詞・作曲は比嘉恒敏氏。「艦砲ぬ喰え残くさ」という人気高い沖縄民謡を生み出した人物。その娘さんたちはデイゴ娘というグループで、このウタを唄い継いでいる。
沖縄戦では4人に1人の県民が亡くなったが、その庶民を「艦砲射撃の食い残し」とし、圧倒的な米軍の攻撃に抵抗することもできずに逃げ回ったという沖縄県民の悲劇、惨劇を描いている。それはすなわち第二次大戦で沖縄を「捨て石」にした日本への怒りが込められている。
その比嘉恒敏氏が作詞・作曲をした「くば笠小」もまた沖縄県民に愛されている民謡の一つだ。
筆者は今帰仁のある方のお宅を訪問している時に、三番の「恩義とふくしん」の「ふくしん」について意味を尋ねられた。
すぐに 嘉手苅林次師匠に尋ねると「埃のことだ」と教えられた。さらにグループでいご娘さんの比嘉けい子さんに直接お話しする機会があり、お聞きすると師匠同様に「埃」だと伺った。比嘉けい子さんによれば「ふくしん」以外にも地域によって言い方が変わるという。
琉球語辞典(半田一郎)には「ふくい」(埃[ほこり])、「ふくちち」(ごみ、埃[ほこり]」の二つがある。
くば笠の美しさ、彼氏からもらったくば笠に愛着を持つ娘の気持ちを優しくうたいながらも、「かぶらせて可笑しいのは恩義と埃だ」と人生の教訓までも辛口で織り込んでいる。比嘉恒敏さんが子どもたちに伝えたかった「ゆしぐとぅ」(教訓)の一つなのだろう。
「語って」と理解しがちな「かたらてぃ」の訳にも注意したい。詳しくは一番の語句解説を参照。
くばがさ ぐゎー
kubagasa gwaa
◯くば笠
語句・くばヤシ科の常緑高木。一般ではビロウと呼ばれる。日笠の他にはミノ、扇などを作る。聖地、拝所に多い。「久葉」とも書く。・ぐゎー①小さいものへの愛称②子どもの愛称③少量④蔑称などの用法がある。ここでは愛称に近い。
一、サヨサー 里前が 情きぬくば笠小 里前が 情きぬくば笠小 ちーいしてぃちーいしてぃ 眺みてぃ遊ばな 語らてぃ 遊ばなや くば笠小 ハーリヌヨーユーイヤサー 語らてぃ 遊ばなや
さよさー さとぅめーがなさきぬくばがさぐゎー さとぅめーがなさきぬくばがさぐゎー ちーゐしてぃ ちーゐしてぃ ながみてぃあしばな かたらてぃ あしばなや くばがさぐゎー はーりぬよーゆーいやさー かたらてぃ あしばなや
sayoosaa satumee ga nasaki nu kubagasagwaa satumee ga nasaki nu kubagasagwaa chii yishiti chii yishiti nagamiti 'ashibana katarati 'ashibana yaa kubagasagwaa haari nu yoo yui ya naa katarati 'ashibana yaa
['の記号は声門破裂音]
◯愛する彼の愛情であるくば笠。ちょっと置いて眺めて遊びたいな。仲良くなって遊びたいな、くば笠
語句・さとぅめー愛する彼氏。女性が男の恋人をいう語。・の。・ちー動詞の前について、「ちょっと〜する」「〜してしまう」・ゐしてぃ置いて。<yishiyuN いしゆん。すえる。置く。「ゐ」の発音に注意。声門破裂音がない「yi」。・かたらてぃ仲良くなって。「語ら」と当て字がされているが意味は「語る」よりも「仲間に入れる」。<かたらゆん。仲間に入れる。味方にする。この「かた」は味方の「かた」に近い。九州には「かたれー」といえば「仲間になれ」という意味の方言がある。
二、サヨサー 花染手巾や 前に結でぃ 花染手巾や 前に結でぃ 美らむぬや 美らむぬや くば笠 ソイソイ 女童遊ぶさや くば笠小 ハーリヌヨーユイヤサー 女童遊ぶさや
さよさー はなじゅみてぃーさーじや めーにむしでぃ はなじゅみてぃーさーじや めーにむしでぃ ちゅらむぬや ちゅらむぬや くばがさ そいそい みやらび あしぶさやー くばがさぐゎー はーりぬゆよー ゆいやさー みやらび あしぶさやー
sayoosaa hanajumitiisaaji ya mee ni mushidi hanajumitiisaaji ya mee ni mushidi churamunu yaa churamunu yaa kubagasa soisoi miyarabi 'ashibusa yaa kubagasa haarinu yoo yuiyasaa miyarabi 'ashibusa yaa
◯花染め手拭いを前に結び 美しいねえ くばがさ笠(で)娘は遊びたいねえ
語句・はなじゅみ「はなずみ」とも言う。「花染め手拭」は着物を織った残りの糸で女性が思いを込めて織ったもの。「手拭い」というが汗を拭く実用性より女性が男性に思いを伝える象徴的な「お守り」のようなもの。現代では文字通りの「手拭い」布のようなものを指している。・めーにむしでぃいわゆる「前結び」は頭の前で手拭いを結ぶ。粋な雰囲気がある。・みやらび娘。「美童」と当て字を使う場合があるが、本来は「女童」で、未婚の娘を指した。・あしぶさとても遊びたい。接尾語の「〜ぶしゃん」「ぶさん」は体言形「ぶしゃ」「ぶさ」で止めると「とても〜したい」となる。
三、サヨサー かんしてぃ 美らさやくば笠小 かんしてぃ 美らさやくば笠小 美らむぬや 美らむぬや かんしてぃうかさや恩義とぅ ふくしんや くば笠小 ハーリヌヨーユイヤサー 恩義とう ふくしんや
さよさー かんしてぃ ちゅらさや くばがさぐゎー かんしてぃ ちゅらさや くばがさぐゎー ちゅらむぬやー ちゅらむぬやー かんしてぃ うかさや うんじ とぅ ふくしんやー くばがさぐゎー はーりぬよーゆいやさー うんじ とぅ ふくしんやー
sayoosaa kaNshiti churasa ya kubagasagwaa kaNshiti churasa ya kubagasagwaa churamunu yaa churamunu yaa kaNshiti wukasa ya wuNji tu hukushiN yaa kubagasagwaa haarinuyoo yuiyasaa wuNji tu hukushiN yaa
◯かぶせて美しいのはくば笠。美しいものだ。かぶせて滑稽なのは恩義と埃だ。
語句・かんしてぃ被せて。かぶせて。<かんしゆん。かぶせる。かぶらせる。・うかさや 滑稽なのは。<うかしゃん。滑稽な。ukashaN←声門破裂音がないのでwukashaNとも。+や。〜は。・うんじ恩義。こちらも声門破裂音がない。・ふくしん 埃。粉塵のようなもの。辞書には見当たらない。
四、サヨサー 沖縄育ちぬくば笠小 沖縄育ちぬくば笠小 働ち者 働ち者 雨風うきてぃん 意地りどぅ 第一や くば笠小 ハーリヌヨーユイヤサー 意地りどぅ 第一どー
さよさー うちなーすだちぬくばがさぐゎー
うちなーすだちぬくばがさぐゎー はたらちむん はたらちむん あみかじうきてぃん いじりどぅ でーいちやー くばがさぐゎー はーりぬよーゆいやさー いじりどぅでーいちどー
sayoosaa 'uchinaa sudachi nu kubagasagwaa 'uchinaa sudachi nu kubagasagwaa hatarachimuN hatarachimuN 'amikaji 'ukitiN 'ijiri du deeichi yaa kubagasagwaa haarinuyoo yuiyasaa 'ijiri du deeichi doo
◯沖縄育ちのくば笠は働き者。雨風受けても意気地こそ第一だ。
語句・いじり意気地。気力。「いじ」とも言うが、こちらは意地、意気地、に加え勇気や怒りという意味も含まれる。
(「くば笠小」カセットテープ)
解説
作詞・作曲は比嘉恒敏氏。「艦砲ぬ喰え残くさ」という人気高い沖縄民謡を生み出した人物。その娘さんたちはデイゴ娘というグループで、このウタを唄い継いでいる。
沖縄戦では4人に1人の県民が亡くなったが、その庶民を「艦砲射撃の食い残し」とし、圧倒的な米軍の攻撃に抵抗することもできずに逃げ回ったという沖縄県民の悲劇、惨劇を描いている。それはすなわち第二次大戦で沖縄を「捨て石」にした日本への怒りが込められている。
その比嘉恒敏氏が作詞・作曲をした「くば笠小」もまた沖縄県民に愛されている民謡の一つだ。
筆者は今帰仁のある方のお宅を訪問している時に、三番の「恩義とふくしん」の「ふくしん」について意味を尋ねられた。
すぐに 嘉手苅林次師匠に尋ねると「埃のことだ」と教えられた。さらにグループでいご娘さんの比嘉けい子さんに直接お話しする機会があり、お聞きすると師匠同様に「埃」だと伺った。比嘉けい子さんによれば「ふくしん」以外にも地域によって言い方が変わるという。
琉球語辞典(半田一郎)には「ふくい」(埃[ほこり])、「ふくちち」(ごみ、埃[ほこり]」の二つがある。
くば笠の美しさ、彼氏からもらったくば笠に愛着を持つ娘の気持ちを優しくうたいながらも、「かぶらせて可笑しいのは恩義と埃だ」と人生の教訓までも辛口で織り込んでいる。比嘉恒敏さんが子どもたちに伝えたかった「ゆしぐとぅ」(教訓)の一つなのだろう。
「語って」と理解しがちな「かたらてぃ」の訳にも注意したい。詳しくは一番の語句解説を参照。
2024年03月11日
ヨーテー節
ヨーテー節 2
よーてーぶし
yootee bushi
語句・よーてー 囃子言葉。地元では「そうだね」という意味だという人がいる。
参考 「ヨーテー節」(玉城慎夫)
1,邑寄しり寄しり 湧川邑寄しり(ヨー) 邑ぬ寄しらりみ 娘小寄しり (よーてー じんとー 娘小寄しり)
※括弧は以下省略
しまゆしりゆしり わくがーしまゆしり (よー) しまぬゆしらりみ あばーぐゎーゆしり (よーてーじんとー あばーぐゎーゆしり)
shima yushiri yushiri wakugaa shima yushiri (yoo) shima nu yushirarimi 'abaagwaa yushiri (yootee 'abaagwaa yushiri)
〇村を寄せろ 寄せろ 湧川の村を寄せろ 村は寄せられないだろう? 娘を寄せろ
語句・しま 村。「邑」を「むら」と読んで歌うときもある。・ゆしり 寄せろ。近くに寄せろ。彼女の住む村を近くに寄せたい、という願望。・あばーぐゎー ねえさん。田舎の言葉だという。「あばー」という。士族では「んみー」、平民は「あんぐゎー」。
2,涌川女童や 天ぬ星心 拝まりやすしが 自由やならん
わくがーみやらびや てぃんぬふしぐくる うがまりやすしが じゆやならん
wakugaa miyarabi ya tiN nu hushi gukuru wugamari ya sushi ga jiyu naraN
〇湧川村の娘は天の星のようなものである 拝むことはできるが 自由にはならない
語句・ぐくる 心(くくる)だが、意味は「~のようなもの」となる。琉歌では定石。
3,兼久下我部や 笠張いや居らに あん美らさマカテ 太陽に照らち
かにくしちゃがぶや かさはいやうらに あんちゅらさ マカテー てぃーだにてぃらち
kaniku shichagabu ya kasahai ya wurani 'annchurasa makatee tiida ni tirachi
〇湧川村の兼久と下我部には笠張り人は居ないのか あんなに美しいマカテーを太陽にさらして
語句・かにく 湧川の小字の一つ。「かにく」「がにく」などは砂地を表す。・しちゃがぶ 現在はない地名。昔、屋我地島に移転されて、後にもでてくる「我部」という地名になった。
4,屋我地姉娘小達が 薪持ち山や ミンチリとぅサジャラ 馬ぬカンジュ
やがじうんみーぐゎーたーが たむんむちやまや みんちりとぅ さじゃら んまぬかんじゅ
yagaji 'Nmiigwaa taa ga tamuN muchi yama ya miNchiri tu sajara Nma nu kaNju
〇屋我地の娘たちが薪を取る山としていたのがミンチリとサジャラ 馬のカンジュという山であった
語句・んみーぐゎー 娘たち歌詞には。「うんみー」と振り仮名があるが声門破裂音がある「んみー」である。士族語で「ねえさん」、未婚の女性にもいう。・たむんむちやま山がない屋我地島の住民が生活するのに(又は塩田の維持のためにも)必要な薪を対岸の湧川の山から取ることが許されていた。湧川の山は杣山(すまやま)として琉球時代から王府が管理した。・みんちりとぅさじゃら んまぬかんじゅ 嵐山のあたりを昔からそう呼んでいたらしい。詳細については今問い合わせ中。
5,朝凪とぅ夕凪 屋我地漕ぎ渡てぃ 我部ぬ平松に思い残ち
「ヨーテー節」にあるので省略。
6,塩炊ちゃ小すりば 色や灼き果てぃてぃ 我がや塩炊ちゃやならんぎさぬ
まーすたちゃーぐゎーすりば いるややきはてぃてぃ わがやまーすたちゃーやならんぎさぬ
maasu tachaa gwaa suriba 'iru ya yakihatiti waga ya maasutachaa ya naraNgisanu
〇塩炊き(塩作り)をすれば 色は焦げ付いて 私は塩炊きは無理なようだ
語句・まーすたちゃー 塩田で海水を濃縮し、かん水を煮詰めて塩を作っていた。
7,東門ぬギギチ 枝持ちぬ美らさ 我貴兄が妻ぬ身持ち美らさ
あがりじょーぬぎぎち ゆだむちぬちゅらさ わーやくみーがとぅじぬ みむちじゅらさ
’agarijoo nu gigichi yudamuchi nu shurasa waa yakumii ga tuji nu mimuchi jurasa
〇東門のゲッキツ 枝の形の美しいことよ 私の兄の嫁の品行の美しいことよ!
語句・ぎぎち ゲッキツ(月橘)。月夜によく香る、白い花をつける。
8,遊びする屋我地 恋路する涌川 夜半参ぬ立ちゅせ 天底門口
あしびするやがじ くいじするわくがー やふぁんめーぬたちゅせー あみすじょーぐち
'ashibi suru yagaji kuiji suru wakugaa yahwaNmee ni tachusee 'amisu jooguchi
〇モーアシビをした屋我地 恋を通わす湧川 夜半参りに立つ天底の門口(不詳)
9、兼久坂下りてぃ 走川ぬ水や 水と思むてぃ飲だれ 潮ばやてる
かにくひらうりてぃ はいかーぬみじや みじとぅむてぃ ぬだれーうしゅばやてーる
kaniku hira 'urithi haikaa nu miji ya miji tumuti nudaree 'ushu ba yateeru
〇兼久の坂を下りてハイカーの水を水だと思って飲めば潮(海水)だった
(解説)
本ブログでは2019年に、ヨーテー節は「島うた紀行」(仲宗根 幸市編著)の歌詞を元に解説した。
川田松夫氏が「西武門節」の歌詞を乗せた元歌である。
「島うた紀行」には元歌と別に「湧川ヨーテー節」として上の歌詞に近いものが掲載されている。
今回は「今帰仁ミャークニー」の歌詞調査をしていた2024年2月に、私に会いに来てくれたKさんからいただいたものを元にして解説している。そこには「湧川ヨーテー節」と書いてなく、ただ「ヨーテー節」とあるのでそのままにした。
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ヨーテー節は屋我地島や今帰仁村湧川で広く今も唄い継がれている。
ミャークニーとヨーテー節
今帰仁ミャークニーの事を調べていくうちに、何故か隣の屋我地島にはミャークニーの痕跡がないことに気づく。今は古宇利大橋がかかり地続きのようになった古宇利島では今帰仁ミャークニーが盛んに唄われたようだ。その代わり屋我地島にはこのヨーテー節があったのだ。
実はヨーテー節とミャークニー、歌詞が共通することも多い。どちらでも唄われる歌詞がある。
さらに似ている部分がある。その話はまたの機会に譲るとして、今帰仁はミャークニー、隣の屋我地島はヨーテー節。さらに屋我地島と羽地内海の極めて浅いところで接し、さらにモーアシビもそれぞれの場所で行われたということで今帰仁湧川にもヨーテー節がある。
さて、上の歌詞の検討に入ろう。1番から3番までは湧川の娘讃歌となっている。湧川の男性が詠んだものより屋我地島の男性が詠んだと考える方が自然か。
薪持ち山
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湧川の嵐山という高台から東を見下ろすと羽地内海を挟んで向こうに屋我地島が見える。そして手前に島々が並び、こちら側は湧川となる。
屋我地島は平坦な島で山がない。当時、材木やたき木などを湧川に渡って取っていた。琉球時代、王府は湧川の山々を「杣山」(すまやま)として管理し屋我地島からも材木やたき木を取りに来ることを認めていた。「たむんとぅやー」(薪取り人)は女性、娘たちだった。
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4番の「ミンチリとぅサジャラ 馬ぬカンジュ」というのは、この山々につけられた名前のようだ。
これは今後少し詳しく調べる。
夜半参
8番の「夜半参に立ちゅる天底門口」がよくわからなかった。沖縄でも「夜半参」は行われ、女性が男性の装いをして神社に百度参りをするものである。明治期の歌劇「夜半参」にも描かれている。
ではどこで行ったのか。「天底門口」はどこなのか、地元の方にも伺ったがわかる方はいなかった。
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天底の私が泊まっていた宿の近くに、天底井戸や神アシャギなどが集まる場所があった。
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結局結論は出ていない。
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▲この歌詞を下さった湧川のKさんにはあちこち案内もしてもらった。
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▲9番の塩水が湧く井戸はここではないか、と連れていってくれた。
よーてーぶし
yootee bushi
語句・よーてー 囃子言葉。地元では「そうだね」という意味だという人がいる。
参考 「ヨーテー節」(玉城慎夫)
1,邑寄しり寄しり 湧川邑寄しり(ヨー) 邑ぬ寄しらりみ 娘小寄しり (よーてー じんとー 娘小寄しり)
※括弧は以下省略
しまゆしりゆしり わくがーしまゆしり (よー) しまぬゆしらりみ あばーぐゎーゆしり (よーてーじんとー あばーぐゎーゆしり)
shima yushiri yushiri wakugaa shima yushiri (yoo) shima nu yushirarimi 'abaagwaa yushiri (yootee 'abaagwaa yushiri)
〇村を寄せろ 寄せろ 湧川の村を寄せろ 村は寄せられないだろう? 娘を寄せろ
語句・しま 村。「邑」を「むら」と読んで歌うときもある。・ゆしり 寄せろ。近くに寄せろ。彼女の住む村を近くに寄せたい、という願望。・あばーぐゎー ねえさん。田舎の言葉だという。「あばー」という。士族では「んみー」、平民は「あんぐゎー」。
2,涌川女童や 天ぬ星心 拝まりやすしが 自由やならん
わくがーみやらびや てぃんぬふしぐくる うがまりやすしが じゆやならん
wakugaa miyarabi ya tiN nu hushi gukuru wugamari ya sushi ga jiyu naraN
〇湧川村の娘は天の星のようなものである 拝むことはできるが 自由にはならない
語句・ぐくる 心(くくる)だが、意味は「~のようなもの」となる。琉歌では定石。
3,兼久下我部や 笠張いや居らに あん美らさマカテ 太陽に照らち
かにくしちゃがぶや かさはいやうらに あんちゅらさ マカテー てぃーだにてぃらち
kaniku shichagabu ya kasahai ya wurani 'annchurasa makatee tiida ni tirachi
〇湧川村の兼久と下我部には笠張り人は居ないのか あんなに美しいマカテーを太陽にさらして
語句・かにく 湧川の小字の一つ。「かにく」「がにく」などは砂地を表す。・しちゃがぶ 現在はない地名。昔、屋我地島に移転されて、後にもでてくる「我部」という地名になった。
4,屋我地姉娘小達が 薪持ち山や ミンチリとぅサジャラ 馬ぬカンジュ
やがじうんみーぐゎーたーが たむんむちやまや みんちりとぅ さじゃら んまぬかんじゅ
yagaji 'Nmiigwaa taa ga tamuN muchi yama ya miNchiri tu sajara Nma nu kaNju
〇屋我地の娘たちが薪を取る山としていたのがミンチリとサジャラ 馬のカンジュという山であった
語句・んみーぐゎー 娘たち歌詞には。「うんみー」と振り仮名があるが声門破裂音がある「んみー」である。士族語で「ねえさん」、未婚の女性にもいう。・たむんむちやま山がない屋我地島の住民が生活するのに(又は塩田の維持のためにも)必要な薪を対岸の湧川の山から取ることが許されていた。湧川の山は杣山(すまやま)として琉球時代から王府が管理した。・みんちりとぅさじゃら んまぬかんじゅ 嵐山のあたりを昔からそう呼んでいたらしい。詳細については今問い合わせ中。
5,朝凪とぅ夕凪 屋我地漕ぎ渡てぃ 我部ぬ平松に思い残ち
「ヨーテー節」にあるので省略。
6,塩炊ちゃ小すりば 色や灼き果てぃてぃ 我がや塩炊ちゃやならんぎさぬ
まーすたちゃーぐゎーすりば いるややきはてぃてぃ わがやまーすたちゃーやならんぎさぬ
maasu tachaa gwaa suriba 'iru ya yakihatiti waga ya maasutachaa ya naraNgisanu
〇塩炊き(塩作り)をすれば 色は焦げ付いて 私は塩炊きは無理なようだ
語句・まーすたちゃー 塩田で海水を濃縮し、かん水を煮詰めて塩を作っていた。
7,東門ぬギギチ 枝持ちぬ美らさ 我貴兄が妻ぬ身持ち美らさ
あがりじょーぬぎぎち ゆだむちぬちゅらさ わーやくみーがとぅじぬ みむちじゅらさ
’agarijoo nu gigichi yudamuchi nu shurasa waa yakumii ga tuji nu mimuchi jurasa
〇東門のゲッキツ 枝の形の美しいことよ 私の兄の嫁の品行の美しいことよ!
語句・ぎぎち ゲッキツ(月橘)。月夜によく香る、白い花をつける。
8,遊びする屋我地 恋路する涌川 夜半参ぬ立ちゅせ 天底門口
あしびするやがじ くいじするわくがー やふぁんめーぬたちゅせー あみすじょーぐち
'ashibi suru yagaji kuiji suru wakugaa yahwaNmee ni tachusee 'amisu jooguchi
〇モーアシビをした屋我地 恋を通わす湧川 夜半参りに立つ天底の門口(不詳)
9、兼久坂下りてぃ 走川ぬ水や 水と思むてぃ飲だれ 潮ばやてる
かにくひらうりてぃ はいかーぬみじや みじとぅむてぃ ぬだれーうしゅばやてーる
kaniku hira 'urithi haikaa nu miji ya miji tumuti nudaree 'ushu ba yateeru
〇兼久の坂を下りてハイカーの水を水だと思って飲めば潮(海水)だった
(解説)
本ブログでは2019年に、ヨーテー節は「島うた紀行」(仲宗根 幸市編著)の歌詞を元に解説した。
川田松夫氏が「西武門節」の歌詞を乗せた元歌である。
「島うた紀行」には元歌と別に「湧川ヨーテー節」として上の歌詞に近いものが掲載されている。
今回は「今帰仁ミャークニー」の歌詞調査をしていた2024年2月に、私に会いに来てくれたKさんからいただいたものを元にして解説している。そこには「湧川ヨーテー節」と書いてなく、ただ「ヨーテー節」とあるのでそのままにした。
ヨーテー節は屋我地島や今帰仁村湧川で広く今も唄い継がれている。
ミャークニーとヨーテー節
今帰仁ミャークニーの事を調べていくうちに、何故か隣の屋我地島にはミャークニーの痕跡がないことに気づく。今は古宇利大橋がかかり地続きのようになった古宇利島では今帰仁ミャークニーが盛んに唄われたようだ。その代わり屋我地島にはこのヨーテー節があったのだ。
実はヨーテー節とミャークニー、歌詞が共通することも多い。どちらでも唄われる歌詞がある。
さらに似ている部分がある。その話はまたの機会に譲るとして、今帰仁はミャークニー、隣の屋我地島はヨーテー節。さらに屋我地島と羽地内海の極めて浅いところで接し、さらにモーアシビもそれぞれの場所で行われたということで今帰仁湧川にもヨーテー節がある。
さて、上の歌詞の検討に入ろう。1番から3番までは湧川の娘讃歌となっている。湧川の男性が詠んだものより屋我地島の男性が詠んだと考える方が自然か。
薪持ち山
湧川の嵐山という高台から東を見下ろすと羽地内海を挟んで向こうに屋我地島が見える。そして手前に島々が並び、こちら側は湧川となる。
屋我地島は平坦な島で山がない。当時、材木やたき木などを湧川に渡って取っていた。琉球時代、王府は湧川の山々を「杣山」(すまやま)として管理し屋我地島からも材木やたき木を取りに来ることを認めていた。「たむんとぅやー」(薪取り人)は女性、娘たちだった。
4番の「ミンチリとぅサジャラ 馬ぬカンジュ」というのは、この山々につけられた名前のようだ。
これは今後少し詳しく調べる。
夜半参
8番の「夜半参に立ちゅる天底門口」がよくわからなかった。沖縄でも「夜半参」は行われ、女性が男性の装いをして神社に百度参りをするものである。明治期の歌劇「夜半参」にも描かれている。
ではどこで行ったのか。「天底門口」はどこなのか、地元の方にも伺ったがわかる方はいなかった。
天底の私が泊まっていた宿の近くに、天底井戸や神アシャギなどが集まる場所があった。
結局結論は出ていない。
▲この歌詞を下さった湧川のKさんにはあちこち案内もしてもらった。
▲9番の塩水が湧く井戸はここではないか、と連れていってくれた。
2022年09月21日
アカバンタ
あかばんた
語句・あかばんた 沖縄県南城市佐敷手登根にある丘の上にある広場の名前。「はんた」は「端。はしっこ」「崖のふち。また崖」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。崖に面した場所を指す。昔は「毛遊び(もーあしび)」という青年男女の交遊が行われた。
【作詩宮城鷹夫 作曲松田弘一】
(歌詞は1〜3は佐敷手登根の歌碑から、4はCDから筆者が聴き取り)
《歌詞、その読み方、簡単な発音記号('は声門破裂音)、そして意味。語句の説明と続く》
一、 むかし名にたちゅる 野遊のハンタ 佐敷手登根のアカバンタやしが 云語れやあても (今の世になれば 恋の枯れ草に 歌声だけ残て)
んかしなーにたちゃる もーあしびぬはんた さしちてぃどぅくんぬ あかばんたやしが いかたれやあてぃん (なまぬゆーになりば くいぬかりくさに うたぐぃだきぬくてぃ)
Nkashi naa ni tachuru mooashibi nu haNta sashichitidukuN nu 'akabaNta yashiga 'ikataree ya 'atiN (nama nu yuu ni nariba kui nu karikusa ni 'utagwi daki nukuti)
【括弧は繰り返しなので以下省略する】
◯昔有名だった毛遊びをした崖のふち 佐敷手登根のアカバンタであるが 男女の契りはあっても今の世になれば 恋の(終わったかのような)枯れ草に歌声だけが残っている
語句・なーにたちゅる 有名な。・いかたれー 「男女の契り。男女の語らい。」【沖辞】。「い」は「云」の当て字がされるが「美称の接頭辞。名詞に付き、意味に特別な価値を添える」【沖辞】とある。「かた」は「語らい」の意味だけでなく「仲間になる」とい意味を含む。「味方」の「かた」と同じ。
二、 三線小ぬ弦に 恋の歌かけて 肩抱ちゃいともて 思い寄る二才小 うり振たるあば小 今の世になれば 恋の枯れ草に 歌声だけ残て
さんしんぐゎーぬ ちるーに くいぬうたかきてぃ かただちゃいとぅむてぃ うみゆゆるにせーぐゎー うりふたるあばーぐゎー
saNshiN gwaa nu chiruu ni kui nu 'uta kakiti katadachai tumuti 'umi yuyuru niseegwaa 'uri hutaru 'abaagwaa
◯三線の弦に恋のウタをのせて 肩を抱こうと思って愛を寄せる青年 それを振った姉さん
語句・ちるー 弦。元は植物の「ツル」から。・にせーぐゎー「にせー」は青年、の意。南九州地方の方言「にせ」と共通。・あばーぐゎー 姉さん。「姉。ねえさん。農村で用いる語。」
三、 マガイ小の遊び アカバンタ遊び 手さじ小や肩に ひっかけてからに ちやねることなたが 今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て
まがいぐゎーぬあしび あかばんたあしび てぃーさじぐゎーや かたに ひっかきてぃからに ちゃねるくとぅなたが
magaigwaa nu 'ashibi 'akabaNta 'ashibi tiisaji ya kata ni hikkakiti karani chaaneeru kutu nata ga
◯マガイ小での遊び、そしてアカバンタでの遊び 手ぬぐいを肩にかけてどんなことになったやら
語句・まがいぐゎー アカバンタの北西に位置する海岸に近い場所を指す。地名では仲伊保。つまりアカバンタとマガイ小と二ヶ所が大きなモーアシビの場所だった。・ちゃーねーる (ちゃー)どんな(ねーる)ように。
四、 アカバンタひらん マガイ小ぬあとぅん 毛遊びぬ花や 松んかりはてぃてぃ みるかたやねさみ 今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て
なまぬよになりば
'akabaNta hiraN magai gwaa nu 'atuN mooashibi nu hana ya machiN karihatiti mirukata ja neesami
◯アカバンタの坂もマガイ小の跡も モーアシビの花(女性)も松(男性)も枯れ果てて みる所もないのだ
語句・ひら 坂。古事記でも「比良」という。・さみ 「…なのだぞ。…なんだよ。」【沖辞】。ねー(ない)さみ(のだよ)。
【歌碑にある琉歌より】
アカバンタ坂や手登根の腰当て 花も咲き美らしゃ島も清らしゃ
あかばんたひらや てぃどぅくんぬ くさでぃ はなんさちじゅらさ しまんちゅらさ
'akabaNta hira ya tidukuN nu kusadi hana N sachijurasa shima N churasa
◯アカバンタの坂は手登根の後ろにある聖地 花も咲いて美しい 村も清らかだ
語句・くさでぃ 当て字は「腰当て」とあるように、「くし」は背中や腰を指している。後ろ側という意味でも使われる。沖縄では昔から「◯◯やくさでぃ たぶくめーなち」と言い、村の後ろ側に高い丘や山があることで豊かな水が得られて、その前にある田んぼでは豊作となる、という考えがある。理にも叶っている。その聖地を守るように御嶽が麓に置かれていたりする。高台はハンタと呼ばれ、若者たちのモーアシビの舞台ともなった。つまり「くさでぃ」は聖地とも言い換えられる。
(解説)
「アカバンタ」は手登根出身の宮城鷹夫さんが作詞され民謡歌手の上原正吉さんが歌っている。
明治末期まで続いたモーアシビは地元の青年たちの文化活動と自由な恋愛を支えた。そのモーアシビが行われた記憶を残そうと地元の有志の方々が中心となって、2017年にアカバンタの歌碑を完成させた。
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モーアシビは「毛遊び」とか「野遊び」と当て字がされるが、「もー」というのは耕作地ではない草むらのこと。本ブログにおいて、本部ミャークニーや今帰仁ミャークニーの解説で繰り返し書いたように、明治末期までは続いた村の青年たちの異性交遊の場であり、ウタが生まれた「文化の揺りかご」のような場所だったと言える。
多くはハンタと呼ばれる村の高台、崖の上などのような場所で、集落から少し離れていた。
月夜の晩に、草むらを踏みつけて場所を作り、酒や料理を持ち寄り、三線や太鼓があればそれを弾き叩き、歌い、踊ったという。ウタは交互に唄って、即興で歌詞をつける。上の句をあるものが歌えば、下の句を別のものが唄う。気に入ったもの同士で気持ちを確かめたりもしたと古老から聞いた。
アカバンタの歌詞では一番から三番にかけて、その様子がうたいこまれている。
そして現在はもうみられなくなったモーアシビへの郷愁感、惜別の想いが「今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て」という繰り返されるサビによって引き立っている。
四番は歌碑にはなく、上原正吉さんが唄うものからの採譜だが、その寂寞の想いを改めて歌い上げている。
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現在はアカバンタは生い茂った木々を整理して広場のようになっている。
地域のイベントとして「モーアシビ」を再現するようなものも行われているようである。
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「マガイ小ぬ遊び」がわからず南城市の教育委員会からアカバンタ有志の会の方にお電話をさせていただいた。上にあるようにアカバンタ以外のモーアシビの場所だということだった。
実際にアカバンタの歌碑がある場所に皆さんも足を伸ばして欲しい。この歌碑と見える景色とで、そこで繰り広げられたモーアシビの昔の姿が見えてくるかもしれない。
【このブログが本になりました!】
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語句・あかばんた 沖縄県南城市佐敷手登根にある丘の上にある広場の名前。「はんた」は「端。はしっこ」「崖のふち。また崖」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。崖に面した場所を指す。昔は「毛遊び(もーあしび)」という青年男女の交遊が行われた。
【作詩宮城鷹夫 作曲松田弘一】
(歌詞は1〜3は佐敷手登根の歌碑から、4はCDから筆者が聴き取り)
《歌詞、その読み方、簡単な発音記号('は声門破裂音)、そして意味。語句の説明と続く》
一、 むかし名にたちゅる 野遊のハンタ 佐敷手登根のアカバンタやしが 云語れやあても (今の世になれば 恋の枯れ草に 歌声だけ残て)
んかしなーにたちゃる もーあしびぬはんた さしちてぃどぅくんぬ あかばんたやしが いかたれやあてぃん (なまぬゆーになりば くいぬかりくさに うたぐぃだきぬくてぃ)
Nkashi naa ni tachuru mooashibi nu haNta sashichitidukuN nu 'akabaNta yashiga 'ikataree ya 'atiN (nama nu yuu ni nariba kui nu karikusa ni 'utagwi daki nukuti)
【括弧は繰り返しなので以下省略する】
◯昔有名だった毛遊びをした崖のふち 佐敷手登根のアカバンタであるが 男女の契りはあっても今の世になれば 恋の(終わったかのような)枯れ草に歌声だけが残っている
語句・なーにたちゅる 有名な。・いかたれー 「男女の契り。男女の語らい。」【沖辞】。「い」は「云」の当て字がされるが「美称の接頭辞。名詞に付き、意味に特別な価値を添える」【沖辞】とある。「かた」は「語らい」の意味だけでなく「仲間になる」とい意味を含む。「味方」の「かた」と同じ。
二、 三線小ぬ弦に 恋の歌かけて 肩抱ちゃいともて 思い寄る二才小 うり振たるあば小 今の世になれば 恋の枯れ草に 歌声だけ残て
さんしんぐゎーぬ ちるーに くいぬうたかきてぃ かただちゃいとぅむてぃ うみゆゆるにせーぐゎー うりふたるあばーぐゎー
saNshiN gwaa nu chiruu ni kui nu 'uta kakiti katadachai tumuti 'umi yuyuru niseegwaa 'uri hutaru 'abaagwaa
◯三線の弦に恋のウタをのせて 肩を抱こうと思って愛を寄せる青年 それを振った姉さん
語句・ちるー 弦。元は植物の「ツル」から。・にせーぐゎー「にせー」は青年、の意。南九州地方の方言「にせ」と共通。・あばーぐゎー 姉さん。「姉。ねえさん。農村で用いる語。」
三、 マガイ小の遊び アカバンタ遊び 手さじ小や肩に ひっかけてからに ちやねることなたが 今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て
まがいぐゎーぬあしび あかばんたあしび てぃーさじぐゎーや かたに ひっかきてぃからに ちゃねるくとぅなたが
magaigwaa nu 'ashibi 'akabaNta 'ashibi tiisaji ya kata ni hikkakiti karani chaaneeru kutu nata ga
◯マガイ小での遊び、そしてアカバンタでの遊び 手ぬぐいを肩にかけてどんなことになったやら
語句・まがいぐゎー アカバンタの北西に位置する海岸に近い場所を指す。地名では仲伊保。つまりアカバンタとマガイ小と二ヶ所が大きなモーアシビの場所だった。・ちゃーねーる (ちゃー)どんな(ねーる)ように。
四、 アカバンタひらん マガイ小ぬあとぅん 毛遊びぬ花や 松んかりはてぃてぃ みるかたやねさみ 今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て
なまぬよになりば
'akabaNta hiraN magai gwaa nu 'atuN mooashibi nu hana ya machiN karihatiti mirukata ja neesami
◯アカバンタの坂もマガイ小の跡も モーアシビの花(女性)も松(男性)も枯れ果てて みる所もないのだ
語句・ひら 坂。古事記でも「比良」という。・さみ 「…なのだぞ。…なんだよ。」【沖辞】。ねー(ない)さみ(のだよ)。
【歌碑にある琉歌より】
アカバンタ坂や手登根の腰当て 花も咲き美らしゃ島も清らしゃ
あかばんたひらや てぃどぅくんぬ くさでぃ はなんさちじゅらさ しまんちゅらさ
'akabaNta hira ya tidukuN nu kusadi hana N sachijurasa shima N churasa
◯アカバンタの坂は手登根の後ろにある聖地 花も咲いて美しい 村も清らかだ
語句・くさでぃ 当て字は「腰当て」とあるように、「くし」は背中や腰を指している。後ろ側という意味でも使われる。沖縄では昔から「◯◯やくさでぃ たぶくめーなち」と言い、村の後ろ側に高い丘や山があることで豊かな水が得られて、その前にある田んぼでは豊作となる、という考えがある。理にも叶っている。その聖地を守るように御嶽が麓に置かれていたりする。高台はハンタと呼ばれ、若者たちのモーアシビの舞台ともなった。つまり「くさでぃ」は聖地とも言い換えられる。
(解説)
「アカバンタ」は手登根出身の宮城鷹夫さんが作詞され民謡歌手の上原正吉さんが歌っている。
明治末期まで続いたモーアシビは地元の青年たちの文化活動と自由な恋愛を支えた。そのモーアシビが行われた記憶を残そうと地元の有志の方々が中心となって、2017年にアカバンタの歌碑を完成させた。
モーアシビは「毛遊び」とか「野遊び」と当て字がされるが、「もー」というのは耕作地ではない草むらのこと。本ブログにおいて、本部ミャークニーや今帰仁ミャークニーの解説で繰り返し書いたように、明治末期までは続いた村の青年たちの異性交遊の場であり、ウタが生まれた「文化の揺りかご」のような場所だったと言える。
多くはハンタと呼ばれる村の高台、崖の上などのような場所で、集落から少し離れていた。
月夜の晩に、草むらを踏みつけて場所を作り、酒や料理を持ち寄り、三線や太鼓があればそれを弾き叩き、歌い、踊ったという。ウタは交互に唄って、即興で歌詞をつける。上の句をあるものが歌えば、下の句を別のものが唄う。気に入ったもの同士で気持ちを確かめたりもしたと古老から聞いた。
アカバンタの歌詞では一番から三番にかけて、その様子がうたいこまれている。
そして現在はもうみられなくなったモーアシビへの郷愁感、惜別の想いが「今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て」という繰り返されるサビによって引き立っている。
四番は歌碑にはなく、上原正吉さんが唄うものからの採譜だが、その寂寞の想いを改めて歌い上げている。
現在はアカバンタは生い茂った木々を整理して広場のようになっている。
地域のイベントとして「モーアシビ」を再現するようなものも行われているようである。
「マガイ小ぬ遊び」がわからず南城市の教育委員会からアカバンタ有志の会の方にお電話をさせていただいた。上にあるようにアカバンタ以外のモーアシビの場所だということだった。
実際にアカバンタの歌碑がある場所に皆さんも足を伸ばして欲しい。この歌碑と見える景色とで、そこで繰り広げられたモーアシビの昔の姿が見えてくるかもしれない。
【このブログが本になりました!】
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2021年08月18日
前田節~サウエン節~稲しり節
前田節
めーんたーぶし
meeNtaabushi
語句・めー 前の。近所の。・ん の。・たー田んぼ。 <前ぬ田。 めーぬたー 。(例)前ぬ浜。前の浜。
一、今年前田ぬ稲みんそり 今年飲まん酒ないち飲むが (やてぃからちゅぬちゃーぬまんかなぬでぃあしばな)
くとぅしめーんたーぬ んにみんそーり くとぅしぬまんさき なー いちぬむが (やてぃから っちゅぬちゃ ぬまんかな ぬでぃあしばな)
kutushi meeNtaa nu 'Nni miNsoori kutushi numaN saki naa 'ichi numuga (yatikara cchu nuchaa numaN kana nudi 'ashibana)
○今年前の田の稲をごらんください 今年飲まない酒はもういつ飲むのか (そうだから 皆の衆 呑もうではないか 呑んで遊ぼう)
《囃子は以下省略》
語句・'んに 稲。 ・みんそーり 見てください。・な 「あんた、お前さん」「親しい年長者にたいして sai[tai]のように使う言葉」「もう、今や」【琉球語辞典】。 <なー ここでは「もう」と訳す。・やてぃから そうであるから。<やてぃ<やん。そうで。+から であるから。・ちゅぬちゃー みなさん。皆の衆。<っちゅ 人。「っ」が頭に付くのは「声門破裂音」だから。+ちゃー。 たち。・あしばな あそぼうよ。あそびたい。動詞の未然形に「な」が付くと、希望や呼びかけの意味になる。(例)ちかな。→聞こう。聞きたい。
二、今年毛作やあん美らさる 白種子やなびちあぶし枕
くとぅしむじゅくいやあんちゅらさる しらちゃにやなびちあぶしまくら
kutushi mujukui ya 'aNchurasaru shirachani ya nabichi 'abushi makura
○今年農作はあのように美しい 稲はなびき田の畔を枕にするほど実り豊かだ
語句・むじゅくい 農業 農作。<毛作りmoo jukuri→mujukui ・あんちゅらさる あのように美しい(よくできた) 連体形。 ・しらちゃに 白種子(sira sani)つまり稲。・あぶしまくら 田の畦は「あぶし」 畦を枕にしてるように稲が穂を垂れる様子 つまり豊作を意味。
三、見事出来らちゃる毛作や蔵に積みくまいう祝さびら
みぐとぅでぃきらちゃるむじゅくいやくらにちみくまいうゆえーさびら
migutu dikiracaru mujukuiya kurani chimikumai 'uyueesabira
○見事にうまくしあがっている農作物は蔵に積め入れてお祝いしましょう
語句・でぃきらちゃる できあがってる =豊作。 <でぃきゆん ・ちみくまい 積め入れて <ちみゆん(積める)+ くみゆん(入れる)の複合だろう。
サウエン節
さうえんぶし
saueN bushi
◯(歌の囃子から付いた名前)
又は
ピーラルラー
ぴーらるらー
piiraruraa
◯(宮廷音楽の路次楽でつかわれるガクブラ《中国の楽器、いわゆるチャルメラ》の擬音から)
一、くまぬ殿内ぬハンシーメーや御肝美らさぬかながなとぅ
くまぬとぅんちぬはんしーめーや'うぢむじゅらさぬ かながなとぅ
kuma nu tuNchi nu haNshiimee ya 'ujimu jurasanu kanaganaa tu
○このお屋敷のおばあさまは御心が美しいので愛想良く
語句・くま ここ。・とぅんち お屋敷。・はんしーめー おばあさま。士族のおばあさんを特にこう呼ぶ。(参考)琉球王朝時代の士族(大名・でーみょーと言われた按司、侍・さむれーと言われた家臣)と平民(百姓・ひゃくしょー)とでは親族の呼び名が違っている。以下括弧内は士族・平民の順、おじいさん(士族たんめー・平民うしゅめー)おばあさん(※んめー・はーめー)※那覇では「はんしー」。おとうさん(たーりー・しゅー)おかあさん(あやー・あんまー)にいさん(やっちー・あふぃー)ねえさん(んみー・あんぐゎー)。・うぢむ お心。う。御。+ちむ。心。連濁で「ぢ」。・かながなとぅ 「愛想良く。仲よく。また、かわいがって。」【沖縄語辞典】。
(サウエン サウエン サーサウエン ササ ピーラルラー ラーラルラーラ 二合ドゥヒャー二合 一升二合酒二合)
さうえん さうえん さーさうえん ささ ぴーらるーらー らーらるらーらー にごーどぅひゃー にんごー いっすにんごーさきにんごー
saueN saueN saa saueN sasa piiraruuraa raa raaraaruraaraa nigoo du hyaa niNgoo issu niNgoo saki niNgoo
○サウエン サウエンサーサウエン(不明)ピーラルラー(管楽器の音)二合こそおい!二合一升二合酒二合
(囃子は以下省略)
二、一合がうたびみせら 二合がうたびみせらさだみぐりしゃ
いちごーが うたびみせーら にんごーが うたびみせーら さだみぐりしゃ
'ichigoo ga 'utabimiseera niNgoo ga 'utabimiseera sadamigurisha
○一合を下さいますかしら 二合を下さいますかしら 定めにくいことよ
語句・が 「文の疑わしい部分に付く。あとを推量の形(aで終わる)で結ぶ」【沖辞】。ここでは「一合を?くださいますか。二合を?」と「一合」か「二合」かがわからないから。・うたびみせーら くださいますか? <うたびみせーん 「呉れる」の敬語。頂く。その疑問文。・さだみぐりしゃ 定めにくい。予想がつかない。<ぐりさん。し難い。
三、一合や片荷重さぬ 二合やうたびみせーら かみてぃみぐやびら
いちごーや かたにー んぶさぬ にんごーや うたびみせーら かみてぃみぐやびら
'ichigoo ya katanii 'Nbusanu niNgoo ya 'utabimisooree kamiti miguyabira
○一合は片荷に重いので二合を下さいますか?頂いて巡りましょう
語句・んぶさぬ 重いので<んぶさん(形) 。形容詞の末尾が「ぬ」になると「・・なので」・かみてぃ頭の上に乗せて。 担いで。頂いて。ここでは「頂いて」。・・みぐやびら 巡りましょう。<みぐゆん。 巡る に丁寧語「あびーん」。
四、くま居て飲まんでさびれ 暑さぬ 飲まりやびらん かみてぃみぐやびら
くま うてぃぬまんでぃさびれ あちさぬ ぬまりやびらんかみてぃみぐやびら
○ここで呑もうと言ってください 暑くて飲まれません 頂いて巡りましょう
語句・ぬまんでぃ 呑もうと。<ぬま。呑もう。+んでぃ。と。
稲しり節
んにしりぶし
'Nni shiri bushi
◯稲(の籾)を摺れ
語句・んに 稲。・しり 籾摺れ。「摺る」(する)は、しゆん。なので「しり」とは命令形。「籾を摺れ」(脱穀せよ)という唄である。ちなみに精米は「しらぎゆん」(白くする)という。
一、今年毛作いやあん美らさゆかてぃ (稲摺り 摺り 米 選り 選り ち 選り 選り 選り け 選り選り 選り あひりひりひりひり)
くとぅしむじゅくいやあんちゅらさゆかてぃ(んにしりしーりくみゆりゆーり ちー ゆりゆりゆり けーゆりゆりゆり あ ひりひりひりひり
kutushi mujukui ya 'aNchurasa yukati ('Nni shiri shiiri 'ara yuri yuuri chii yuri yuri yuri kee yuri yuri yuri 'a hiri hiri hiri hiri)
◯今年の稲の出来は あんなにすばらしい実りになって(稲摺れ 摺れよ 米 選れ 選れ ちょと選れ選れ選れ ちょっと選れ選れ選れ)
(囃子は以下略)
語句・むじゅくい 「農作。農業に従事すること」【沖縄語辞典】。・ゆかてぃ よく実って。<ゆかゆん。「(作物が)よくできる。よく実る」【沖辞】。・くみ米。「あら」という歌詞もある。それなら、殻。
・ゆり 選(よ)れ。「選る」にあたる言葉が辞書にない。が、ここでは「選れ」とする。囃子なので正確な訳は無理と割り切ることもできるが、具体的な労働歌でもあるので作業に準じたことばであることは想像に難くない。・ちー 「動詞の前につき、思い切って・・する、軽く・・するなどの意味を表す。keeーと同じ意味」【沖辞】。・けー 「ちー」と同じ。
二、倉に積ん余ち真積みさびら
くらにちん あまち まじんさびら
kurani chiN'amachi majiNsabira
◯倉に積み余って真積みしましょう
語句・まじん 「いなむら。農家の庭先に稲を積み重ねたもの。単にmaziNともいう」【沖辞】。
三、銀臼なかい黄金じく立てて
なんじゃ'うしなかい くがにじくたてぃてぃ
naNjya 'ushi nakai kugani jiku tatiti
◯銀の臼に黄金の軸をたてて
語句・なんじゃ 銀。上質の銀の事を言う。語源は中国の銀山に由来する。江戸時代も中国の純銀に近いものは「南鐐」(なんりょう)と呼ばれた。それが変化したもの。・うし 臼。本によっては「うす=御主」となっていて 下句に「民ましゅる」となっているものもある。臼を使って脱穀する様子を歌っているもの。臼の構造は下にあるように上臼と下臼に分かれ、下臼には中心に突き出た部分があり、上臼の中央に開いた穴と連結する。その間に籾を投入し、凸凹が付いた上下の臼の間で擦られて玄米と籾殻に分けられていく。・なかい に。・くがに 黄金。
四、試し摺り増する雪の真米
たみしすりましゅる ゆちぬまぐみ
tamishi suri mashuru yuchi nu magumi
◯試しにすり増していく雪のような真米
五、はまてぃしりよ姉の達 しちゅまかみさらや
はまてぃしりうないぬちゃー しちゅまかみさらや
hamati siriyo 'unainuchaa sichumakamisaraya
◯がんばって摺れよ姉さんたち とれたての米あげよう
語句・はまてぃ 励んで。一生懸命。<はまゆん。はげむ。・うない 「男の兄弟からみた姉妹。兄に対する妹、弟に対する姉。宗教的には男の兄弟に対する守護神」(琉辞)ここでは姉さん達くらいであろう。・しちゅま 初穂祭のこと、転じてとれたての米(「しまうた紀行」より)。
支給米と当て字をしているのは沖永良部民謡集。「しきゅうまい」が「しちゅま」というのもありえる。
解説のついては各曲の項目を参照のこと。
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めーんたーぶし
meeNtaabushi
語句・めー 前の。近所の。・ん の。・たー田んぼ。 <前ぬ田。 めーぬたー 。(例)前ぬ浜。前の浜。
一、今年前田ぬ稲みんそり 今年飲まん酒ないち飲むが (やてぃからちゅぬちゃーぬまんかなぬでぃあしばな)
くとぅしめーんたーぬ んにみんそーり くとぅしぬまんさき なー いちぬむが (やてぃから っちゅぬちゃ ぬまんかな ぬでぃあしばな)
kutushi meeNtaa nu 'Nni miNsoori kutushi numaN saki naa 'ichi numuga (yatikara cchu nuchaa numaN kana nudi 'ashibana)
○今年前の田の稲をごらんください 今年飲まない酒はもういつ飲むのか (そうだから 皆の衆 呑もうではないか 呑んで遊ぼう)
《囃子は以下省略》
語句・'んに 稲。 ・みんそーり 見てください。・な 「あんた、お前さん」「親しい年長者にたいして sai[tai]のように使う言葉」「もう、今や」【琉球語辞典】。 <なー ここでは「もう」と訳す。・やてぃから そうであるから。<やてぃ<やん。そうで。+から であるから。・ちゅぬちゃー みなさん。皆の衆。<っちゅ 人。「っ」が頭に付くのは「声門破裂音」だから。+ちゃー。 たち。・あしばな あそぼうよ。あそびたい。動詞の未然形に「な」が付くと、希望や呼びかけの意味になる。(例)ちかな。→聞こう。聞きたい。
二、今年毛作やあん美らさる 白種子やなびちあぶし枕
くとぅしむじゅくいやあんちゅらさる しらちゃにやなびちあぶしまくら
kutushi mujukui ya 'aNchurasaru shirachani ya nabichi 'abushi makura
○今年農作はあのように美しい 稲はなびき田の畔を枕にするほど実り豊かだ
語句・むじゅくい 農業 農作。<毛作りmoo jukuri→mujukui ・あんちゅらさる あのように美しい(よくできた) 連体形。 ・しらちゃに 白種子(sira sani)つまり稲。・あぶしまくら 田の畦は「あぶし」 畦を枕にしてるように稲が穂を垂れる様子 つまり豊作を意味。
三、見事出来らちゃる毛作や蔵に積みくまいう祝さびら
みぐとぅでぃきらちゃるむじゅくいやくらにちみくまいうゆえーさびら
migutu dikiracaru mujukuiya kurani chimikumai 'uyueesabira
○見事にうまくしあがっている農作物は蔵に積め入れてお祝いしましょう
語句・でぃきらちゃる できあがってる =豊作。 <でぃきゆん ・ちみくまい 積め入れて <ちみゆん(積める)+ くみゆん(入れる)の複合だろう。
サウエン節
さうえんぶし
saueN bushi
◯(歌の囃子から付いた名前)
又は
ピーラルラー
ぴーらるらー
piiraruraa
◯(宮廷音楽の路次楽でつかわれるガクブラ《中国の楽器、いわゆるチャルメラ》の擬音から)
一、くまぬ殿内ぬハンシーメーや御肝美らさぬかながなとぅ
くまぬとぅんちぬはんしーめーや'うぢむじゅらさぬ かながなとぅ
kuma nu tuNchi nu haNshiimee ya 'ujimu jurasanu kanaganaa tu
○このお屋敷のおばあさまは御心が美しいので愛想良く
語句・くま ここ。・とぅんち お屋敷。・はんしーめー おばあさま。士族のおばあさんを特にこう呼ぶ。(参考)琉球王朝時代の士族(大名・でーみょーと言われた按司、侍・さむれーと言われた家臣)と平民(百姓・ひゃくしょー)とでは親族の呼び名が違っている。以下括弧内は士族・平民の順、おじいさん(士族たんめー・平民うしゅめー)おばあさん(※んめー・はーめー)※那覇では「はんしー」。おとうさん(たーりー・しゅー)おかあさん(あやー・あんまー)にいさん(やっちー・あふぃー)ねえさん(んみー・あんぐゎー)。・うぢむ お心。う。御。+ちむ。心。連濁で「ぢ」。・かながなとぅ 「愛想良く。仲よく。また、かわいがって。」【沖縄語辞典】。
(サウエン サウエン サーサウエン ササ ピーラルラー ラーラルラーラ 二合ドゥヒャー二合 一升二合酒二合)
さうえん さうえん さーさうえん ささ ぴーらるーらー らーらるらーらー にごーどぅひゃー にんごー いっすにんごーさきにんごー
saueN saueN saa saueN sasa piiraruuraa raa raaraaruraaraa nigoo du hyaa niNgoo issu niNgoo saki niNgoo
○サウエン サウエンサーサウエン(不明)ピーラルラー(管楽器の音)二合こそおい!二合一升二合酒二合
(囃子は以下省略)
二、一合がうたびみせら 二合がうたびみせらさだみぐりしゃ
いちごーが うたびみせーら にんごーが うたびみせーら さだみぐりしゃ
'ichigoo ga 'utabimiseera niNgoo ga 'utabimiseera sadamigurisha
○一合を下さいますかしら 二合を下さいますかしら 定めにくいことよ
語句・が 「文の疑わしい部分に付く。あとを推量の形(aで終わる)で結ぶ」【沖辞】。ここでは「一合を?くださいますか。二合を?」と「一合」か「二合」かがわからないから。・うたびみせーら くださいますか? <うたびみせーん 「呉れる」の敬語。頂く。その疑問文。・さだみぐりしゃ 定めにくい。予想がつかない。<ぐりさん。し難い。
三、一合や片荷重さぬ 二合やうたびみせーら かみてぃみぐやびら
いちごーや かたにー んぶさぬ にんごーや うたびみせーら かみてぃみぐやびら
'ichigoo ya katanii 'Nbusanu niNgoo ya 'utabimisooree kamiti miguyabira
○一合は片荷に重いので二合を下さいますか?頂いて巡りましょう
語句・んぶさぬ 重いので<んぶさん(形) 。形容詞の末尾が「ぬ」になると「・・なので」・かみてぃ頭の上に乗せて。 担いで。頂いて。ここでは「頂いて」。・・みぐやびら 巡りましょう。<みぐゆん。 巡る に丁寧語「あびーん」。
四、くま居て飲まんでさびれ 暑さぬ 飲まりやびらん かみてぃみぐやびら
くま うてぃぬまんでぃさびれ あちさぬ ぬまりやびらんかみてぃみぐやびら
○ここで呑もうと言ってください 暑くて飲まれません 頂いて巡りましょう
語句・ぬまんでぃ 呑もうと。<ぬま。呑もう。+んでぃ。と。
稲しり節
んにしりぶし
'Nni shiri bushi
◯稲(の籾)を摺れ
語句・んに 稲。・しり 籾摺れ。「摺る」(する)は、しゆん。なので「しり」とは命令形。「籾を摺れ」(脱穀せよ)という唄である。ちなみに精米は「しらぎゆん」(白くする)という。
一、今年毛作いやあん美らさゆかてぃ (稲摺り 摺り 米 選り 選り ち 選り 選り 選り け 選り選り 選り あひりひりひりひり)
くとぅしむじゅくいやあんちゅらさゆかてぃ(んにしりしーりくみゆりゆーり ちー ゆりゆりゆり けーゆりゆりゆり あ ひりひりひりひり
kutushi mujukui ya 'aNchurasa yukati ('Nni shiri shiiri 'ara yuri yuuri chii yuri yuri yuri kee yuri yuri yuri 'a hiri hiri hiri hiri)
◯今年の稲の出来は あんなにすばらしい実りになって(稲摺れ 摺れよ 米 選れ 選れ ちょと選れ選れ選れ ちょっと選れ選れ選れ)
(囃子は以下略)
語句・むじゅくい 「農作。農業に従事すること」【沖縄語辞典】。・ゆかてぃ よく実って。<ゆかゆん。「(作物が)よくできる。よく実る」【沖辞】。・くみ米。「あら」という歌詞もある。それなら、殻。
・ゆり 選(よ)れ。「選る」にあたる言葉が辞書にない。が、ここでは「選れ」とする。囃子なので正確な訳は無理と割り切ることもできるが、具体的な労働歌でもあるので作業に準じたことばであることは想像に難くない。・ちー 「動詞の前につき、思い切って・・する、軽く・・するなどの意味を表す。keeーと同じ意味」【沖辞】。・けー 「ちー」と同じ。
二、倉に積ん余ち真積みさびら
くらにちん あまち まじんさびら
kurani chiN'amachi majiNsabira
◯倉に積み余って真積みしましょう
語句・まじん 「いなむら。農家の庭先に稲を積み重ねたもの。単にmaziNともいう」【沖辞】。
三、銀臼なかい黄金じく立てて
なんじゃ'うしなかい くがにじくたてぃてぃ
naNjya 'ushi nakai kugani jiku tatiti
◯銀の臼に黄金の軸をたてて
語句・なんじゃ 銀。上質の銀の事を言う。語源は中国の銀山に由来する。江戸時代も中国の純銀に近いものは「南鐐」(なんりょう)と呼ばれた。それが変化したもの。・うし 臼。本によっては「うす=御主」となっていて 下句に「民ましゅる」となっているものもある。臼を使って脱穀する様子を歌っているもの。臼の構造は下にあるように上臼と下臼に分かれ、下臼には中心に突き出た部分があり、上臼の中央に開いた穴と連結する。その間に籾を投入し、凸凹が付いた上下の臼の間で擦られて玄米と籾殻に分けられていく。・なかい に。・くがに 黄金。
四、試し摺り増する雪の真米
たみしすりましゅる ゆちぬまぐみ
tamishi suri mashuru yuchi nu magumi
◯試しにすり増していく雪のような真米
五、はまてぃしりよ姉の達 しちゅまかみさらや
はまてぃしりうないぬちゃー しちゅまかみさらや
hamati siriyo 'unainuchaa sichumakamisaraya
◯がんばって摺れよ姉さんたち とれたての米あげよう
語句・はまてぃ 励んで。一生懸命。<はまゆん。はげむ。・うない 「男の兄弟からみた姉妹。兄に対する妹、弟に対する姉。宗教的には男の兄弟に対する守護神」(琉辞)ここでは姉さん達くらいであろう。・しちゅま 初穂祭のこと、転じてとれたての米(「しまうた紀行」より)。
支給米と当て字をしているのは沖永良部民謡集。「しきゅうまい」が「しちゅま」というのもありえる。
解説のついては各曲の項目を参照のこと。
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2021年05月15日
平和の願い
平和の願い
作詞:平識ナミ 作曲:普久原恒男
1.沖縄てぃる島や何時ん戦世い 安々とぅ暮らす節や何時が
うちなーてぃるしまや いちんいくさゆーい やしやしとぅくらすしちやいちが
'uchinaa tiru shima ya 'ichiN 'ikusa yuu i yashiyashitu kurasu shichi ya 'ichiga
〇沖縄という島(故郷)はいつも戦争の世の中なのか。安々と暮らす時はいつくるのか。
語句・うちなー沖縄。「おきなわ」のウチナーグチ。・てぃる という。・しま故郷。 いわゆるアイランドとしての島という意味よりも「故郷」「村」という意味が多い。・いちんいつも。・いくさゆーい 戦世か。「い」は疑問詞を含まない疑問文の文末にあって「か?」という疑問文となる。ここでは「いつも戦世なのか」という問い。・やしやしとぅ安々と。安心して。・しち時期。時。・いちがいつなのか。
*でぃー我ったー此ぬ島沖縄 平和願らな此ぬ沖縄
でぃーわったーくぬしまうちなー へいわにがらなくぬうちなー
dii wattaa kunu shima 'uchinaa heiwa nigarana kunu 'uchinaa
〇さあ我々のこの故郷沖縄 平和を願いたいこの沖縄の
語句・でぃーさあ。誘いかける時につかう。・わったーわれわれの。われわれ。ここでは両方の意味が含まれている。
2.忘るなよ互に哀り戦世や 世間御万人ぬ肝に染みてぃ
わしるなよたげに あわりいくさゆーや しきんうまんちゅぬちむにすみてぃ
washiruna yoo tagee ni 'awari 'ikusayuu ya shikiN 'umaNchu nu chimu ni sumiti
〇忘れるなよ互いに 哀れだよ戦争の世の中は 世の中多くの人の心に染めて
語句・わしるなよ<わしゆん。否定命令形。わしるな。忘れるな。・たげーに互いに。・あわり哀れな。つらい。くるしい。・しきん世間。「しけー」は世界。・うまんちゅ 琉球語辞典によると「御万人」と書くが、元は「御真人」か「うま(そこら)ん人」から。多くの人々。・ちむにすみてぃ 「すみゆん」(染める)は「刻む」くらいの強い意味。
*繰り返し
3.上下ん揃てぃ心打ち合わち 誠此ぬ沖縄守てぃいかな
かみしむん するてぃ くくるうちあわち まくとぅくぬうちなーまむてぃいかな
kamishimuN suruti kukuru 'uchi'awachi makutu kunu 'uchinaa mamuti 'ikana
〇上下(国を治める者や庶民)も心を合わせて 真心を持ってこの沖縄を守っていきたい
語句・かみしむん 国を治める者や庶民も。・まむてぃいかな守っていきたい。「いかな」は標準語の「いかないといけない」に似ているが、意味はそうではなく「いきたい」「いきましょう」という自分の意思や呼びかけ。
*繰り返し
4.思事や一道恋しさや大和 やがてぃ御膝元戻る嬉さ
うむくとぅや ちゅみち くいしさややまとぅ やがてぃ うふぃじゃむとぅ むどぅる うりしゃ
'umukutu ya chumichi kuisisa ya yamatu yagati 'uhwijamutu muduru 'urisha
〇願うことは一つの道。恋しいのは本土(ヤマト)。やがて本土に復帰するうれしさよ
語句・ちゅみち一つの道。・やまとぅ 本土。薩摩の事も。・うふぃじゃむとぅお膝元。・うりしゃ とても嬉しい<うりさん。文語表現。普通は「うっさん」
*繰り返し
コメント
1969年に平識ナミが作詞、普久原恒男が作曲。
このウタが作られた背景には当時盛り上がった復帰運動があった。
祖国復帰運動とは
特に沖縄戦は日本の歴史上初めての地上戦であり、四人に一人の沖縄県民が亡くなったと言われるように一般市民も巻き込んだ戦争だった。また「鉄の暴風」と言われるように上陸する米軍は徹底的に日本軍を殲滅すべく艦砲射撃を繰り返して一般市民への被害が拡大した。日本の軍部は沖縄を「捨て石」として本土防衛の最前線にしたのである。
そのような沖縄戦が終結した後、アメリカ政府ー米軍による統治が続き、朝鮮戦争、ベトナム戦争などアメリカの極東戦略に組み込まれた沖縄は「平和憲法」の下にある日本への復帰を果たしたいとの世論が強くなっていく。そしてついに1972年5月15日に沖縄は日本に復帰した。
この「平和の願い」の題名にも歌詞にも沖縄戦で激しく傷ついた沖縄県民の思いが込められている。
このウタを作詞した平識ナミについて、琉球新報の2021年5月11日版に紹介されている。
『彼女は本部町崎本部の出身で、十二、三歳までは炭焼きや薪取りなどの家業を手伝い、十五歳で紡績女工になった。満足に読み書きができなかったため、後年、島うたを詠むようになってからは、即興的に詠んだ琉歌を娘さんが口述筆記したという。』(「圧政下の文化運動」3、仲松昌次)
また、こんなエピソードも紹介されている。
『歌ったのは玉城安定。安定亡き後、娘の玉城一美が歌い継いだ。一美がこの歌と出合ったのは復帰3年後の1975年。海洋博のホテルで、父親が観光客相手の民謡ショーを手掛けていた。(中略)この頃は、第2次民謡プームとも言える時期で、各地に民謡酒場が乱立していた。「安里屋ゆんた」や「十九の春」など、本土の人にもわかるようにと日本語の島うたを歌っていたが、時々、父と一緒に「平和の願い」も歌った。 しかし、彼女は4番の歌詞はあまり歌いたくなかったという(中略)復帰を夢見た一美の高校時代、熱心に日の丸を振って平和行進を沿道から応援したあの時の気持ちが苦々しく思い出される。 復帰から5年がたち10年が過ぎても、理不尽な沖縄の状況は変わっていない。復帰とは、何だったんだろう、とつい考えてしまう。たかが島うたではないか、と思っても忸怩(じくじ)たる思いが湧き上がってくる。「平和の願い」はなるべく3番までで歌い終わるようにしている自分がいた。歌三線を熱心に教えてくれた父や、情感あふれ
る島うたを数多く詠み続けた平識ナミにはわびる思い
も抱きながら…。』(同上)
このウタの歌詞を作った平識ナミと、歌った玉城一美との間に、どんな時代背景の変化があったのか。
言うまでもなく沖縄は本土に復帰したが、米軍基地は無くなるどころか、さらに沖縄に押し付けられ、米兵による犯罪は減らないという現実があった。
これは現在の私たちに突きつけられている現実でもある。
今日は5月15日沖縄の復帰記念日だ。復帰して49年を迎える。
もう一度「復帰」がなんだったのか、どんな現実が沖縄におしつけられているのか、この「平和の願い」を歌いながら考えてみたい。
![]()
(このCDの最後に「平和の願い」がある)
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作詞:平識ナミ 作曲:普久原恒男
1.沖縄てぃる島や何時ん戦世い 安々とぅ暮らす節や何時が
うちなーてぃるしまや いちんいくさゆーい やしやしとぅくらすしちやいちが
'uchinaa tiru shima ya 'ichiN 'ikusa yuu i yashiyashitu kurasu shichi ya 'ichiga
〇沖縄という島(故郷)はいつも戦争の世の中なのか。安々と暮らす時はいつくるのか。
語句・うちなー沖縄。「おきなわ」のウチナーグチ。・てぃる という。・しま故郷。 いわゆるアイランドとしての島という意味よりも「故郷」「村」という意味が多い。・いちんいつも。・いくさゆーい 戦世か。「い」は疑問詞を含まない疑問文の文末にあって「か?」という疑問文となる。ここでは「いつも戦世なのか」という問い。・やしやしとぅ安々と。安心して。・しち時期。時。・いちがいつなのか。
*でぃー我ったー此ぬ島沖縄 平和願らな此ぬ沖縄
でぃーわったーくぬしまうちなー へいわにがらなくぬうちなー
dii wattaa kunu shima 'uchinaa heiwa nigarana kunu 'uchinaa
〇さあ我々のこの故郷沖縄 平和を願いたいこの沖縄の
語句・でぃーさあ。誘いかける時につかう。・わったーわれわれの。われわれ。ここでは両方の意味が含まれている。
2.忘るなよ互に哀り戦世や 世間御万人ぬ肝に染みてぃ
わしるなよたげに あわりいくさゆーや しきんうまんちゅぬちむにすみてぃ
washiruna yoo tagee ni 'awari 'ikusayuu ya shikiN 'umaNchu nu chimu ni sumiti
〇忘れるなよ互いに 哀れだよ戦争の世の中は 世の中多くの人の心に染めて
語句・わしるなよ<わしゆん。否定命令形。わしるな。忘れるな。・たげーに互いに。・あわり哀れな。つらい。くるしい。・しきん世間。「しけー」は世界。・うまんちゅ 琉球語辞典によると「御万人」と書くが、元は「御真人」か「うま(そこら)ん人」から。多くの人々。・ちむにすみてぃ 「すみゆん」(染める)は「刻む」くらいの強い意味。
*繰り返し
3.上下ん揃てぃ心打ち合わち 誠此ぬ沖縄守てぃいかな
かみしむん するてぃ くくるうちあわち まくとぅくぬうちなーまむてぃいかな
kamishimuN suruti kukuru 'uchi'awachi makutu kunu 'uchinaa mamuti 'ikana
〇上下(国を治める者や庶民)も心を合わせて 真心を持ってこの沖縄を守っていきたい
語句・かみしむん 国を治める者や庶民も。・まむてぃいかな守っていきたい。「いかな」は標準語の「いかないといけない」に似ているが、意味はそうではなく「いきたい」「いきましょう」という自分の意思や呼びかけ。
*繰り返し
4.思事や一道恋しさや大和 やがてぃ御膝元戻る嬉さ
うむくとぅや ちゅみち くいしさややまとぅ やがてぃ うふぃじゃむとぅ むどぅる うりしゃ
'umukutu ya chumichi kuisisa ya yamatu yagati 'uhwijamutu muduru 'urisha
〇願うことは一つの道。恋しいのは本土(ヤマト)。やがて本土に復帰するうれしさよ
語句・ちゅみち一つの道。・やまとぅ 本土。薩摩の事も。・うふぃじゃむとぅお膝元。・うりしゃ とても嬉しい<うりさん。文語表現。普通は「うっさん」
*繰り返し
コメント
1969年に平識ナミが作詞、普久原恒男が作曲。
このウタが作られた背景には当時盛り上がった復帰運動があった。
祖国復帰運動とは
特に沖縄戦は日本の歴史上初めての地上戦であり、四人に一人の沖縄県民が亡くなったと言われるように一般市民も巻き込んだ戦争だった。また「鉄の暴風」と言われるように上陸する米軍は徹底的に日本軍を殲滅すべく艦砲射撃を繰り返して一般市民への被害が拡大した。日本の軍部は沖縄を「捨て石」として本土防衛の最前線にしたのである。
そのような沖縄戦が終結した後、アメリカ政府ー米軍による統治が続き、朝鮮戦争、ベトナム戦争などアメリカの極東戦略に組み込まれた沖縄は「平和憲法」の下にある日本への復帰を果たしたいとの世論が強くなっていく。そしてついに1972年5月15日に沖縄は日本に復帰した。
この「平和の願い」の題名にも歌詞にも沖縄戦で激しく傷ついた沖縄県民の思いが込められている。
このウタを作詞した平識ナミについて、琉球新報の2021年5月11日版に紹介されている。
『彼女は本部町崎本部の出身で、十二、三歳までは炭焼きや薪取りなどの家業を手伝い、十五歳で紡績女工になった。満足に読み書きができなかったため、後年、島うたを詠むようになってからは、即興的に詠んだ琉歌を娘さんが口述筆記したという。』(「圧政下の文化運動」3、仲松昌次)
また、こんなエピソードも紹介されている。
『歌ったのは玉城安定。安定亡き後、娘の玉城一美が歌い継いだ。一美がこの歌と出合ったのは復帰3年後の1975年。海洋博のホテルで、父親が観光客相手の民謡ショーを手掛けていた。(中略)この頃は、第2次民謡プームとも言える時期で、各地に民謡酒場が乱立していた。「安里屋ゆんた」や「十九の春」など、本土の人にもわかるようにと日本語の島うたを歌っていたが、時々、父と一緒に「平和の願い」も歌った。 しかし、彼女は4番の歌詞はあまり歌いたくなかったという(中略)復帰を夢見た一美の高校時代、熱心に日の丸を振って平和行進を沿道から応援したあの時の気持ちが苦々しく思い出される。 復帰から5年がたち10年が過ぎても、理不尽な沖縄の状況は変わっていない。復帰とは、何だったんだろう、とつい考えてしまう。たかが島うたではないか、と思っても忸怩(じくじ)たる思いが湧き上がってくる。「平和の願い」はなるべく3番までで歌い終わるようにしている自分がいた。歌三線を熱心に教えてくれた父や、情感あふれ
る島うたを数多く詠み続けた平識ナミにはわびる思い
も抱きながら…。』(同上)
このウタの歌詞を作った平識ナミと、歌った玉城一美との間に、どんな時代背景の変化があったのか。
言うまでもなく沖縄は本土に復帰したが、米軍基地は無くなるどころか、さらに沖縄に押し付けられ、米兵による犯罪は減らないという現実があった。
これは現在の私たちに突きつけられている現実でもある。
今日は5月15日沖縄の復帰記念日だ。復帰して49年を迎える。
もう一度「復帰」がなんだったのか、どんな現実が沖縄におしつけられているのか、この「平和の願い」を歌いながら考えてみたい。
(このCDの最後に「平和の願い」がある)
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2020年12月15日
ちばり節
ちばり節
ちばりぶし
chibari bushi
◯がんばれ節
語句・ちばり<ちばゆん。がんばる。の命令形。がんばれ。
歌 喜屋武繁雄
作詞 島本耕二
作曲 喜屋武繁雄
一、結びかたみらな 島美らくなさな 世や変てぃ居てぃん人や情
むしびかたみらな しまちゅらくなさな ゆーやかわてぃうてぃん ひとぅやなさき
mushibi katamirana shima churaku nasana yuu ya kawathi wutiN hitu ya nasaki
◯団結して仲間になろう 故郷を美しくしよう 世は変わっていても人は情けなのだ
語句・むしび<むしぶん。むすぶん。どちらも使う。「結ぶ。結婚する」【琉球語辞典(半田一郎)】(以下【琉辞】と略す)。・かたみらな<かたみゆん。は「担ぐ」という意味もあり古くから「仲間になる」という意味も含まれていた。現在では「かためる」との共通語の意味も含まれる。「むすびかたみらな」は「団結して仲間になろう」と訳した。
※ 朝夕ちがきてぃうみはまてぃ老てぃ若さん サーチバティ行かな
あさゆー ちがきてぃうみはまてぃ ゐーてぃわかさん さーちばてぃ いかな
'asayuu chigakiti 'umihamati yiiti wakasaN saa chibati 'ikana
◯毎日励み一生懸命働いて 老いて若くなる さー気張って行こう
語句・あさゆー 一日中。「朝と夕方」だけではない。朝も夕方も、つまり一日中。・ちがきてぃ<ちがきゆん。はげむ。「ち」は「気」、「かきゆん」は「掛ける」。・うみはまてぃ「没頭する、励む」【琉辞】。・いかな 行きたい。行こう。どちらの意味もある。自分の希望、意思を示すと同時に呼びかけのニュアンスも含む。
ニ、人ぬ行く道や 坂ぬ下り上い 苦しみや楽ぬ むとぅいとぅむり
ひとぅぬいくみちや ひらぬういぬぶい くるしみやらくぬ むとぅいとぅむり
hitu nu 'iku michi ya hira nu 'ui nubui kurusimi ya raku nu mutui tumuri
◯人の行く道は坂の降り登りと同じ 苦しみは楽の元と思え
※(繰り返し)
語句・ひら坂。「ふぃら」とも発音する。ヤマトの古語で坂を「ひら」と言った。古事記に出てくる「黄泉平良坂」(よもつひらさか)は「黄泉の国」と現世の間にある坂のこと。「ひら」も「さか」も同じ坂を表す。・とぅむり<「ト思ヒヲレ」【琉辞】から。と思え。命令形。
三、国守て立ちゆるうみ童でむぬ道迷いしみな親ぬ心
くにまむてぃたちゅるうみわらびでむぬ みちまゆいしみな うやぬくくる
kuni mamuti tachuru 'umi warabi demunu michi mayui shimina 'uya nu kukuru
◯国を守って立っている愛する子どもだから道を迷わせるな それが親の心だ
※(繰り返し)
語句・うみわらび愛する子ども。「うみ」は「想ゆん」(愛する)から。・でむぬだから。・しみな<しみゆん。させる。否定、命令形。させるな。
四、昔名に立ちゃる守礼ぬ国でむぬ手とてうきちがな民ぬ血筋
んかしなにたちゃる しゅれーいぬくにでむぬ てぃーとぅてぃうきちがな たみぬちすじ
Nkashi naa ni tachuru shuree(i) nu kuni demunu tii tuti 'ukichigana tami nu chisuji
◯昔有名であった守礼の国であるぞ 手を取り合って受け継ごう 民の血筋を
※(繰り返し)
語句・なにたちゅる有名な。・しゅれーい 守礼門は「しゅれーもん」と共通語の読み方をする。「守礼之邦」は守礼門にある扁額。「明の神宗が詔勅(1579年)の中で琉球を『足稱“守礼之邦”』と嘉[よみ]した句から」【琉辞】。「しゅれー」と発音するが唄い安く「しゅれーい」としてあるのだろう。
![]()
マルフクレコード「喜屋武繁雄 健児の塔/ちばり節(民の血筋)」に収録されている。
2020年12月20日のNHK「民謡魂」という番組で首里城の復興を願ってよなは徹さんがこれを熱唱された。
力強い歌と三線に観た人は心打たれた違いない。
その番組の放映数日前にNHKのディレクターからこの歌の訳詞が欲しいとの電話が私にあった。
それで上の訳詞を遅らせてもらい番組で使っていただいた。役に立てただけでも幸いである。
なお工工四が欲しい方は私までメールを。
【このブログが本になりました!】
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ちばりぶし
chibari bushi
◯がんばれ節
語句・ちばり<ちばゆん。がんばる。の命令形。がんばれ。
歌 喜屋武繁雄
作詞 島本耕二
作曲 喜屋武繁雄
一、結びかたみらな 島美らくなさな 世や変てぃ居てぃん人や情
むしびかたみらな しまちゅらくなさな ゆーやかわてぃうてぃん ひとぅやなさき
mushibi katamirana shima churaku nasana yuu ya kawathi wutiN hitu ya nasaki
◯団結して仲間になろう 故郷を美しくしよう 世は変わっていても人は情けなのだ
語句・むしび<むしぶん。むすぶん。どちらも使う。「結ぶ。結婚する」【琉球語辞典(半田一郎)】(以下【琉辞】と略す)。・かたみらな<かたみゆん。は「担ぐ」という意味もあり古くから「仲間になる」という意味も含まれていた。現在では「かためる」との共通語の意味も含まれる。「むすびかたみらな」は「団結して仲間になろう」と訳した。
※ 朝夕ちがきてぃうみはまてぃ老てぃ若さん サーチバティ行かな
あさゆー ちがきてぃうみはまてぃ ゐーてぃわかさん さーちばてぃ いかな
'asayuu chigakiti 'umihamati yiiti wakasaN saa chibati 'ikana
◯毎日励み一生懸命働いて 老いて若くなる さー気張って行こう
語句・あさゆー 一日中。「朝と夕方」だけではない。朝も夕方も、つまり一日中。・ちがきてぃ<ちがきゆん。はげむ。「ち」は「気」、「かきゆん」は「掛ける」。・うみはまてぃ「没頭する、励む」【琉辞】。・いかな 行きたい。行こう。どちらの意味もある。自分の希望、意思を示すと同時に呼びかけのニュアンスも含む。
ニ、人ぬ行く道や 坂ぬ下り上い 苦しみや楽ぬ むとぅいとぅむり
ひとぅぬいくみちや ひらぬういぬぶい くるしみやらくぬ むとぅいとぅむり
hitu nu 'iku michi ya hira nu 'ui nubui kurusimi ya raku nu mutui tumuri
◯人の行く道は坂の降り登りと同じ 苦しみは楽の元と思え
※(繰り返し)
語句・ひら坂。「ふぃら」とも発音する。ヤマトの古語で坂を「ひら」と言った。古事記に出てくる「黄泉平良坂」(よもつひらさか)は「黄泉の国」と現世の間にある坂のこと。「ひら」も「さか」も同じ坂を表す。・とぅむり<「ト思ヒヲレ」【琉辞】から。と思え。命令形。
三、国守て立ちゆるうみ童でむぬ道迷いしみな親ぬ心
くにまむてぃたちゅるうみわらびでむぬ みちまゆいしみな うやぬくくる
kuni mamuti tachuru 'umi warabi demunu michi mayui shimina 'uya nu kukuru
◯国を守って立っている愛する子どもだから道を迷わせるな それが親の心だ
※(繰り返し)
語句・うみわらび愛する子ども。「うみ」は「想ゆん」(愛する)から。・でむぬだから。・しみな<しみゆん。させる。否定、命令形。させるな。
四、昔名に立ちゃる守礼ぬ国でむぬ手とてうきちがな民ぬ血筋
んかしなにたちゃる しゅれーいぬくにでむぬ てぃーとぅてぃうきちがな たみぬちすじ
Nkashi naa ni tachuru shuree(i) nu kuni demunu tii tuti 'ukichigana tami nu chisuji
◯昔有名であった守礼の国であるぞ 手を取り合って受け継ごう 民の血筋を
※(繰り返し)
語句・なにたちゅる有名な。・しゅれーい 守礼門は「しゅれーもん」と共通語の読み方をする。「守礼之邦」は守礼門にある扁額。「明の神宗が詔勅(1579年)の中で琉球を『足稱“守礼之邦”』と嘉[よみ]した句から」【琉辞】。「しゅれー」と発音するが唄い安く「しゅれーい」としてあるのだろう。
マルフクレコード「喜屋武繁雄 健児の塔/ちばり節(民の血筋)」に収録されている。
2020年12月20日のNHK「民謡魂」という番組で首里城の復興を願ってよなは徹さんがこれを熱唱された。
力強い歌と三線に観た人は心打たれた違いない。
その番組の放映数日前にNHKのディレクターからこの歌の訳詞が欲しいとの電話が私にあった。
それで上の訳詞を遅らせてもらい番組で使っていただいた。役に立てただけでも幸いである。
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2020年11月27日
コロナ節
コロナ節
[ころな]ぶし
[korona]bushi
◯新型コロナの唄
語句・ころな新型コロナ。COVID-19。この歌では標準語の読みと同じなので以下[]で囲む。ウチナーグチの発音ならば「くるな」kurunaとなるが外来語だからか。
作詞 里子・コートランド 節子・ランニング 秀子・ムーア
曲 デンサー節
一 コロナ節歌てぃ 皆し肝あわち 守てぃいちゅしどぅ務みどーやー 御願げさびら
(※互にちばらや)
〈(※)は囃子。以下省略〉
[ころな]ぶし うたてぃ んなしちむあわち まむてぃいちゅしどぅちとぅみどーやー うにげーさびら
(たげーにちばらやー)
[korona]bushi ‘utati Nna shi chimu ‘awachi mamuti ‘ichushi du chitumi doo yaa ‘unigeesabira
(tagee ni chibara yaa)
◯コロナ節を歌って皆さんで心を合わせて守っていくことこそが務めであるね お願いします。
(お互いに頑張ろうね)
語句・んな 皆。・し で。 本土でも「みんなして」という言い方がある。・ちむ 心。特によい心を言う。本土の古語に「肝心(きもこころ)」という言い方があった。本土では死語になったが沖縄では今でも使われている。 ・うにげーさびら<うにげー。お願い。+さびら。しましょう。<さ。する。+あびーん。敬語の接尾語。 ・たげー互い。 ・ちばら 頑張ろう。「気張る」から。・やー ね。ねえ。と相手に同意を求める時に使う。
二 今ぬ浮世や恐るしむん コロナ戦に負きんなよ やがてぃ薬ぬ出来し 願てぃ御待ちさびら
なまぬうちゆーやうとぅるしむん [ころな]いくさにまきんなよー やがてぃくすいぬでぃきし にがてぃうまちさびら
nama nu yuu ya ‘uturushimuN [korona]’ikusa ni makiNna yoo yagati kusui nu dikishi nigati ‘umachisabira
◯今の世の中は怖いものだ コロナとの戦いに負けるなよ やがて薬(ワクチンや特効薬)が出来ることを願ってお待ちしましょう
語句・うちゆー浮世。一般に苦しい現実、世の中の意味で使われることが多い。 「浮世」(うきよ)から。 ・うとぅるしむん 怖いもの。 ・うまちさびら お待ちしましょう。<う。御。+まち。待つ。+さびら。しましょう。
三 年寄ん若者ん肝揃てぃ 家に居しん世間ぬ為健康第一 かながな語てぃ遊ぶし願ゆん
とぅすいんわかむぬん ちむすりてぃ やーにうしん しきんぬたみ [けんこー]でーいち かながなかたてぃあしぶしにがゆん
tusuiN wakamunuN chimu suriti yaa ni ushiN shikiN nu tami [keNkoo]deeichi kanagana katati ‘asibushi nigayuN
◯年寄りも若者も一致団結し家に居ることも世間皆さんのため 健康を第一にして 仲良く語り遊ぶことを願います
語句・とぅすい年寄り。・ちむするてぃ心合わせて。・うしん居ても。<う<うん。居る。+し。こと。+ん。も。強調。けんこー「けんこー」というウチナーグチ はなく、ここは「がんじゅー」だろう。かながな仲良く<かながなー。「かな」は「愛する」の意味。
四 童んちゃーん家ぐまい 手墨学問忘んなよー 親子揃とてぃ 学ぶしん親ぬ務みやんどー
わらびんちゃーん やーぐまい てぃしみがくむん わしんなよー うやくすりとーてぃ まなぶしん うやぬちとぅみやんどー
warabiNchaaN yaa gumai tishimigakumuN washiNna yoo ‘uyakusuritooti manabushiN ‘uya nu chitumi yaN doo
◯子どもたちも家にこもって勉強、学問を忘れるなよ 親子揃って学ぶことも親の勤めなのであるぞ
語句・わらびんちゃー子ども達。<「わらべ」・やーぐまい 家にこもること。・てぃしみがくむん勉強、学問。手墨は習字を表す。まなぶしん学ぶ事も。・やんどーであるぞ。<やん。である。だ。+どー。ぞ。強調の接尾語。
五 コロナ節歌てぃ 世界ぬ国々 手ゆ取やい 今どぅ我ったー 心結ぶる時節やんどー
[ころな]ぶしうたてぃ しけーぬくにぐにてぃーゆとぅやい なまどぅわったー くくるむしぶるじしちやんどー
[korona]bushi ‘utati shikee nu kuniguni tii yu tuyai nama du wattaa kukuru musiburu jishichi yaN doo
◯コロナ節を歌って世界の人々が手を取り合って今こそ我々が心を結ぶ時が来たのだぞ
語句・しけー 世界。sekaiをウチナーグチ化してみるとわかる。ウチナーグチ化とはeはiに(三母音化)aiはeeに(長母音化)すること。てぃゆ手を。ウチナーグチでは口語には「を」にあたる文字はないが文語には「ゆ」がある。じしち時期。「時節」(jisetsu)の三母音化から。「節」は「せち」と呼ぶ事もある(例、お節)。
コメント
現在2020年の11月、まもなく師走を迎えようとしている中、新型コロナ(COVID-19)の感染は拡大して、第3波といわれる感染の波が世界各国、日本にも押し寄せてきている。そんななか沖縄ではこんな唄が流行っていると聞いた。
東京新聞の記事(2020年11月6日)によると「オハイオ沖縄友の会」という沖縄県人会のメンバーが歌詞を考えた。曲は八重山で生まれた「デンサー節」。実際にはそれが本島に伝わって歌われている曲に近い。それを沖縄の民謡歌手、仲宗根創に送り、彼が歌い、またCDにも収録されて沖縄のラジオ、テレビなどで取り上げられている。
ウタは人々の喜怒哀楽に中から生まれる。苦しい時代には特に多くの歌が生まれ伝搬していくが、まさにコロナ禍の苦しみの中から生まれたウタなのである。
新型コロナは人々の接触、移動に伴って拡散していく。まるでウタが人から人へ、また島から島へと広がっていくのとそっくりではないか。しかし人々は移動を止め、家にこもってコロナと闘っている。その苦しみの中から生まれたウタは人々の口から口へと広がることはできない。ところが、インターネット電波という手段を人類は持っている。
アメリカに住むウチナーンチュ、沖縄の人々は20世紀の初めに沖縄からアメリカに渡った。今は、その人々の末裔達がウタを作り電波に乗せて沖縄に送ったということになる。先祖の故郷沖縄に思いを馳せてウチナーグチで。
新型コロナに対決し人々の命を守るには、まず人の移動を止める事だ。
このウタは国と国、人と人とが今こそ手を結び心を一つにして新型コロナと闘うことを呼びかける。
正しい呼びかけだ。コロナを理解しない大統領の悪政のもとで信念を固めたのかもしれない。
ウタの歌詞はさらに変異するかもしれない。新型コロナウイルスの変異にも負けない強いウタになるかもしれない。
このウタには希望が見える。
人との接触を避けて、心を一つにしてこのウタを広げよう。
三線と共に。
作った方々、広めている方々に感謝する。
![]()
「コロナ節」が入ったCDは「沖縄ユーモアソング決定盤」3520円
コロナ関連の歌が2曲入っている。
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YouTubeの仲宗根創さんの歌をたるーが採譜した工工四。
ご活用ください。
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[ころな]ぶし
[korona]bushi
◯新型コロナの唄
語句・ころな新型コロナ。COVID-19。この歌では標準語の読みと同じなので以下[]で囲む。ウチナーグチの発音ならば「くるな」kurunaとなるが外来語だからか。
作詞 里子・コートランド 節子・ランニング 秀子・ムーア
曲 デンサー節
一 コロナ節歌てぃ 皆し肝あわち 守てぃいちゅしどぅ務みどーやー 御願げさびら
(※互にちばらや)
〈(※)は囃子。以下省略〉
[ころな]ぶし うたてぃ んなしちむあわち まむてぃいちゅしどぅちとぅみどーやー うにげーさびら
(たげーにちばらやー)
[korona]bushi ‘utati Nna shi chimu ‘awachi mamuti ‘ichushi du chitumi doo yaa ‘unigeesabira
(tagee ni chibara yaa)
◯コロナ節を歌って皆さんで心を合わせて守っていくことこそが務めであるね お願いします。
(お互いに頑張ろうね)
語句・んな 皆。・し で。 本土でも「みんなして」という言い方がある。・ちむ 心。特によい心を言う。本土の古語に「肝心(きもこころ)」という言い方があった。本土では死語になったが沖縄では今でも使われている。 ・うにげーさびら<うにげー。お願い。+さびら。しましょう。<さ。する。+あびーん。敬語の接尾語。 ・たげー互い。 ・ちばら 頑張ろう。「気張る」から。・やー ね。ねえ。と相手に同意を求める時に使う。
二 今ぬ浮世や恐るしむん コロナ戦に負きんなよ やがてぃ薬ぬ出来し 願てぃ御待ちさびら
なまぬうちゆーやうとぅるしむん [ころな]いくさにまきんなよー やがてぃくすいぬでぃきし にがてぃうまちさびら
nama nu yuu ya ‘uturushimuN [korona]’ikusa ni makiNna yoo yagati kusui nu dikishi nigati ‘umachisabira
◯今の世の中は怖いものだ コロナとの戦いに負けるなよ やがて薬(ワクチンや特効薬)が出来ることを願ってお待ちしましょう
語句・うちゆー浮世。一般に苦しい現実、世の中の意味で使われることが多い。 「浮世」(うきよ)から。 ・うとぅるしむん 怖いもの。 ・うまちさびら お待ちしましょう。<う。御。+まち。待つ。+さびら。しましょう。
三 年寄ん若者ん肝揃てぃ 家に居しん世間ぬ為健康第一 かながな語てぃ遊ぶし願ゆん
とぅすいんわかむぬん ちむすりてぃ やーにうしん しきんぬたみ [けんこー]でーいち かながなかたてぃあしぶしにがゆん
tusuiN wakamunuN chimu suriti yaa ni ushiN shikiN nu tami [keNkoo]deeichi kanagana katati ‘asibushi nigayuN
◯年寄りも若者も一致団結し家に居ることも世間皆さんのため 健康を第一にして 仲良く語り遊ぶことを願います
語句・とぅすい年寄り。・ちむするてぃ心合わせて。・うしん居ても。<う<うん。居る。+し。こと。+ん。も。強調。けんこー「けんこー」というウチナーグチ はなく、ここは「がんじゅー」だろう。かながな仲良く<かながなー。「かな」は「愛する」の意味。
四 童んちゃーん家ぐまい 手墨学問忘んなよー 親子揃とてぃ 学ぶしん親ぬ務みやんどー
わらびんちゃーん やーぐまい てぃしみがくむん わしんなよー うやくすりとーてぃ まなぶしん うやぬちとぅみやんどー
warabiNchaaN yaa gumai tishimigakumuN washiNna yoo ‘uyakusuritooti manabushiN ‘uya nu chitumi yaN doo
◯子どもたちも家にこもって勉強、学問を忘れるなよ 親子揃って学ぶことも親の勤めなのであるぞ
語句・わらびんちゃー子ども達。<「わらべ」・やーぐまい 家にこもること。・てぃしみがくむん勉強、学問。手墨は習字を表す。まなぶしん学ぶ事も。・やんどーであるぞ。<やん。である。だ。+どー。ぞ。強調の接尾語。
五 コロナ節歌てぃ 世界ぬ国々 手ゆ取やい 今どぅ我ったー 心結ぶる時節やんどー
[ころな]ぶしうたてぃ しけーぬくにぐにてぃーゆとぅやい なまどぅわったー くくるむしぶるじしちやんどー
[korona]bushi ‘utati shikee nu kuniguni tii yu tuyai nama du wattaa kukuru musiburu jishichi yaN doo
◯コロナ節を歌って世界の人々が手を取り合って今こそ我々が心を結ぶ時が来たのだぞ
語句・しけー 世界。sekaiをウチナーグチ化してみるとわかる。ウチナーグチ化とはeはiに(三母音化)aiはeeに(長母音化)すること。てぃゆ手を。ウチナーグチでは口語には「を」にあたる文字はないが文語には「ゆ」がある。じしち時期。「時節」(jisetsu)の三母音化から。「節」は「せち」と呼ぶ事もある(例、お節)。
コメント
現在2020年の11月、まもなく師走を迎えようとしている中、新型コロナ(COVID-19)の感染は拡大して、第3波といわれる感染の波が世界各国、日本にも押し寄せてきている。そんななか沖縄ではこんな唄が流行っていると聞いた。
東京新聞の記事(2020年11月6日)によると「オハイオ沖縄友の会」という沖縄県人会のメンバーが歌詞を考えた。曲は八重山で生まれた「デンサー節」。実際にはそれが本島に伝わって歌われている曲に近い。それを沖縄の民謡歌手、仲宗根創に送り、彼が歌い、またCDにも収録されて沖縄のラジオ、テレビなどで取り上げられている。
ウタは人々の喜怒哀楽に中から生まれる。苦しい時代には特に多くの歌が生まれ伝搬していくが、まさにコロナ禍の苦しみの中から生まれたウタなのである。
新型コロナは人々の接触、移動に伴って拡散していく。まるでウタが人から人へ、また島から島へと広がっていくのとそっくりではないか。しかし人々は移動を止め、家にこもってコロナと闘っている。その苦しみの中から生まれたウタは人々の口から口へと広がることはできない。ところが、インターネット電波という手段を人類は持っている。
アメリカに住むウチナーンチュ、沖縄の人々は20世紀の初めに沖縄からアメリカに渡った。今は、その人々の末裔達がウタを作り電波に乗せて沖縄に送ったということになる。先祖の故郷沖縄に思いを馳せてウチナーグチで。
新型コロナに対決し人々の命を守るには、まず人の移動を止める事だ。
このウタは国と国、人と人とが今こそ手を結び心を一つにして新型コロナと闘うことを呼びかける。
正しい呼びかけだ。コロナを理解しない大統領の悪政のもとで信念を固めたのかもしれない。
ウタの歌詞はさらに変異するかもしれない。新型コロナウイルスの変異にも負けない強いウタになるかもしれない。
このウタには希望が見える。
人との接触を避けて、心を一つにしてこのウタを広げよう。
三線と共に。
作った方々、広めている方々に感謝する。
「コロナ節」が入ったCDは「沖縄ユーモアソング決定盤」3520円
コロナ関連の歌が2曲入っている。
YouTubeの仲宗根創さんの歌をたるーが採譜した工工四。
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2020年05月17日
浅地紺地
浅地紺地
あさじくんじ
'asaji kuNji
◯浅く染めた布地と濃い藍色に染めた布地
語句・あさじ 琉球藍で染めた布地で藍色が薄いもの。深い愛情を濃い紺色の布地に例え、浅地は浅く薄い愛情、または浮気心などを表すことが多い。
作詞 津波恒徳 作曲 津波恒英
一、紺染みゆとむてい 染みたしが浅地 染みらわんや浅地 色やちかん (色やちかん)
くんずみゆとぅむてぃ すみたしがあさじ すみらわんやあさじ いるやちかん
kuNzumi yu tumuti sumitashiga 'asaji sumirawaN ya 'asaji 'iru ya chikaN
◯紺色の濃い色に染めたいと思って染めたが浅地(浮気、軽い気持ち)だった 染めようとしても浅地 色がつかない
語句・くんずみ琉球藍で何度も染めて濃い藍色に染めたもの。黒に近い。・ゆ 文語で目的格の「を」に当たる。口語では用いない。・すみらわん 染めようとしても。<すみら。染めよう+わん。〜しようとも。・ちかん つかん。付かない。<ちちゅん。付く。否定形。
二、思切らねなゆみ しんじんと切りて たとい志情や 残てぃをうていん (残てぃをうていん )
うみちらねなゆみ しんじんとぅちりてぃ たとぅいしなさきや ぬくてぃうてぃん
'umichiranee nayumi shiNjiN tu chiriti tatui shinasaki ya nukuti utiN
◯諦めないわけにいくまい しみじみと縁を切って 例え愛情が残っていても
語句・うみちらね 諦めない。・なゆみ ならないだろう。・しんじんとぅ 神妙にしているさま。→しみじみと。
三、片糸や浅地 片糸や紺地 かんし染みぐりさ 二人が仲や (二人が仲や)
かたいとぅやあさじ かたいとぅやくんじ かんしすみぐりさ たいがなかや
kataitu ya 'asaji kataitu ya kuNji kaNshi sumigurisa tai ga naka ya
◯片方の糸は浅地 片方の糸は紺地 このように染めにくいものだよ二人の仲は
語句・かんし このように。こんなに。・ぐりさ 難しい。<くりさん。苦しい。
四、肝くみてでんし ちくちゃしがあだゆ 嵐世ぬ恋路 渡いぐりさ( 渡いぐりさ)
ちむくみてぃでんし ちくちゃしがあだゆ あらしゆぬくいじ わたいぐりさ
chimu kumiti deNshi chikuchashiga 'ada yu 'arashiyuu nu kuiji wataigurisa
◯心を込めてすら尽くしたのに仇を 嵐のような世の中 渡り難いものだ
・でんし ですら。だに。・あだ 徒労。無駄。
(コメント)
ままならぬ恋を歌ったウタは沖縄に限らずどこにでもある。
しかし、糸の染め方の強弱で愛情の濃さを表現するウタが現在でも歌われているのは沖縄民謡の特徴の一つと言えるかもしれない。
そういうと中島みゆきさんの「糸」を想起するかもしれないが、縦糸と横糸の関係だけで染色の話ではない。
「浅地紺地」という布(糸)の染め方で恋路の困難さをうたう場合、「浅地」が「浅い恋心」「浮気心」という例えになることも多い。
このウタは何を喩えているのか。意訳してみよう。
一、本気で惚れて愛情を注いできたのに、あなたは軽い気持ちだった。愛情で染めようとしても染まらない。色はつかない
二、あなたをあきらめようと思い、静かに思いを断とうと思う 例え愛情が残っていたとしても
三、あなたは浅地、私は紺地の糸のように、例え組み合わせても染まりにくいだろう、二人の仲は
四、心を込めて、尽くしてきたけれど仇となり、嵐のような世の中は渡り難いものだ
「浅地」について
浅地とは、琉球藍で何度も染めた紺地の濃い色(黒にも見える)に対して薄い色の事である。そういう意味で「浅地紺地」が使われている。しかし必ずしも昔から「浅地」という漢字が使われていたわけではない。
浅地紺染の色分けもないらぬ染めわかちたぼうれ紺屋の主
あさじくんじみぬいるわきんねらん すみわかちたぼり くんやぬあるじ
(歌意)浅葱色なのか、紺色なのか、はっきり染め分けしてください、紺屋の主よ
(引用【琉歌大成】(清水彰))
歌のところは「浅地」と書かれるのに意味では「浅葱」と書かれている。
「あさぎいろ」はウチナーグチ で「あさじいる」と発音する。
asagi iro→asaji iru
「ぎ gi 」は破擦音化で「じ ji」
「ろ ro」は三母音化で「る ru」になる。こういう変化を経てきた。
この古い琉歌をみると、薄い染めか濃い染めか、ではなく「浅葱色」か「紺色」かとい色分けの意味である。けれども浅葱色とは薄い紺色のことでもある。おそらく「あさじ」という読み方になったものに後から当て字をして「浅地」となったのだろう。
「浅地」と書いて薄い紺色という理解でも間違いはないが、「浅地色」には本来、浅葱色という色があり、そうした使われ方があったということを知ることも無駄ではないだろう。
浅葱色とは。
「浅葱色(あさぎいろ)とは、蓼藍(たであい)で染めた明るい青緑色のことです。浅葱とは薄い葱(ねぎ)の葉に因んだ色で、平安時代にはその名が見られる古くからの伝統色。」(参照 浅葱色(あさぎいろ)とは?:伝統色のいろは https://irocore.com/asagi-iro/)
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紺地とは
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(沖縄県立図書館 記帳資料デジタル書庫 より)
ちなみに「アサギマダラ」という蝶がいる。
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(Wikipediaより)
羽根の丸いところの色、薄い水色が浅葱色らしい。
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(津波恒英 「おきなわを唄う」に収録)
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あさじくんじ
'asaji kuNji
◯浅く染めた布地と濃い藍色に染めた布地
語句・あさじ 琉球藍で染めた布地で藍色が薄いもの。深い愛情を濃い紺色の布地に例え、浅地は浅く薄い愛情、または浮気心などを表すことが多い。
作詞 津波恒徳 作曲 津波恒英
一、紺染みゆとむてい 染みたしが浅地 染みらわんや浅地 色やちかん (色やちかん)
くんずみゆとぅむてぃ すみたしがあさじ すみらわんやあさじ いるやちかん
kuNzumi yu tumuti sumitashiga 'asaji sumirawaN ya 'asaji 'iru ya chikaN
◯紺色の濃い色に染めたいと思って染めたが浅地(浮気、軽い気持ち)だった 染めようとしても浅地 色がつかない
語句・くんずみ琉球藍で何度も染めて濃い藍色に染めたもの。黒に近い。・ゆ 文語で目的格の「を」に当たる。口語では用いない。・すみらわん 染めようとしても。<すみら。染めよう+わん。〜しようとも。・ちかん つかん。付かない。<ちちゅん。付く。否定形。
二、思切らねなゆみ しんじんと切りて たとい志情や 残てぃをうていん (残てぃをうていん )
うみちらねなゆみ しんじんとぅちりてぃ たとぅいしなさきや ぬくてぃうてぃん
'umichiranee nayumi shiNjiN tu chiriti tatui shinasaki ya nukuti utiN
◯諦めないわけにいくまい しみじみと縁を切って 例え愛情が残っていても
語句・うみちらね 諦めない。・なゆみ ならないだろう。・しんじんとぅ 神妙にしているさま。→しみじみと。
三、片糸や浅地 片糸や紺地 かんし染みぐりさ 二人が仲や (二人が仲や)
かたいとぅやあさじ かたいとぅやくんじ かんしすみぐりさ たいがなかや
kataitu ya 'asaji kataitu ya kuNji kaNshi sumigurisa tai ga naka ya
◯片方の糸は浅地 片方の糸は紺地 このように染めにくいものだよ二人の仲は
語句・かんし このように。こんなに。・ぐりさ 難しい。<くりさん。苦しい。
四、肝くみてでんし ちくちゃしがあだゆ 嵐世ぬ恋路 渡いぐりさ( 渡いぐりさ)
ちむくみてぃでんし ちくちゃしがあだゆ あらしゆぬくいじ わたいぐりさ
chimu kumiti deNshi chikuchashiga 'ada yu 'arashiyuu nu kuiji wataigurisa
◯心を込めてすら尽くしたのに仇を 嵐のような世の中 渡り難いものだ
・でんし ですら。だに。・あだ 徒労。無駄。
(コメント)
ままならぬ恋を歌ったウタは沖縄に限らずどこにでもある。
しかし、糸の染め方の強弱で愛情の濃さを表現するウタが現在でも歌われているのは沖縄民謡の特徴の一つと言えるかもしれない。
そういうと中島みゆきさんの「糸」を想起するかもしれないが、縦糸と横糸の関係だけで染色の話ではない。
「浅地紺地」という布(糸)の染め方で恋路の困難さをうたう場合、「浅地」が「浅い恋心」「浮気心」という例えになることも多い。
このウタは何を喩えているのか。意訳してみよう。
一、本気で惚れて愛情を注いできたのに、あなたは軽い気持ちだった。愛情で染めようとしても染まらない。色はつかない
二、あなたをあきらめようと思い、静かに思いを断とうと思う 例え愛情が残っていたとしても
三、あなたは浅地、私は紺地の糸のように、例え組み合わせても染まりにくいだろう、二人の仲は
四、心を込めて、尽くしてきたけれど仇となり、嵐のような世の中は渡り難いものだ
「浅地」について
浅地とは、琉球藍で何度も染めた紺地の濃い色(黒にも見える)に対して薄い色の事である。そういう意味で「浅地紺地」が使われている。しかし必ずしも昔から「浅地」という漢字が使われていたわけではない。
浅地紺染の色分けもないらぬ染めわかちたぼうれ紺屋の主
あさじくんじみぬいるわきんねらん すみわかちたぼり くんやぬあるじ
(歌意)浅葱色なのか、紺色なのか、はっきり染め分けしてください、紺屋の主よ
(引用【琉歌大成】(清水彰))
歌のところは「浅地」と書かれるのに意味では「浅葱」と書かれている。
「あさぎいろ」はウチナーグチ で「あさじいる」と発音する。
asagi iro→asaji iru
「ぎ gi 」は破擦音化で「じ ji」
「ろ ro」は三母音化で「る ru」になる。こういう変化を経てきた。
この古い琉歌をみると、薄い染めか濃い染めか、ではなく「浅葱色」か「紺色」かとい色分けの意味である。けれども浅葱色とは薄い紺色のことでもある。おそらく「あさじ」という読み方になったものに後から当て字をして「浅地」となったのだろう。
「浅地」と書いて薄い紺色という理解でも間違いはないが、「浅地色」には本来、浅葱色という色があり、そうした使われ方があったということを知ることも無駄ではないだろう。
浅葱色とは。
「浅葱色(あさぎいろ)とは、蓼藍(たであい)で染めた明るい青緑色のことです。浅葱とは薄い葱(ねぎ)の葉に因んだ色で、平安時代にはその名が見られる古くからの伝統色。」(参照 浅葱色(あさぎいろ)とは?:伝統色のいろは https://irocore.com/asagi-iro/)
紺地とは
(沖縄県立図書館 記帳資料デジタル書庫 より)
ちなみに「アサギマダラ」という蝶がいる。
(Wikipediaより)
羽根の丸いところの色、薄い水色が浅葱色らしい。
(津波恒英 「おきなわを唄う」に収録)
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2020年05月11日
歩っちみそーれー御年寄方
歩っちみそーれー御年寄方
あっちみそーれー うとぅすいがた
’acchimisooree ’utusuigata
◯お歩きください お年寄りの皆様
語句・あっちみそーれー お歩きください。<あっち<あっちゅん。歩く。+みそーれー<みせーん。・・なさる。お・・になる。の命令形。・うとぅすい お年寄り。<とぅすい。年寄り。成り立ちは[toshiyori→tushiyuri→tushuri→tusui]。
作詞 真玉橋次郎 曲 てんよう節 又は 中立ぬみががま
歌三線 嘉手苅林昌
一、歩っちみそーれー 歩っちゃびらな 老人クラブぬ御年寄方 歩っちゅる運動や御年寄ぬ身体ぬ為にないびーんどー
※ あっちみそーれー あっちゃびらな 老人クラブぬ御年寄方
あっちみそーれー あっちゃびらな [ろーじん]くらぶぬうとぅすいがた あっちゅるうんどーやうとぅすいぬ からだぬたみにないびーんどー
※ あっちみそーれー あっちゃびらな ろーじんくらぶぬうとぅすいがた
※繰り返しは以下略す。
[ ]は大和口。
'acchimisooree 'acchabirana [roojiN]kurabu nu 'urusuigata 'acchuuru uNdoo ya ‘utusui nu karada nu tami ni naibiiN doo
◯お歩きください 歩きましょう 老人クラブのお年寄りの皆さん 歩く運動はお年寄りのお身体の為になりますよ
ニ、今日ん朝起き楽しみに 東太陽ん 拝まってぃ 野畑ぬ風んソイソイとぅ 悩みぬ苦ちさん ふっ飛ばち
※繰り返し
ちゅーんあさうきたぬしみに あがりてぃーだん うがまってぃ ぬはるぬかじんそいそいとぅ なやみぬくちさん ふっとぅばち
chuuN ’asa ’uki tanushimi ni ’agari tiidaN 'ugamatti nuhara nu kajiN sooi sooi tu nayami nu kuchisaN huttubachi
◯ 今日も朝起きて楽しみに東からのぼる太陽を拝まれて野や畑の風もソイソイと吹けば 悩みの苦しみも吹っ飛ばして
語句・うがまってぃ (私に)拝まれて。<うがぬん。うがむん。拝む。→受け身は「うがまってぃ」。ここでは「太陽が私から拝まれて」という形。太陽を主語にした表現。・くちさん 苦しい。つらい。形容詞。
三、心ん晴り晴り涼々とぅ 年や老きてぃん今若さん 心勇みてぃ歩っちゃびらな 腕振い けー振い汗流ち
くくるんはりばりしだしだとぅ とぅしやふきてぃんなまわかさん くくるいさみてぃあっちゃびら うでぃふいけーふいあしながち
kukuru haribari shidashidatu tushi ya hukitiN nama wakasaN kukuru 'isamiti 'acchabirana 'udi hui kee hui 'ashinagachi
※繰り返し
◯心も晴れ晴れ涼くて 歳は老けても今は若い 心を励まして歩きましょう 腕を振り手を振り汗流して
語句・けーふい
四、歩ちゅる中る元気なてぃ 若衆に負きゆみ今までぃや トーカチ、カジマヤーん今早ーさん 百才ぬ長命易々とぅ
あっちゅるなーかる[げんき]なてぃ わかすにまきゆみなままでぃや とーかち かじまやーん なまへーさん ひゃくせーぬちょーめい やしやしとぅ
'Acchuru naaka ru [geNki]nati wakasu ni makiyumi nama madiya tookachi kajimayaaN nama heesaN hyakusee nu choomee yashiyashitu
◯ 歩く中でこそ元気になって 若者たちに負けられますか?今までは 八十八歳米寿祝いのトーカチや、数え九十七歳祝いのカジマヤーも今まだ早い 百歳の長命を易々と
語句・るどぅ。こそ。・とーかち 米寿(八十八歳)の祝い。トーカチとは「斗掻(とかき)」という米の量を測るときに枡の米をならすときに使う竹の棒の事。・むむとぅ 百歳。百歳だけで「むむとぅ」と読むので「百歳と」と歌詞にあるのは間違い。・かじまやー 数え年九十七才を祝う。「かじまやー」とは風車の意味で子どもに還るからという意味がある。・へーさん早い。・ひゃくせー百歳。
![]()
(レコードストアのHPより http://kikimimi.shop-pro.jp/?pid=64293535)
歌詞は筆者聴き取り。一部、嘉手苅林次先生の御教唆をいただきました。
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あっちみそーれー うとぅすいがた
’acchimisooree ’utusuigata
◯お歩きください お年寄りの皆様
語句・あっちみそーれー お歩きください。<あっち<あっちゅん。歩く。+みそーれー<みせーん。・・なさる。お・・になる。の命令形。・うとぅすい お年寄り。<とぅすい。年寄り。成り立ちは[toshiyori→tushiyuri→tushuri→tusui]。
作詞 真玉橋次郎 曲 てんよう節 又は 中立ぬみががま
歌三線 嘉手苅林昌
一、歩っちみそーれー 歩っちゃびらな 老人クラブぬ御年寄方 歩っちゅる運動や御年寄ぬ身体ぬ為にないびーんどー
※ あっちみそーれー あっちゃびらな 老人クラブぬ御年寄方
あっちみそーれー あっちゃびらな [ろーじん]くらぶぬうとぅすいがた あっちゅるうんどーやうとぅすいぬ からだぬたみにないびーんどー
※ あっちみそーれー あっちゃびらな ろーじんくらぶぬうとぅすいがた
※繰り返しは以下略す。
[ ]は大和口。
'acchimisooree 'acchabirana [roojiN]kurabu nu 'urusuigata 'acchuuru uNdoo ya ‘utusui nu karada nu tami ni naibiiN doo
◯お歩きください 歩きましょう 老人クラブのお年寄りの皆さん 歩く運動はお年寄りのお身体の為になりますよ
ニ、今日ん朝起き楽しみに 東太陽ん 拝まってぃ 野畑ぬ風んソイソイとぅ 悩みぬ苦ちさん ふっ飛ばち
※繰り返し
ちゅーんあさうきたぬしみに あがりてぃーだん うがまってぃ ぬはるぬかじんそいそいとぅ なやみぬくちさん ふっとぅばち
chuuN ’asa ’uki tanushimi ni ’agari tiidaN 'ugamatti nuhara nu kajiN sooi sooi tu nayami nu kuchisaN huttubachi
◯ 今日も朝起きて楽しみに東からのぼる太陽を拝まれて野や畑の風もソイソイと吹けば 悩みの苦しみも吹っ飛ばして
語句・うがまってぃ (私に)拝まれて。<うがぬん。うがむん。拝む。→受け身は「うがまってぃ」。ここでは「太陽が私から拝まれて」という形。太陽を主語にした表現。・くちさん 苦しい。つらい。形容詞。
三、心ん晴り晴り涼々とぅ 年や老きてぃん今若さん 心勇みてぃ歩っちゃびらな 腕振い けー振い汗流ち
くくるんはりばりしだしだとぅ とぅしやふきてぃんなまわかさん くくるいさみてぃあっちゃびら うでぃふいけーふいあしながち
kukuru haribari shidashidatu tushi ya hukitiN nama wakasaN kukuru 'isamiti 'acchabirana 'udi hui kee hui 'ashinagachi
※繰り返し
◯心も晴れ晴れ涼くて 歳は老けても今は若い 心を励まして歩きましょう 腕を振り手を振り汗流して
語句・けーふい
四、歩ちゅる中る元気なてぃ 若衆に負きゆみ今までぃや トーカチ、カジマヤーん今早ーさん 百才ぬ長命易々とぅ
あっちゅるなーかる[げんき]なてぃ わかすにまきゆみなままでぃや とーかち かじまやーん なまへーさん ひゃくせーぬちょーめい やしやしとぅ
'Acchuru naaka ru [geNki]nati wakasu ni makiyumi nama madiya tookachi kajimayaaN nama heesaN hyakusee nu choomee yashiyashitu
◯ 歩く中でこそ元気になって 若者たちに負けられますか?今までは 八十八歳米寿祝いのトーカチや、数え九十七歳祝いのカジマヤーも今まだ早い 百歳の長命を易々と
語句・るどぅ。こそ。・とーかち 米寿(八十八歳)の祝い。トーカチとは「斗掻(とかき)」という米の量を測るときに枡の米をならすときに使う竹の棒の事。・むむとぅ 百歳。百歳だけで「むむとぅ」と読むので「百歳と」と歌詞にあるのは間違い。・かじまやー 数え年九十七才を祝う。「かじまやー」とは風車の意味で子どもに還るからという意味がある。・へーさん早い。・ひゃくせー百歳。
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2020年05月10日
御年日ぬ唄
御年日ぬ唄
うとぅしびーぬうた
’utushibii nu ’uta
◯御生年日祝いの唄
語句・うとぅしびー 「(各人)の生まれ年の干支と一致する(旧)正月早々日(の祝い)」【琉球語辞典(半田一郎)】(以後【琉辞】。)いわゆる生年日の祝い。
作詞 宜保 盛幸 編曲 大城志津子
一 、 今日ぬ御年日や 子孫前なち 百二十歳までぃん 御掛きみしょり(イースリ サーサー)
きゆぬうとぅしびや くゎんまがめーなち ひゃくはたちまでぃん うかきみしょーり(いーすりさーさー)
kiyu nu ’utushibii ya kwaa Nmagaa meenachi hyakuhatachi madiN ’ukakimishoori
(isuuri saasaa)
※囃子言葉は以下省略。
◯今日の御生年日の祝いは子や孫を前にして百二十歳までご支配ください
語句・うかきみしょーりご支配ください。<かきゆん。「掛ける。賭ける。(秤に)掛ける。支配する。」+<みしょーり。<みせーん。なさいます。の命令形。なさいませ。
二、 六十一ばんじ 十七、八心 何時ん若々とぅ 年とぅ共に
るくじゅーいちばんじ じゅーしちはちぐくる いちんわかわかとぅ とぅしとぅとぅむに
rukujuu baNji juushichihachi gukuru ’ichiNwakawaka tu tushi tu tumu ni
◯六十一歳は真っ盛りで十七・八くらいのようだ 何時も若々しく年と共に
語句・ばんじ 真っ最中。・ぐくる ・・のようだ。<くくる。こころ。いわゆる精神的な意味の「心」ではなく、「・・のようなこと[もの][気持ち]」【琉辞】。別のものに例える場合に。ウタの中で使われることが多い。
三、 七十三御祝え 御万人んいもち 酌取いる御酒 体御願げ
しちじゅーさんうゆぅえ うまんちゅんいもち しゃくとぅいるうさき からだうにげ
shichijuusaN ’uyuwee ’umaNchuN ’imoochi shaku tuiru ’usaki karada ’unigee
◯七十三歳の祝いは多くの方がいらっしゃって 酌に受け取ったお酒には健康の願いを込めて
四、 八十五ぬ年日 八十八トーカチ 百歳風車ん 御祝えさぴら
はちじゅーぐぬとぅしび はちじゅーはちとーかち むむとぅかじまやーん うゆうぇーさびら
hachijuugu nu tushibii hachijuuhachi tookachi mumutu kajimayaaN ’uyuweesabira
◯八十五歳の年日祝い 八十八のトーカチ祝い 百歳カジマヤーの祝い お祝いいたしましょう
語句・とーかち 米寿(八十八歳)の祝い。トーカチとは「斗掻(とかき)」という米の量を測るときに枡の米をならすときに使う竹の棒の事。・むむとぅ 百歳。百歳だけで「むむとぅ」と読むので「百歳と」と歌詞にあるのは間違い。・かじまやー 数え年九十七才を祝う。「かじまやー」とは風車の意味で子どもに還るからという意味がある。
五、 琴や三味線に 弦合わち今日や 踊いはにしちょてぃ御祝えあしば
くとぅやさんしんに ちるあわちきゆや うどぅいはにしちょーてぃ うゆえあしば
kutu ya saNshin ni chiruu ‘awachi kiyu ya udui hani shichooti ‘uyuwee’ashiba
◯お琴や三線を弦の高さを合わせて今日は踊ったり跳ねたりしていてお祝いし遊びましょう
語句・うどぅいはに踊ったり、跳ねたり。「踊り羽」と当て字がしてある。
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「我した島唄~大城志津子決定盤~」に収録。
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うとぅしびーぬうた
’utushibii nu ’uta
◯御生年日祝いの唄
語句・うとぅしびー 「(各人)の生まれ年の干支と一致する(旧)正月早々日(の祝い)」【琉球語辞典(半田一郎)】(以後【琉辞】。)いわゆる生年日の祝い。
作詞 宜保 盛幸 編曲 大城志津子
一 、 今日ぬ御年日や 子孫前なち 百二十歳までぃん 御掛きみしょり(イースリ サーサー)
きゆぬうとぅしびや くゎんまがめーなち ひゃくはたちまでぃん うかきみしょーり(いーすりさーさー)
kiyu nu ’utushibii ya kwaa Nmagaa meenachi hyakuhatachi madiN ’ukakimishoori
(isuuri saasaa)
※囃子言葉は以下省略。
◯今日の御生年日の祝いは子や孫を前にして百二十歳までご支配ください
語句・うかきみしょーりご支配ください。<かきゆん。「掛ける。賭ける。(秤に)掛ける。支配する。」+<みしょーり。<みせーん。なさいます。の命令形。なさいませ。
二、 六十一ばんじ 十七、八心 何時ん若々とぅ 年とぅ共に
るくじゅーいちばんじ じゅーしちはちぐくる いちんわかわかとぅ とぅしとぅとぅむに
rukujuu baNji juushichihachi gukuru ’ichiNwakawaka tu tushi tu tumu ni
◯六十一歳は真っ盛りで十七・八くらいのようだ 何時も若々しく年と共に
語句・ばんじ 真っ最中。・ぐくる ・・のようだ。<くくる。こころ。いわゆる精神的な意味の「心」ではなく、「・・のようなこと[もの][気持ち]」【琉辞】。別のものに例える場合に。ウタの中で使われることが多い。
三、 七十三御祝え 御万人んいもち 酌取いる御酒 体御願げ
しちじゅーさんうゆぅえ うまんちゅんいもち しゃくとぅいるうさき からだうにげ
shichijuusaN ’uyuwee ’umaNchuN ’imoochi shaku tuiru ’usaki karada ’unigee
◯七十三歳の祝いは多くの方がいらっしゃって 酌に受け取ったお酒には健康の願いを込めて
四、 八十五ぬ年日 八十八トーカチ 百歳風車ん 御祝えさぴら
はちじゅーぐぬとぅしび はちじゅーはちとーかち むむとぅかじまやーん うゆうぇーさびら
hachijuugu nu tushibii hachijuuhachi tookachi mumutu kajimayaaN ’uyuweesabira
◯八十五歳の年日祝い 八十八のトーカチ祝い 百歳カジマヤーの祝い お祝いいたしましょう
語句・とーかち 米寿(八十八歳)の祝い。トーカチとは「斗掻(とかき)」という米の量を測るときに枡の米をならすときに使う竹の棒の事。・むむとぅ 百歳。百歳だけで「むむとぅ」と読むので「百歳と」と歌詞にあるのは間違い。・かじまやー 数え年九十七才を祝う。「かじまやー」とは風車の意味で子どもに還るからという意味がある。
五、 琴や三味線に 弦合わち今日や 踊いはにしちょてぃ御祝えあしば
くとぅやさんしんに ちるあわちきゆや うどぅいはにしちょーてぃ うゆえあしば
kutu ya saNshin ni chiruu ‘awachi kiyu ya udui hani shichooti ‘uyuwee’ashiba
◯お琴や三線を弦の高さを合わせて今日は踊ったり跳ねたりしていてお祝いし遊びましょう
語句・うどぅいはに踊ったり、跳ねたり。「踊り羽」と当て字がしてある。
「我した島唄~大城志津子決定盤~」に収録。
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2020年03月14日
茅打ちバンタ
茅打バンタ
かやうちばんた
kayauchi baNta
◯「茅打ちバンタ」という地名
語句・かやうちばんた「はんた」とは崖、つまり崖っぷちのことである。沖縄本島の北部、国頭村の辺戸岬の手前にある崖の名前で高さ100メートルほどの高さがある。茅の束を上から落とすとバラバラと音をたてて落ちることからそう名付けられた。
作詞 前田義全 作曲 山内昌春 唄三線 古謝 栄仁
一、音に豊まりる茅打ぬハンタ 昔戻る道 なまや変わて (なまや変わて)
(カッコは繰り返し。以下省略)
うとぅにとぅゆまりる かやうちぬはんた んかしむどぅるみち なまやかわてぃ
‘utu ni tuyumariru kayauchi nu haNta ‘Nkashi mudurumichi nama ya kawati
◯有名な茅打ちバンタ 昔の戻る道は今は変わってしまって
語句・うとぅにとぅゆまりる有名である。・むどぅるみち茅打ちバンタに行くには昔、宜名真漁港からの登る一本道しかなかった。岩の裂け目にある狭いその道は人がすれ違うことも困難で、どちらかが譲って「戻る」ことから「戻り道」とよばれた。
二、茅打ぬハンタ 何時ん白々と 波の花咲かち 足ゆ止みて
かやうちぬはんた いちんしらじらとぅ なみぬはなさかち あしゆとぅみてぃ
kayauchi nu haNta ‘ichiN shirajira tu nami nu hana sakachi ‘ashi yu tumiti
◯茅打ちバンタ(から見る景色は)いつも白々と波の花が咲いたように見えて 足を止めて(眺めている)
三、茅打ぬハンタ 遊ぶ美童女ぬ 唄声ぬ清らさ 目笑美らさ
かやうちぬはんた あしぶみやらびぬ うたぐぃぬしゅらさ みわれちゅらさ
kayauchi nu haNta ‘ashibu miyarabi nu ‘utagwii nu shurasa miiwaree churasa
◯茅打ちバンタで遊ぶ娘の歌声のかわいらしいことよ!笑顔が美しいことよ!
語句・しゅらさ<しゅらーさん。可愛い。・うたぐぃ会話での発音は「うたぐぃー」。・ちゅらさ<ちゅらさん。美しい。という形容詞が「ちゅらさ」と体現止めになると「なんと美しいのか」という感嘆の意味になる。
四、朝夕うす風に むまりやい居てん 茅打ぬハンタ 千代ぬ姿
あさゆうすかじに むまりやいうてぃん かやうちぬばんた ちゆぬしがた
‘asa yuu ‘usukaji ni mumariyai utiN kayauchi nu haNta chiyu nu shigata
◯朝夕毎日のそよ風にもまれていても茅打ちバンタは昔からの姿のままだ
語句・あさゆ<あさゆー。「毎日」のことである。・うすかじ「そよ風」
コメント
観光地としては辺戸岬に向かう途中にある景勝地を讃えたウタである。
作曲の山内昌春氏は「赤犬子」「一番友小」などの作者であり民謡歌手である。
作詞の前田義全氏はあまり知られていないが多くの琉歌の作者であると同時に元ハンセン病の患者である。
2016年頃、那覇の楽器店でたまたま見つけたレコード。150円だった。作詞をされた前田義全さんとはご存命中の2015年に知り合い、ご自宅のある沖縄愛楽園で泡盛を交わして琉歌について色々と教えていただいたことがあった。
そこで「茅打ちバンタ」のことについても伺っていた。前田義全さんの作られた琉歌は数知れないが、そのうちのいくつか。
屋我地島浦の白波の美らさ
浮る島々の影んのどか
道やりば里前 近道(くんちり)
んゆたさ
人生の道やりば誠肝いりて
岩間走ゐ松ぬ下枝ゆくぐて
出じ船ぬ美らしゃ 運天ぬ港
想いや景色を琉歌に即興的に歌い込めていくことが、ハンセン病や差別との苦しみの中で大きな支えになったと義全さんは泡盛を片手に語ってくださった。
「沖縄のウタは泥の中から生まれた。良い暮らしの中から生まれたものではない。皆苦労して生まれてきたウタ。だから、どんなに打たれてもひどいことをされても人を恨むことはない。人を助けるのが沖縄のウタなんだ」
「確かにウタには裏も表もある。しかし金儲けや人気とりや、人を蔑むためのものじゃない。そんな悪い心を持ってウタを歌うものじゃない」
茅打ちバンタを聴きながら義全さんの言葉の重さを感じる。
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2015年愛楽園にて。筆者と前田義全さん。
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前田義全さんが自作の琉歌を綴られたもの。何冊もご自宅にはあった。
【このブログが本になりました!】
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かやうちばんた
kayauchi baNta
◯「茅打ちバンタ」という地名
語句・かやうちばんた「はんた」とは崖、つまり崖っぷちのことである。沖縄本島の北部、国頭村の辺戸岬の手前にある崖の名前で高さ100メートルほどの高さがある。茅の束を上から落とすとバラバラと音をたてて落ちることからそう名付けられた。
作詞 前田義全 作曲 山内昌春 唄三線 古謝 栄仁
一、音に豊まりる茅打ぬハンタ 昔戻る道 なまや変わて (なまや変わて)
(カッコは繰り返し。以下省略)
うとぅにとぅゆまりる かやうちぬはんた んかしむどぅるみち なまやかわてぃ
‘utu ni tuyumariru kayauchi nu haNta ‘Nkashi mudurumichi nama ya kawati
◯有名な茅打ちバンタ 昔の戻る道は今は変わってしまって
語句・うとぅにとぅゆまりる有名である。・むどぅるみち茅打ちバンタに行くには昔、宜名真漁港からの登る一本道しかなかった。岩の裂け目にある狭いその道は人がすれ違うことも困難で、どちらかが譲って「戻る」ことから「戻り道」とよばれた。
二、茅打ぬハンタ 何時ん白々と 波の花咲かち 足ゆ止みて
かやうちぬはんた いちんしらじらとぅ なみぬはなさかち あしゆとぅみてぃ
kayauchi nu haNta ‘ichiN shirajira tu nami nu hana sakachi ‘ashi yu tumiti
◯茅打ちバンタ(から見る景色は)いつも白々と波の花が咲いたように見えて 足を止めて(眺めている)
三、茅打ぬハンタ 遊ぶ美童女ぬ 唄声ぬ清らさ 目笑美らさ
かやうちぬはんた あしぶみやらびぬ うたぐぃぬしゅらさ みわれちゅらさ
kayauchi nu haNta ‘ashibu miyarabi nu ‘utagwii nu shurasa miiwaree churasa
◯茅打ちバンタで遊ぶ娘の歌声のかわいらしいことよ!笑顔が美しいことよ!
語句・しゅらさ<しゅらーさん。可愛い。・うたぐぃ会話での発音は「うたぐぃー」。・ちゅらさ<ちゅらさん。美しい。という形容詞が「ちゅらさ」と体現止めになると「なんと美しいのか」という感嘆の意味になる。
四、朝夕うす風に むまりやい居てん 茅打ぬハンタ 千代ぬ姿
あさゆうすかじに むまりやいうてぃん かやうちぬばんた ちゆぬしがた
‘asa yuu ‘usukaji ni mumariyai utiN kayauchi nu haNta chiyu nu shigata
◯朝夕毎日のそよ風にもまれていても茅打ちバンタは昔からの姿のままだ
語句・あさゆ<あさゆー。「毎日」のことである。・うすかじ「そよ風」
コメント
観光地としては辺戸岬に向かう途中にある景勝地を讃えたウタである。
作曲の山内昌春氏は「赤犬子」「一番友小」などの作者であり民謡歌手である。
作詞の前田義全氏はあまり知られていないが多くの琉歌の作者であると同時に元ハンセン病の患者である。
2016年頃、那覇の楽器店でたまたま見つけたレコード。150円だった。作詞をされた前田義全さんとはご存命中の2015年に知り合い、ご自宅のある沖縄愛楽園で泡盛を交わして琉歌について色々と教えていただいたことがあった。
そこで「茅打ちバンタ」のことについても伺っていた。前田義全さんの作られた琉歌は数知れないが、そのうちのいくつか。
屋我地島浦の白波の美らさ
浮る島々の影んのどか
道やりば里前 近道(くんちり)
んゆたさ
人生の道やりば誠肝いりて
岩間走ゐ松ぬ下枝ゆくぐて
出じ船ぬ美らしゃ 運天ぬ港
想いや景色を琉歌に即興的に歌い込めていくことが、ハンセン病や差別との苦しみの中で大きな支えになったと義全さんは泡盛を片手に語ってくださった。
「沖縄のウタは泥の中から生まれた。良い暮らしの中から生まれたものではない。皆苦労して生まれてきたウタ。だから、どんなに打たれてもひどいことをされても人を恨むことはない。人を助けるのが沖縄のウタなんだ」
「確かにウタには裏も表もある。しかし金儲けや人気とりや、人を蔑むためのものじゃない。そんな悪い心を持ってウタを歌うものじゃない」
茅打ちバンタを聴きながら義全さんの言葉の重さを感じる。
2015年愛楽園にて。筆者と前田義全さん。
前田義全さんが自作の琉歌を綴られたもの。何冊もご自宅にはあった。
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2020年02月05日
親心
親心
うやぐくる
‘uya gukuru
◯親心
作詞・作曲 普久原朝喜
歌三線 山里ユキ
一、銭やこの世の廻りもの 難儀辛苦や世の習ひ 産子育てや世間の人並 育てる産子や万貫の宝
じんやくぬゆぬまわりむん なんじしんくやゆぬならゐ なしぐゎすだてぃやしきんぬちゅなみ すだてぃるなしぐゎやまんぐゎんぬたから
jiN ya kunuyu nu mawarimuN naNji shiNku ya yuu nu narai nashigwaa sudati ya shikiN nu chunami sudatiru nashigwaa ya maNgwaN nu takara
◯お金はこの世の廻りもの 苦労は世の中では当たり前だ 子育ては世間の人並み 育てる子どもは万貫(当時200円ほど。高額だった)に匹敵する宝
語句・じん 銭。・なしぐゎ自分が産んだ子ども。・まんぐゎん万貫。一貫は二銭だったから二百円になる。
二、產子育てることやれば 一時の苦労や塵どやる 産子育てや楽しみものさみ 産子育てやお国の為にも
なしぐゎすでぃるくとぅやりば いちじぬくろーやちりどぅやる なしぐゎすだてぃやたぬしみむんさみ なしぐゎすだてぃやうくにぬたみにん
nashigwa sudatiru kutu yariba ‘ichiji nu kuroo ya chiri du yaru nashigwa sudati ya tanushimimuNsami nashigwa sudati ya ‘ukuni nu taminiN
◯子どもを育てることであれば一時の苦労など塵ほどのものに過ぎない 子どもの成長は楽しみであろう 子育てはお国の為にも
語句・やりば 〜であるなら。・どぅやる 〜である。
三、何時が産子も物思て 親の苦労もわかて呉て 親に孝行もお国の為にも 尽ちょて呉ゆる宝の産子
いちがなしぐゎんむぬうむてぃ うやぬくろーんわかてぃくぃてぃ うやにこーこーんうくにぬたみにん ちくちょてぃくぃゆるたからぬなしぐゎ
‘ichi ga nashigwaN munu ‘umuti ‘uya nu kurooN wakati kwiti ‘uya ni kookooN ‘ukuni nu taminiN chikuchooti kwiyuru takara nu nashigwa
◯いつか子どもは考えるようになり 親の苦労が分かってくれて 親に孝行することをお国のためにも 尽くしてくれる宝の我が子
語句・いちが いつか。<いち。いつ。+が。疑問の助詞。
四、男の産子や墨習らち 女の産子や夫持たち 産子多さやお国の為にも お国の栄や臣下ど宝
ゐきがぬなしぐゎやしみならち ゐなぐぬなしぐゎやうとぅむたち なしぐゎうふさやうくにぬたみにん うくにぬさけーやしんかどぅたから
wikiga nu nashigwa ya shimi narachi winagu nu nashigwa ya utu mutachi nashigwa ‘uhusa ya ‘ukuni nu taminiN ‘ukuni nu sakee ya shiNka du takara
◯男の子は学問を習わせ、女の子には結婚させ 子どもの多さはお国のためにも お国の栄えは家族や仲間を宝とすることにある
語句・しみ 学問。<しみなれー。学問。・うとぅ夫。「音」も「うとぅ」だが、こちらは声門破裂音がある。・しんか仲間。「部下;〔転じて〕家族、仲間。」【琉球語辞典(半田一郎)】
(コメント)
三線教室の生徒の一人がこれをやりたい、と言ってきたので持っていたCD「山里ユキ特集」を改めて聴き、工工四も見つけた。
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久しぶりの当ブログである。実は、これまでは電車通勤の時間などを活用して書いてきたが電車通勤もなくなり、「たるーの三線 ゆがふ家」という三線屋と「しまうた酒菜 ゆがふ家」という居酒屋を昨年立ち上げたのでブログにかける時間も取れず忙殺されていた。
それでも、このブログを読んでくださる方々が多いことを痛感することが最近よくあり、店の仕込みなどの休み時間を見つけて書いてみた。だがそれは所詮私ごとにすぎない話なので本題に入ろう。
作詞作曲は普久原朝喜(1903-1981)氏である。
ご存知のように朝喜氏は戦前戦中そして戦後の沖縄民謡を自分の作品と古典や民謡唄者の演奏を録音しレコード化することによって大きな貢献をされた方である。
作品には「入営出船の港」「浦波節」(「物知り節」ともいう)「移民小唄」「恨みの唄」「世宝節」「布哇節」「無情の唄」などがある。そしてこの「親心」である。
ウタの時代背景を色濃く反映したウタである。もちろん時代背景を反映しないウタなどないと思うが、特に戦時中は検閲という国家権力によるウタへの統制があったために、検閲をかなり意識したとみられるウタは多い。朝喜氏のこの「親心」もその一つだろう。そしてそれを軍国主義への協力と見ることは十分可能である。
「親心」は子育てをテーマに、子どもは宝である、だから親の苦労など大したことはない。子どもも成長すれば親に孝行する。国のためにも。男の子には勉強をさせ、女の子には良い結婚をさせることが国の為にもなる、何故ならば子どもたちが幸せになることが国の繁栄になるのだから。とうたう。
現在の目線で見れば明らかな男女差別、性差別を含んでいる。朝喜氏が戦後の沖縄民謡の復興にも大きな役割を果たされたことを踏まえても、このウタに含まれる軍国主義的、性差別的部分を看過することはできない。
それでもこの朝喜氏が検閲をも通過できるように歌詞を作った中に、ある工夫があると思うのは考えすぎだろうか。
それは二度も繰り返される「お国のためにも」の「も」である。おそらく激戦時期より前に作られたのではないか、と思えるほど「国の為に命を捧げよ!」的な表現はなく、男尊女卑的ではあるが子どもたちを大切にしよう、子育ては自分のためでもある、が「国のためでも」あるというロジックが許された時期のウタなのであろう。
最後の「お国の栄えは家族や仲間を宝とすることにある」。このような思想は「国の為に命を捧げよ」とした軍国主義の色濃い時代には決して許されなかったはずだ。
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うやぐくる
‘uya gukuru
◯親心
作詞・作曲 普久原朝喜
歌三線 山里ユキ
一、銭やこの世の廻りもの 難儀辛苦や世の習ひ 産子育てや世間の人並 育てる産子や万貫の宝
じんやくぬゆぬまわりむん なんじしんくやゆぬならゐ なしぐゎすだてぃやしきんぬちゅなみ すだてぃるなしぐゎやまんぐゎんぬたから
jiN ya kunuyu nu mawarimuN naNji shiNku ya yuu nu narai nashigwaa sudati ya shikiN nu chunami sudatiru nashigwaa ya maNgwaN nu takara
◯お金はこの世の廻りもの 苦労は世の中では当たり前だ 子育ては世間の人並み 育てる子どもは万貫(当時200円ほど。高額だった)に匹敵する宝
語句・じん 銭。・なしぐゎ自分が産んだ子ども。・まんぐゎん万貫。一貫は二銭だったから二百円になる。
二、產子育てることやれば 一時の苦労や塵どやる 産子育てや楽しみものさみ 産子育てやお国の為にも
なしぐゎすでぃるくとぅやりば いちじぬくろーやちりどぅやる なしぐゎすだてぃやたぬしみむんさみ なしぐゎすだてぃやうくにぬたみにん
nashigwa sudatiru kutu yariba ‘ichiji nu kuroo ya chiri du yaru nashigwa sudati ya tanushimimuNsami nashigwa sudati ya ‘ukuni nu taminiN
◯子どもを育てることであれば一時の苦労など塵ほどのものに過ぎない 子どもの成長は楽しみであろう 子育てはお国の為にも
語句・やりば 〜であるなら。・どぅやる 〜である。
三、何時が産子も物思て 親の苦労もわかて呉て 親に孝行もお国の為にも 尽ちょて呉ゆる宝の産子
いちがなしぐゎんむぬうむてぃ うやぬくろーんわかてぃくぃてぃ うやにこーこーんうくにぬたみにん ちくちょてぃくぃゆるたからぬなしぐゎ
‘ichi ga nashigwaN munu ‘umuti ‘uya nu kurooN wakati kwiti ‘uya ni kookooN ‘ukuni nu taminiN chikuchooti kwiyuru takara nu nashigwa
◯いつか子どもは考えるようになり 親の苦労が分かってくれて 親に孝行することをお国のためにも 尽くしてくれる宝の我が子
語句・いちが いつか。<いち。いつ。+が。疑問の助詞。
四、男の産子や墨習らち 女の産子や夫持たち 産子多さやお国の為にも お国の栄や臣下ど宝
ゐきがぬなしぐゎやしみならち ゐなぐぬなしぐゎやうとぅむたち なしぐゎうふさやうくにぬたみにん うくにぬさけーやしんかどぅたから
wikiga nu nashigwa ya shimi narachi winagu nu nashigwa ya utu mutachi nashigwa ‘uhusa ya ‘ukuni nu taminiN ‘ukuni nu sakee ya shiNka du takara
◯男の子は学問を習わせ、女の子には結婚させ 子どもの多さはお国のためにも お国の栄えは家族や仲間を宝とすることにある
語句・しみ 学問。<しみなれー。学問。・うとぅ夫。「音」も「うとぅ」だが、こちらは声門破裂音がある。・しんか仲間。「部下;〔転じて〕家族、仲間。」【琉球語辞典(半田一郎)】
(コメント)
三線教室の生徒の一人がこれをやりたい、と言ってきたので持っていたCD「山里ユキ特集」を改めて聴き、工工四も見つけた。
久しぶりの当ブログである。実は、これまでは電車通勤の時間などを活用して書いてきたが電車通勤もなくなり、「たるーの三線 ゆがふ家」という三線屋と「しまうた酒菜 ゆがふ家」という居酒屋を昨年立ち上げたのでブログにかける時間も取れず忙殺されていた。
それでも、このブログを読んでくださる方々が多いことを痛感することが最近よくあり、店の仕込みなどの休み時間を見つけて書いてみた。だがそれは所詮私ごとにすぎない話なので本題に入ろう。
作詞作曲は普久原朝喜(1903-1981)氏である。
ご存知のように朝喜氏は戦前戦中そして戦後の沖縄民謡を自分の作品と古典や民謡唄者の演奏を録音しレコード化することによって大きな貢献をされた方である。
作品には「入営出船の港」「浦波節」(「物知り節」ともいう)「移民小唄」「恨みの唄」「世宝節」「布哇節」「無情の唄」などがある。そしてこの「親心」である。
ウタの時代背景を色濃く反映したウタである。もちろん時代背景を反映しないウタなどないと思うが、特に戦時中は検閲という国家権力によるウタへの統制があったために、検閲をかなり意識したとみられるウタは多い。朝喜氏のこの「親心」もその一つだろう。そしてそれを軍国主義への協力と見ることは十分可能である。
「親心」は子育てをテーマに、子どもは宝である、だから親の苦労など大したことはない。子どもも成長すれば親に孝行する。国のためにも。男の子には勉強をさせ、女の子には良い結婚をさせることが国の為にもなる、何故ならば子どもたちが幸せになることが国の繁栄になるのだから。とうたう。
現在の目線で見れば明らかな男女差別、性差別を含んでいる。朝喜氏が戦後の沖縄民謡の復興にも大きな役割を果たされたことを踏まえても、このウタに含まれる軍国主義的、性差別的部分を看過することはできない。
それでもこの朝喜氏が検閲をも通過できるように歌詞を作った中に、ある工夫があると思うのは考えすぎだろうか。
それは二度も繰り返される「お国のためにも」の「も」である。おそらく激戦時期より前に作られたのではないか、と思えるほど「国の為に命を捧げよ!」的な表現はなく、男尊女卑的ではあるが子どもたちを大切にしよう、子育ては自分のためでもある、が「国のためでも」あるというロジックが許された時期のウタなのであろう。
最後の「お国の栄えは家族や仲間を宝とすることにある」。このような思想は「国の為に命を捧げよ」とした軍国主義の色濃い時代には決して許されなかったはずだ。
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2019年07月10日
恩納ナビー
思納ナビー
うんな なびー
'uNna nabii
◯恩納村のナビー
語句・うんな 沖縄本島中部の地名、恩納村。・なびー 女性の名前。「鍋」の意味でつけられることが多かった。「恩納ナビー」は恩納村生まれのナビーということ。
作詞 西 泉 作曲 知名 定繁
(ツラネ)恩納岳あがた里が生れ島森ん押しぬきて此方なさな
うんなだきあがた さとぅがんまりじま むいんうしぬきてぃくがたなさな
'uNnadaki ’agata satu ga Nmarijima muiN ’ushinukiti kugata nasana
◯恩納岳の向こう側が愛する貴方の生まれた村 丘(恩納岳)も押しのけてあなたの村をこちら側にしたいよ
語句・うんなだき恩納岳。「たき」は拝所のある山のこと。・あがた「あっちの方。あちら側」沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)・んまりじま生まれた村。・むい「丘。山。」【沖辞】。「森」と当て字がしてあることが多いが「盛りあがった土地」のことを「むい」という。・くがた「こっち側。こっち」【沖辞】。・なさな<なしゅん。為す。+な。よう。「したいよ」。
一、恩納岳隔み自由ならん語れ恨で詩詠だる人ぬ昔 自由ならん吾が思い
うんなだきふぃじゃみ じゆならん かたれー うらでぃうたゆだるふぃとぅぬんかし じゆならんわがうむい
'uNnadaki hwijami jiyu naraN kataree 'uradi 'uta yudaru hwitu nu Nkashi jiyu naraN waa ga 'umui
◯恩納岳が貴方と私を隔てているので一緒にいることもままならない と恨んで歌を詠む人は昔の話だが恋がままならない 私の愛と同じ
語句・ふじゃみ隔て。・かたれー 「①仲間となること。仲間入りを約束すること。②男女の一緒になる約束。」【沖辞】。「語」が当て字になっていることがよくあるが、会話することに限らず「仲を深めること」。「味方」の「かた」に近いものがある。
(ツラネ)明日からぬ明後日 里が番上り滝ならす雨の降らなやしが
あちゃからぬあさてぃ さとぅがばんぬぶい たちならすあみぬふらなやしが
'acha karanu 'asati satu ga baN nubui tachi narasu 'ami nu hurana yashiga
◯3日後は貴方が首里に勤番で行く日 ひどい雨でも降って行けなくなればいいのに
語句・あちゃからぬあさてぃ直訳すれば「明日からの明後日」、つまり3日後。・ばんぬぶり 首里城での勤番に行くこと。・たちならすあみ 滝のような雨。・ふらな 降ってほしい。
二、至極降て呉りば 吾が思い叶て枕並びゆる 節ん有ゆら 吾が思い自由ならん
しぐくふてぃくぃりば わがうむい かなてぃまくらならびゆるしちんあゆら わがうむいじゆならん
shiguku hutikwiriba waga 'umui kanati makura narabiyuru shichiN 'ayura waga 'umui jiyunaraN
◯激しく雨が降ってくれたら私の思いが叶い 枕を並べる時もあるのだけれど 私の思いは自由にならない
語句・しぐく 「至極。ひどく。非常に。」
(ツラネ)姉べたや 良かてい シヌグしち遊で わした世になりば 御止みさりて
あにびたや ゆかてぃ しぬぐしちあしでぃ わしたゆになりば うとぅみさりてぃ
'anibita ya yukati shinugu shichi 'ashidi washitayuu ni nariba 'utumi sariti
◯姉さんたちは良かった シヌグで遊んで 私たちの時代になるとシヌグも禁止されて自由ならない私の思いは
語句・あにびた姉たち。・しぬぐ「農村で祭りの時、男女で行う舞踊。村の若い男女が神前の広場で入り乱れて踊る。儒教思想輸入により尚敬王時代に禁止されたことがある。」【沖辞】。
三 なぐさみん知らんシヌグ迄止みて はたち美童ぬ 肝ぬいたさ自由ならん吾が思い
なぐさみんしらん しぬぐまでぃとぅみてぃ はたちみやらびぬ ちむぬいたさ じゆならんわがうむい
nagusamiN shiraN shinugu madi tumiti hatachi miyarabinu chimu nu 'itasa jiyu naraN waga 'umui
◯慰めも知らず シヌグ遊びを禁止されて二十歳娘の心は痛いことだろう 自由にならない私の思い
(ツラネ)恩納松下に禁止の碑の立ちゅし恋忍ぶ迄の禁止や無さみ
うんなまちしたに ちじぬふぇぬたちゅし くいしぬぶまでぃぬ ちじや ねさみ
'uNna machi shita ni chiji nu hwee nu tachushi kui shinubu madi nu chiji ya neesami
◯恩納村の松の木の下に何かを禁止する御触書が立っている まさか恋の逢引までも禁止するお触れではないだろうね
語句・ちじ 禁止。・ふぇー 御触書。・ねさみないだろうか。
四、情ねん役人ぬ 恋ぬみち禁止てい山原ぬ花や何時が咲ちゅら我が思い自由ならん
なさきねん かみぬくいぬみちちじてぃ やんばるぬはなや いちがさちゅら わがうむいじゆならん
nasaki neeN Kami nu kui nu michi chijiti yaNbaru nu hana ya 'ichi ga sachura waga 'umui jiyu naraN
◯情けない役人が恋の道を禁止して山原の花は何時咲くだろうか 私の愛は自由にならない
語句・かみ いわゆる「お上」。
(たるーのコメント)
女流詩人として名が知られる「恩納ナビー」が詠ったとされる琉歌をツラネとし、知名定繁氏が作曲し、また補作詞をした。
ツラネとは「ツラニ」「ツィラニ」と発音するが、「①長歌 琉歌の長歌。②連歌。琉歌でふたり以上で読みつらねること。また、よみつらねた歌」【沖辞】である。琉歌のツラネには一定のメロディーがある。
知名定繁氏(1916-1993)は普久原朝喜氏などの影響を受け沖縄民謡歌手、作詞・作曲家としても沖縄民謡界の重鎮である。また宮廷音楽湛水流の研究や同箏曲譜などの編纂を行った。創作曲に「でぃぐぬの花」「門たんかー」「別れの煙」「嘆きの梅」などがある。
「恩納ナビー」は実在した明確な証拠はないが、18世紀前半に恩納村に生まれ、この曲のツラネになった琉歌を詠んだとされている。
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▲ナビーの恩納村の生誕地にある石碑。「マッコウ家」とあるのはマッコウ(ハリツルマサキ)の木があった言い伝えがあり、「マッコウ ナビー」とも呼ばれていた。
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▲琉歌「恩納松下に禁止の碑の立ちゅし恋忍ぶ迄の禁止や無さみ」を紹介した歌碑。
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▲万座毛の駐車場にはいくつかの歌碑がある。
この曲に紹介された琉歌以外には
「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま」
(歌意)波の音も静まれ 風の音も静ま 首里の王様のお顔を拝見したい
という琉歌もある。
庶民に生れながら想いを自由に琉歌に乗せて、山をも動かし雨まで降らせようとする情熱的で力強いナビーという一人の娘の才能はこの「恩納ナビー」という曲で見事に現代に蘇っているようである。
【このブログが本になりました!】
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うんな なびー
'uNna nabii
◯恩納村のナビー
語句・うんな 沖縄本島中部の地名、恩納村。・なびー 女性の名前。「鍋」の意味でつけられることが多かった。「恩納ナビー」は恩納村生まれのナビーということ。
作詞 西 泉 作曲 知名 定繁
(ツラネ)恩納岳あがた里が生れ島森ん押しぬきて此方なさな
うんなだきあがた さとぅがんまりじま むいんうしぬきてぃくがたなさな
'uNnadaki ’agata satu ga Nmarijima muiN ’ushinukiti kugata nasana
◯恩納岳の向こう側が愛する貴方の生まれた村 丘(恩納岳)も押しのけてあなたの村をこちら側にしたいよ
語句・うんなだき恩納岳。「たき」は拝所のある山のこと。・あがた「あっちの方。あちら側」沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)・んまりじま生まれた村。・むい「丘。山。」【沖辞】。「森」と当て字がしてあることが多いが「盛りあがった土地」のことを「むい」という。・くがた「こっち側。こっち」【沖辞】。・なさな<なしゅん。為す。+な。よう。「したいよ」。
一、恩納岳隔み自由ならん語れ恨で詩詠だる人ぬ昔 自由ならん吾が思い
うんなだきふぃじゃみ じゆならん かたれー うらでぃうたゆだるふぃとぅぬんかし じゆならんわがうむい
'uNnadaki hwijami jiyu naraN kataree 'uradi 'uta yudaru hwitu nu Nkashi jiyu naraN waa ga 'umui
◯恩納岳が貴方と私を隔てているので一緒にいることもままならない と恨んで歌を詠む人は昔の話だが恋がままならない 私の愛と同じ
語句・ふじゃみ隔て。・かたれー 「①仲間となること。仲間入りを約束すること。②男女の一緒になる約束。」【沖辞】。「語」が当て字になっていることがよくあるが、会話することに限らず「仲を深めること」。「味方」の「かた」に近いものがある。
(ツラネ)明日からぬ明後日 里が番上り滝ならす雨の降らなやしが
あちゃからぬあさてぃ さとぅがばんぬぶい たちならすあみぬふらなやしが
'acha karanu 'asati satu ga baN nubui tachi narasu 'ami nu hurana yashiga
◯3日後は貴方が首里に勤番で行く日 ひどい雨でも降って行けなくなればいいのに
語句・あちゃからぬあさてぃ直訳すれば「明日からの明後日」、つまり3日後。・ばんぬぶり 首里城での勤番に行くこと。・たちならすあみ 滝のような雨。・ふらな 降ってほしい。
二、至極降て呉りば 吾が思い叶て枕並びゆる 節ん有ゆら 吾が思い自由ならん
しぐくふてぃくぃりば わがうむい かなてぃまくらならびゆるしちんあゆら わがうむいじゆならん
shiguku hutikwiriba waga 'umui kanati makura narabiyuru shichiN 'ayura waga 'umui jiyunaraN
◯激しく雨が降ってくれたら私の思いが叶い 枕を並べる時もあるのだけれど 私の思いは自由にならない
語句・しぐく 「至極。ひどく。非常に。」
(ツラネ)姉べたや 良かてい シヌグしち遊で わした世になりば 御止みさりて
あにびたや ゆかてぃ しぬぐしちあしでぃ わしたゆになりば うとぅみさりてぃ
'anibita ya yukati shinugu shichi 'ashidi washitayuu ni nariba 'utumi sariti
◯姉さんたちは良かった シヌグで遊んで 私たちの時代になるとシヌグも禁止されて自由ならない私の思いは
語句・あにびた姉たち。・しぬぐ「農村で祭りの時、男女で行う舞踊。村の若い男女が神前の広場で入り乱れて踊る。儒教思想輸入により尚敬王時代に禁止されたことがある。」【沖辞】。
三 なぐさみん知らんシヌグ迄止みて はたち美童ぬ 肝ぬいたさ自由ならん吾が思い
なぐさみんしらん しぬぐまでぃとぅみてぃ はたちみやらびぬ ちむぬいたさ じゆならんわがうむい
nagusamiN shiraN shinugu madi tumiti hatachi miyarabinu chimu nu 'itasa jiyu naraN waga 'umui
◯慰めも知らず シヌグ遊びを禁止されて二十歳娘の心は痛いことだろう 自由にならない私の思い
(ツラネ)恩納松下に禁止の碑の立ちゅし恋忍ぶ迄の禁止や無さみ
うんなまちしたに ちじぬふぇぬたちゅし くいしぬぶまでぃぬ ちじや ねさみ
'uNna machi shita ni chiji nu hwee nu tachushi kui shinubu madi nu chiji ya neesami
◯恩納村の松の木の下に何かを禁止する御触書が立っている まさか恋の逢引までも禁止するお触れではないだろうね
語句・ちじ 禁止。・ふぇー 御触書。・ねさみないだろうか。
四、情ねん役人ぬ 恋ぬみち禁止てい山原ぬ花や何時が咲ちゅら我が思い自由ならん
なさきねん かみぬくいぬみちちじてぃ やんばるぬはなや いちがさちゅら わがうむいじゆならん
nasaki neeN Kami nu kui nu michi chijiti yaNbaru nu hana ya 'ichi ga sachura waga 'umui jiyu naraN
◯情けない役人が恋の道を禁止して山原の花は何時咲くだろうか 私の愛は自由にならない
語句・かみ いわゆる「お上」。
(たるーのコメント)
女流詩人として名が知られる「恩納ナビー」が詠ったとされる琉歌をツラネとし、知名定繁氏が作曲し、また補作詞をした。
ツラネとは「ツラニ」「ツィラニ」と発音するが、「①長歌 琉歌の長歌。②連歌。琉歌でふたり以上で読みつらねること。また、よみつらねた歌」【沖辞】である。琉歌のツラネには一定のメロディーがある。
知名定繁氏(1916-1993)は普久原朝喜氏などの影響を受け沖縄民謡歌手、作詞・作曲家としても沖縄民謡界の重鎮である。また宮廷音楽湛水流の研究や同箏曲譜などの編纂を行った。創作曲に「でぃぐぬの花」「門たんかー」「別れの煙」「嘆きの梅」などがある。
「恩納ナビー」は実在した明確な証拠はないが、18世紀前半に恩納村に生まれ、この曲のツラネになった琉歌を詠んだとされている。
▲ナビーの恩納村の生誕地にある石碑。「マッコウ家」とあるのはマッコウ(ハリツルマサキ)の木があった言い伝えがあり、「マッコウ ナビー」とも呼ばれていた。
▲琉歌「恩納松下に禁止の碑の立ちゅし恋忍ぶ迄の禁止や無さみ」を紹介した歌碑。
▲万座毛の駐車場にはいくつかの歌碑がある。
この曲に紹介された琉歌以外には
「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま」
(歌意)波の音も静まれ 風の音も静ま 首里の王様のお顔を拝見したい
という琉歌もある。
庶民に生れながら想いを自由に琉歌に乗せて、山をも動かし雨まで降らせようとする情熱的で力強いナビーという一人の娘の才能はこの「恩納ナビー」という曲で見事に現代に蘇っているようである。
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2019年07月08日
那覇散歩 余談 「仲島の大石の説明板」
那覇散歩の途中で立ち寄った「仲島の大石」の記事を覚えていらっしゃるだろうか。
6月14日に書いているが、仲島の大石の説明板がほぼ人から見えない場所になっている、と指摘したのだった。少しだけ再掲する。
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「この解説板は、バスセンターが建て替えられてからわかりにくい場所になってしまっている。説明板は元からあった場所である。昔のバスセンターでは、通路からよく見える場所だった。しかし今は花壇によって人はそこまで行けないようになっている。植えられた草花をかき分けて、ここまで見に来る方はまず居ないだろう。そもそも見えないのだから地元の方もあまり知らないのではないか?私も教えて頂いて知った。とても残念な事である。」
実は5月30日に仲島あたりを散歩し、大石の写真をFacebookにアップロードしたところ、関東に住むfacebookの友人から「説明板があるらしい」と教えもらった。
そこで6月3日にもう一度大石の場所に立ち寄って、久しぶりにその説明板を見たのだった。その頃は通路側に説明板があった。
とにかくわかりにくいところに「隠してある」(?)という印象だった。その時の気持ちを書いたのが上の文章である。
それを見たFacebookの友人たちが、沖縄の新聞社に知らせてくれたりした。
すると
「バスターミナルの大岩は何? 昔、周辺は海岸だった 最近は「パワースポット」と評判も 」
という記事が出た。(クリックすると記事に飛びます)
(琉球新報の記事より)
記事の要旨はこうだ。
・記者が仲島の大石に行ってみると、説明板が見えにくいところにあった。大石はネットなどでもパワースポットと言われている。
・説明板はなぜ隠れたか。
・那覇市に問い合わせると、再開発前は「通り沿いで見やすい位置にあった」(担当者)。再開発で塀が設置され「裏側」になったという。市にも問い合わせがあり、旭橋都市再開発と調整し説明板を見やすい場所に移すか、新設するか検討していたが…。
・情報提供から約3週間後の24日、「説明板ができている」という情報が新聞社にあった。
・市文化財課によると21日に設置したという。
・市は説明板の新設を決定しており、完成まで数カ月の「仮設」措置という。説明板を手作りした同課の長嶺盛孝さんは「設置から30年経過するので、文言も見直したい」と語る。隠れたことでより神秘性が高まったかもしれない仲島の大石。どんな説明文が加わるかも期待される。
要旨は以上。琉球新報の記者が「説明板」が見えにくい事に気付き、見えにくいところにあること、また説明板が見えやすいところに仮設されてから見に行き、那覇市に問い合わせている。それは有難いことだ。
ちなみに琉球新報社と仲島の大石は歩いて5分もかからない。
ただ、残念なことは「仲島の遊郭」のことについて記事は一言も触れていないことだ。
説明板の中身は当然「遊郭」について触れている。
説明板がすぐに見えやすいところに移設されなかった遠因に、この「遊郭」という説明があったのではないか、と私は推測する。「遊郭」は「歴史的な汚点である」そんな意識が働くのではないだろうか。新聞社も同じような心理で記事を書かれているのではないか、とまで感じるほど一言も説明板の中身に触れていない。
沖縄の新聞社として、きちんとした取材と勉強、そして継続しての取材をお願いしたいものだ。
そして最後に、他にも説明板が消えた場所がある。
首里の大村御殿の「耳切坊主」のそれである。
ウタの痕跡が消えていく、人の手で。
それが悲しい。
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6月14日に書いているが、仲島の大石の説明板がほぼ人から見えない場所になっている、と指摘したのだった。少しだけ再掲する。
「この解説板は、バスセンターが建て替えられてからわかりにくい場所になってしまっている。説明板は元からあった場所である。昔のバスセンターでは、通路からよく見える場所だった。しかし今は花壇によって人はそこまで行けないようになっている。植えられた草花をかき分けて、ここまで見に来る方はまず居ないだろう。そもそも見えないのだから地元の方もあまり知らないのではないか?私も教えて頂いて知った。とても残念な事である。」
実は5月30日に仲島あたりを散歩し、大石の写真をFacebookにアップロードしたところ、関東に住むfacebookの友人から「説明板があるらしい」と教えもらった。
そこで6月3日にもう一度大石の場所に立ち寄って、久しぶりにその説明板を見たのだった。その頃は通路側に説明板があった。
とにかくわかりにくいところに「隠してある」(?)という印象だった。その時の気持ちを書いたのが上の文章である。
それを見たFacebookの友人たちが、沖縄の新聞社に知らせてくれたりした。
すると
「バスターミナルの大岩は何? 昔、周辺は海岸だった 最近は「パワースポット」と評判も 」
という記事が出た。(クリックすると記事に飛びます)
記事の要旨はこうだ。
・記者が仲島の大石に行ってみると、説明板が見えにくいところにあった。大石はネットなどでもパワースポットと言われている。
・説明板はなぜ隠れたか。
・那覇市に問い合わせると、再開発前は「通り沿いで見やすい位置にあった」(担当者)。再開発で塀が設置され「裏側」になったという。市にも問い合わせがあり、旭橋都市再開発と調整し説明板を見やすい場所に移すか、新設するか検討していたが…。
・情報提供から約3週間後の24日、「説明板ができている」という情報が新聞社にあった。
・市文化財課によると21日に設置したという。
・市は説明板の新設を決定しており、完成まで数カ月の「仮設」措置という。説明板を手作りした同課の長嶺盛孝さんは「設置から30年経過するので、文言も見直したい」と語る。隠れたことでより神秘性が高まったかもしれない仲島の大石。どんな説明文が加わるかも期待される。
要旨は以上。琉球新報の記者が「説明板」が見えにくい事に気付き、見えにくいところにあること、また説明板が見えやすいところに仮設されてから見に行き、那覇市に問い合わせている。それは有難いことだ。
ちなみに琉球新報社と仲島の大石は歩いて5分もかからない。
ただ、残念なことは「仲島の遊郭」のことについて記事は一言も触れていないことだ。
説明板の中身は当然「遊郭」について触れている。
説明板がすぐに見えやすいところに移設されなかった遠因に、この「遊郭」という説明があったのではないか、と私は推測する。「遊郭」は「歴史的な汚点である」そんな意識が働くのではないだろうか。新聞社も同じような心理で記事を書かれているのではないか、とまで感じるほど一言も説明板の中身に触れていない。
沖縄の新聞社として、きちんとした取材と勉強、そして継続しての取材をお願いしたいものだ。
そして最後に、他にも説明板が消えた場所がある。
首里の大村御殿の「耳切坊主」のそれである。
ウタの痕跡が消えていく、人の手で。
それが悲しい。
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2019年07月08日
那覇散歩 その3 〈渡地〉
渡地と民謡
先月沖縄を訪れた際に那覇、壺川に宿を取り、ぶらぶらと仲島、辻と歩いた話の続きを書いている。
遊郭の歴史と民謡、ウタが密接な関係にあったということも見た。
那覇にあった主要な遊郭は辻、仲島、渡地の三つ。
その「渡地」(わたんじ)にも行きたいのはヤマヤマだが、その街は現存しない。
人気のある民謡には登場する。
「三村踊り節」
♪辻仲島と渡地と三村
三村の尾類小達がすりとーて客待ち話
美ら二才からはい行ちゃらなや♪
(たるー訳)
辻、仲島、渡地という三つの村
三つの村の女郎達が揃って客を待ちながらの話
イケメンの青年に早く会いたいな
他にも「海のチンボラー」などにも出てくる。
では遊郭があったその「渡地」とはどのあたりだったのだろう。昔の地図を見てみよう。
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▲ 赤く囲ったあたりが渡地だった。その少し右に仲島遊郭と書かれている。
ゆいレール「壺川」の駅の前にかかる「北明治橋」のたもとに「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり」という説明碑がある。
その中の写真。明治初期の地図とあり、まだ那覇と対岸(垣花町)には橋がなかった頃だ。
渡地には二本橋が書かれているが、その昔は渡し船で渡ったという。そして、対岸の垣花町にも渡し船で渡った。それが地名「渡地」の由来だという。
現在のどの辺りになるのか。
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グーグルマップを見ると上の地図にもあるが「在番奉行所」(琉球時代の薩摩藩の役 役場)の跡との位置関係から比較してみると、だいたい赤く囲んだあたりとなるだろう。住所でいうと西町一丁目と通堂町一丁目、沖縄製粉付近になるのではないか。
ちょうど那覇ふ頭船客待合所の建物の少し東側になる。
渡地の周辺
その那覇ふ頭船客待合所に行ってみる。
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▲対岸には御物城(オモノグスク、読み方はウムヌグシク)がある。
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▲琉球王朝時代の宝物庫。中国、東南アジアと交易が盛んだった頃に入手した宝物が収められていた。テレビの「ブラタモリ」でも取り上げられ、白磁の割れた陶器が散乱している様子も放映された。こうした歴史的建造物も米軍基地の中にある。
先程も取り上げた北明治橋たもとの説明板「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり」に渡地と御物城が描かれた絵があった。
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▲今の明治橋は昔からあったのではなく、最初は渡地から垣花町(市街地から那覇空港に向かう道路のあたり)に橋が架けられていて、それが明治橋と名付けられていた。まだ形がはっきりしている御物城が描かれている。この当時は城の上に料亭「風月堂」があった。
北明治橋から北西を眺める。仲島と遠くに明治橋が見える。その向こう側に渡地があったわけだ。
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▲北明治橋はゆいレール壺川の駅前に奥武山公園と繋げられた木造の橋である。今回初めて渡った。
ここの説明板はとても詳しく、写真や絵も多く分かりやすい。
三つの遊郭と琉球の芸能
たとえ遊郭が人身売買であり、今日では許されない事であっても、そこで暮らしたジュリ(女郎)たちと士族や庶民との間で芸能が交流され発展してきたことは隠しようもない事実だ。
地方の庶民はモーアシビで芸能を発展させた一方、那覇など都市部の士族や庶民は遊郭がそれに取って代わった。琉球王朝の中ではウタ三線、舞踊も全て男性の仕事であったが、遊郭では女性たちがウタ三線をし、舞踊の主体だった。
古典音楽の始祖すら曲の発想を遊郭にもとめた。遊び歌の多くは遊郭で発展した。
そう考えると、今でも那覇のこの遊郭の場所を訪れ、その光景を目の当たりにすることでウタへの思い入れも深くなる。ただ遊びのウタであってもジュリたちがどのような想いだったのか、家族への思いや生きることへの思いはどうだったのか。歌詞そのものからは浮きださない情景もある。歌詞を訳したからと言って、そこだけでは分かり得ない人々の思い入れもある。少しでも近づけないか、との思いでの那覇散歩、ひとまずこれで終えよう。
先月沖縄を訪れた際に那覇、壺川に宿を取り、ぶらぶらと仲島、辻と歩いた話の続きを書いている。
遊郭の歴史と民謡、ウタが密接な関係にあったということも見た。
那覇にあった主要な遊郭は辻、仲島、渡地の三つ。
その「渡地」(わたんじ)にも行きたいのはヤマヤマだが、その街は現存しない。
人気のある民謡には登場する。
「三村踊り節」
♪辻仲島と渡地と三村
三村の尾類小達がすりとーて客待ち話
美ら二才からはい行ちゃらなや♪
(たるー訳)
辻、仲島、渡地という三つの村
三つの村の女郎達が揃って客を待ちながらの話
イケメンの青年に早く会いたいな
他にも「海のチンボラー」などにも出てくる。
では遊郭があったその「渡地」とはどのあたりだったのだろう。昔の地図を見てみよう。
▲ 赤く囲ったあたりが渡地だった。その少し右に仲島遊郭と書かれている。
ゆいレール「壺川」の駅の前にかかる「北明治橋」のたもとに「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり」という説明碑がある。
その中の写真。明治初期の地図とあり、まだ那覇と対岸(垣花町)には橋がなかった頃だ。
渡地には二本橋が書かれているが、その昔は渡し船で渡ったという。そして、対岸の垣花町にも渡し船で渡った。それが地名「渡地」の由来だという。
現在のどの辺りになるのか。
グーグルマップを見ると上の地図にもあるが「在番奉行所」(琉球時代の薩摩藩の役 役場)の跡との位置関係から比較してみると、だいたい赤く囲んだあたりとなるだろう。住所でいうと西町一丁目と通堂町一丁目、沖縄製粉付近になるのではないか。
ちょうど那覇ふ頭船客待合所の建物の少し東側になる。
渡地の周辺
その那覇ふ頭船客待合所に行ってみる。
▲対岸には御物城(オモノグスク、読み方はウムヌグシク)がある。
▲琉球王朝時代の宝物庫。中国、東南アジアと交易が盛んだった頃に入手した宝物が収められていた。テレビの「ブラタモリ」でも取り上げられ、白磁の割れた陶器が散乱している様子も放映された。こうした歴史的建造物も米軍基地の中にある。
先程も取り上げた北明治橋たもとの説明板「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり」に渡地と御物城が描かれた絵があった。
▲今の明治橋は昔からあったのではなく、最初は渡地から垣花町(市街地から那覇空港に向かう道路のあたり)に橋が架けられていて、それが明治橋と名付けられていた。まだ形がはっきりしている御物城が描かれている。この当時は城の上に料亭「風月堂」があった。
北明治橋から北西を眺める。仲島と遠くに明治橋が見える。その向こう側に渡地があったわけだ。
▲北明治橋はゆいレール壺川の駅前に奥武山公園と繋げられた木造の橋である。今回初めて渡った。
ここの説明板はとても詳しく、写真や絵も多く分かりやすい。
三つの遊郭と琉球の芸能
たとえ遊郭が人身売買であり、今日では許されない事であっても、そこで暮らしたジュリ(女郎)たちと士族や庶民との間で芸能が交流され発展してきたことは隠しようもない事実だ。
地方の庶民はモーアシビで芸能を発展させた一方、那覇など都市部の士族や庶民は遊郭がそれに取って代わった。琉球王朝の中ではウタ三線、舞踊も全て男性の仕事であったが、遊郭では女性たちがウタ三線をし、舞踊の主体だった。
古典音楽の始祖すら曲の発想を遊郭にもとめた。遊び歌の多くは遊郭で発展した。
そう考えると、今でも那覇のこの遊郭の場所を訪れ、その光景を目の当たりにすることでウタへの思い入れも深くなる。ただ遊びのウタであってもジュリたちがどのような想いだったのか、家族への思いや生きることへの思いはどうだったのか。歌詞そのものからは浮きださない情景もある。歌詞を訳したからと言って、そこだけでは分かり得ない人々の思い入れもある。少しでも近づけないか、との思いでの那覇散歩、ひとまずこれで終えよう。
2019年07月08日
那覇散歩 その2 〈辻〉
仲島から那覇市の西へ。辻を訪れてみる。
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今では色々なホテル(?)などが多く目立つ歓楽街という感じの街の中に小さな丘があり、そこには「鎮魂」の文字が見える。
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その手間に説明碑がある。
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いつものように長いが引用する。
『辻村跡(チージムラアト)
那覇の北西部にあった花街(はなまち)跡。辻村(チージムラ)、または単に辻(チージ)といい、女性が主体となって生活した場所であった。辻の女性は「ジュリ」と呼ばれ、「侏イ离」・「尾類」の字が当てられた。
琉球王国におけるジュリの起源については不明だが、15世紀以降、唐(とう)や南蛮(なんばん)(東南アジア諸国)、大和(日本)と交易を行った時代、中国からの冊封使一行や大和からの商人等をもてなした「ジュリ」が居たといわれる。『球陽(きゅうよう)』には、1672年に「辻」・「仲島(なかしま)」に村を創建し、そこに多くのジュリが住むようになったとあり、この頃、各地に居たジュリを「辻」・「仲島」・「渡地」の3 ヵ所が琉球の花街として明治期まで存続した。
1879年(明治12)に沖縄県が設置されると、ジュリは18歳で登録証(鑑札(かんさつ))が交付された。1908年(明治41)に「仲島」・「渡地」の花街は廃され、「辻」に統合された。これにより「辻」は、政財界の要人、官公庁・教育界の指導者をはじめ、地元の商人などが出入りし、接待や宴会が行われた。また旅客が宿泊する場所ともなった。ジュリは、これらの客をもてなし、安らぎを与えるために、料理や唄・三線(サンシン)・琴・踊りなどの芸事にも磨きをかけた。「辻」は、沖縄県下最大の社交場、「華やかな」場所として知られた。
一方、辻の女性は、「アンマー」(ジュリの抱え親・貸座敷の女将)を筆頭に、「ジュリ」、「ナシングヮ」(アンマーが産んだ子供)、「チカネーングヮ」(貧困のため幼い頃に「辻」に売られた子「コーイングヮ」ともいう)などで擬制的家族を作り、「辻」の親・姉妹はもとより、故郷の親・兄弟をはじめ、人間社会における義理・人情・報恩を第一の教えとして生活した。また、神への祈りと祭りを取り仕切る「盛前(ムイメー)」と呼ばれる神職を中心とした女性による、女性のための自治組織を整え、二十日正月(はつかしょうがつ)の「ジュリ馬(うま)」行事を始め、言葉・立ち居振る舞いから、衣裳・髪型・料理・芸能に至るまで独自の文化を創り上げた。
1609年の薩摩藩島津氏の琉球侵攻を経て、1672年に誕生した華やかな「辻」も1944年(昭和19)10月10日の空襲により消滅し、その幕を閉じた。』
簡単にまとめられているが、「辻」すなわち遊郭の歴史は琉球王朝が薩摩の侵攻を受けてから戦前まで続いていたことがわかる。
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▲「客をもてなすジュリ」
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▲「『琉球美人』と称されたジュリたち」
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▲「ジュリ馬」は旧暦の1月20日に行われる芸能。行列を作って歌い踊る事で、「故郷の家族に元気な姿を見せる」という意味があると言われている。
遊郭と民謡
遊郭を歌ったり、遊郭が出てくるウタ、琉球民謡は多い。
前回も見た仲島節、花口説、恋の花、海のチンボラー、西武門節、三村踊り節などなど枚挙にいとまがない。
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「琉球交易港図屏風」にも「辻村」が、戯画的であるが描かれている。鳥居の左の村が、そうだ。
遊郭の仲島に通い、作詞作曲活動で花を咲かせた人物がいる。この人がいなかったら今日のような琉球芸能にならなかったかもしれない人物、それは幸地賢忠、琉球古典音楽の祖とも称される。琉球古典音楽の流れをくむ野村流、安冨祖流の源流とされる湛水流の始祖と言われる人物だ。
琉球芸能、文化にとって「ジュリ」と呼ばれた遊女たちや、その組織であった辻や仲島がなくてはならない存在だとされるのは、この幸地賢忠が作った「暁節」や「首里節」という代表的な曲がジュリと共に作った、とされることだ。(参考 「民謡を媒体した『辻遊郭』と民謡に表象された『ジュリ』与那覇晶子)
首里の士族たちは王府に勤めながら、ジュリたちにウタ三線、舞踊などの芸能を教えたという。そして、そのジュリたちから新たなウタ三線、舞踊のヒントを得ていたのではないか。
仲島、辻から今度は「渡地」に向かう。
今では色々なホテル(?)などが多く目立つ歓楽街という感じの街の中に小さな丘があり、そこには「鎮魂」の文字が見える。
その手間に説明碑がある。
いつものように長いが引用する。
『辻村跡(チージムラアト)
那覇の北西部にあった花街(はなまち)跡。辻村(チージムラ)、または単に辻(チージ)といい、女性が主体となって生活した場所であった。辻の女性は「ジュリ」と呼ばれ、「侏イ离」・「尾類」の字が当てられた。
琉球王国におけるジュリの起源については不明だが、15世紀以降、唐(とう)や南蛮(なんばん)(東南アジア諸国)、大和(日本)と交易を行った時代、中国からの冊封使一行や大和からの商人等をもてなした「ジュリ」が居たといわれる。『球陽(きゅうよう)』には、1672年に「辻」・「仲島(なかしま)」に村を創建し、そこに多くのジュリが住むようになったとあり、この頃、各地に居たジュリを「辻」・「仲島」・「渡地」の3 ヵ所が琉球の花街として明治期まで存続した。
1879年(明治12)に沖縄県が設置されると、ジュリは18歳で登録証(鑑札(かんさつ))が交付された。1908年(明治41)に「仲島」・「渡地」の花街は廃され、「辻」に統合された。これにより「辻」は、政財界の要人、官公庁・教育界の指導者をはじめ、地元の商人などが出入りし、接待や宴会が行われた。また旅客が宿泊する場所ともなった。ジュリは、これらの客をもてなし、安らぎを与えるために、料理や唄・三線(サンシン)・琴・踊りなどの芸事にも磨きをかけた。「辻」は、沖縄県下最大の社交場、「華やかな」場所として知られた。
一方、辻の女性は、「アンマー」(ジュリの抱え親・貸座敷の女将)を筆頭に、「ジュリ」、「ナシングヮ」(アンマーが産んだ子供)、「チカネーングヮ」(貧困のため幼い頃に「辻」に売られた子「コーイングヮ」ともいう)などで擬制的家族を作り、「辻」の親・姉妹はもとより、故郷の親・兄弟をはじめ、人間社会における義理・人情・報恩を第一の教えとして生活した。また、神への祈りと祭りを取り仕切る「盛前(ムイメー)」と呼ばれる神職を中心とした女性による、女性のための自治組織を整え、二十日正月(はつかしょうがつ)の「ジュリ馬(うま)」行事を始め、言葉・立ち居振る舞いから、衣裳・髪型・料理・芸能に至るまで独自の文化を創り上げた。
1609年の薩摩藩島津氏の琉球侵攻を経て、1672年に誕生した華やかな「辻」も1944年(昭和19)10月10日の空襲により消滅し、その幕を閉じた。』
簡単にまとめられているが、「辻」すなわち遊郭の歴史は琉球王朝が薩摩の侵攻を受けてから戦前まで続いていたことがわかる。
▲「客をもてなすジュリ」
▲「『琉球美人』と称されたジュリたち」
▲「ジュリ馬」は旧暦の1月20日に行われる芸能。行列を作って歌い踊る事で、「故郷の家族に元気な姿を見せる」という意味があると言われている。
遊郭と民謡
遊郭を歌ったり、遊郭が出てくるウタ、琉球民謡は多い。
前回も見た仲島節、花口説、恋の花、海のチンボラー、西武門節、三村踊り節などなど枚挙にいとまがない。
「琉球交易港図屏風」にも「辻村」が、戯画的であるが描かれている。鳥居の左の村が、そうだ。
遊郭の仲島に通い、作詞作曲活動で花を咲かせた人物がいる。この人がいなかったら今日のような琉球芸能にならなかったかもしれない人物、それは幸地賢忠、琉球古典音楽の祖とも称される。琉球古典音楽の流れをくむ野村流、安冨祖流の源流とされる湛水流の始祖と言われる人物だ。
琉球芸能、文化にとって「ジュリ」と呼ばれた遊女たちや、その組織であった辻や仲島がなくてはならない存在だとされるのは、この幸地賢忠が作った「暁節」や「首里節」という代表的な曲がジュリと共に作った、とされることだ。(参考 「民謡を媒体した『辻遊郭』と民謡に表象された『ジュリ』与那覇晶子)
首里の士族たちは王府に勤めながら、ジュリたちにウタ三線、舞踊などの芸能を教えたという。そして、そのジュリたちから新たなウタ三線、舞踊のヒントを得ていたのではないか。
仲島、辻から今度は「渡地」に向かう。
2019年03月04日
三村踊り節
三村踊り節
みむら うぅどぅいぶし
mimura wuduibushi
語句・みむら 本土にもあるが、沖縄では昔から近隣する二つ、ないし三つの村を並べて呼ぶことが多い。「二村落連称」などと呼ぶ。(例:「スーキカンナー」)同じ名前の村が多いことから区別するため、という説もあるが例外も多く根拠は不明。・うどぅい 踊り。
作者不詳
一、小禄 豊見城 垣花 三村 三村のアン小達が揃とて布織い話 綾まみぐなよ 元かんじゅんど
'うるくてぃみぐしく かちぬはなみむら みむらぬ'あんぐゎーたーが すりとーてぃぬぬ'ういばなし 'あやまみぐなよーむとぅかんじゅんどー
'uruku timigushiku kachinuhana mimuranu 'aNgwaataa ga suritooti nunu'uibanashi 'ayamamiguna yoo mutukaNjuN doo
◯小禄 豊見城 垣花という三つの村 三つの村の姉さん達が揃って布織り話 模様を間違えるなよ 元が取れず損をするぞ
語句・あんぐゎーたー姉さんたち。「あんぐゎー」は平民の若い女性を指す。+たー 達。・すりとーてぃ 揃っていて。<すりてぃ 揃って。<すりゆん 揃う。+うてぃ<うゆん → 揃って居て。・ぬぬうい 小禄紺地(うるくくんじ)を指していると思われる。小禄紺地とは、17世紀から始まった木綿布で作られた紺地の絣。1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常も木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。参照「小禄間切口説」・あや 「縞。着物などの縞をいう。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まみぐな <まみじゅん。「取り違える。間違える。」【沖辞】。否定形「まみがん」の命令形は「まみぐな」。・むとぅ 元。・かんじゅん「(負債などを)負う。損をする」【沖辞】。むとぅかんじゅん「(商売)で元がとれずに、損をする。」【沖辞】。
二 上泊 泊 元の泊と三村三村のニ才達がすりとーて塩炊き話 雨降らすなよ 元かんじゅんど
'うぃーどぅまい とぅまい むとぅぬとぅまいとぅみむら みむらぬにせたーがすりとーてぃまーすたちばなし'あみふらすなよ むとぅかんじゅんどー
'wiidumai tumai mutunu tumai tu mimura mimura nu nisetaa ga suritooti maasa tachibanashi 'amihusasuna yoo
◯上泊 泊 元の泊という三つの村、三つの村の青年達が揃って塩炊き話 雨を降らすなよ 元が取れず損をするぞ
語句・うぃーどぅまい 現在の「おもろまち」あたりにあった古い村。・とぅまい現在の泊。三山時代から八重山宮古などの船が着く港であり、泊と「浮島」と呼ばれた那覇の間にあった潟原という干潟に塩田があった。・ますたち 塩炊き。塩を作るための工程。たち<たちゅん 炊く、煮る。泊にあった塩田は薩摩から導入された入浜式塩田方式というもの。潮の干満を利用して海水を集め、太陽の熱と砂の毛細管現象を利用してかん水(濃度の高い塩水)を作り、それを薪燃やして煮詰めて塩を生産する方法。雨が降るとかん水も薄まり、塩炊きもできなくなる。
三、辻仲島と渡地と三村 三村の尾類小達がすりとーて客待ち話 美ら二才からはい行ちゃらなや
ちーじなかしまとぅ わたんじとぅみむら みむらぬじゅりぐゎーたーがすりとーてぃ ちゃくまちばなし ちゅらにせからはい'いちゃらなや
chiiji nakashima wataNji tu mimura mimura nu jurigwaataa ga suritooti chakumachibanashi chura nisee kara hai'icharanara
◯辻、仲島、渡地という三つの村 三つの村の女郎達が揃って客(を)待ち(ながらの)話 美しい青年に早く会いたいな
語句・じゅり 女郎。娼妓。「じゅり」という言葉は九州方言と関わりがあるといわれている。「<料理;‘尾類’」と書かれ旧かなは‘づり’;‘料理茶屋の女’意;‘女郎’系ではなく九州諸方言〔鹿児島でジョーリ[料理]の影響らしい〕」【琉辞】遊郭の制度は尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設したことに始まる。背景には薩摩藩からの指示があったと推測される。・はいいちゃらなや 早く逢いたいな。<はい 走って。早く。+ <いちゃゆん 会う。
四、潮平 兼城 糸満と三村 三村のアン小達が揃とて魚売り話安売りすなよ元かんじゅんど
すんじゃかなぐしく'いちまんとぅみむらぬ'あんぐわーたーがすりとーてー'いゆ'ういばなし やし'ういすなよーむとぅかんじゅんどー
suNja kanagushiku 'ichimaN tu mimura mimura nu 'aNgwaataa ga suritooti 'iyu'uibanashi yashi'uisunayoo mutukaNjuNdoo
◯潮平、兼城、糸満という三つの村 三つの村の姉さん達が揃って魚売り話 安売りをするなよ 元が取れず損をするぞ
語句・いゆ 魚。
五、赤田 鳥小堀 崎山と三村 三村の二才達が揃とて酒たり話麹できらしよ元かんじゅんど
'あかたとぅんじゅむいさちやまとぅみむら みむらぬにせたーがすりとーてぃ さきたりばなし こーじでぃきらしよーむとぅかんじゅんどー
'akata tuNjumui sachiyama tu mimura mimura nu nisetaa ga suritooti sakitaribanashi koojidikirashiyoo mutukaNjuNdoo
◯赤田、鳥小堀、崎山という三つの村 三つの村の青年達が揃っていて酒醸造話 麹をうまく醗酵させろよ 元が取れず損をするぞ
語句・あかたとぅんじゅむいさちやま 首里の赤田、鳥小堀、崎山という三つの村。泡盛の醸造が盛んだった場所で、醸造所は戦前まで10数軒あった。・さきたり 「酒の醸造」【琉辞】。「たりゆん」は「(酒や醤油)を作る」【琉辞】つまり、醸造の意味がある。・こーじでぃきらし 麹をうまく醗酵させろ。 でぃきらし<でぃきらしゅん 成功させる。 の命令形。 麹の「成功」とは「醗酵する」こと。
概要
那覇市のゆいレールに乗ると、駅ごとに民謡のオルゴール音が流れる仕組みになっていて、この「三村踊り節」は「小禄駅」に接近すると流れてくる。
軽快な早弾きで、沖縄音階で出来ている。人気の高い曲の一つだ。
舞踊曲でもある「取納奉行節」とほぼ同じメロディーである。
歌詞には沖縄本島南部の村の名前を三つ並べて併称し、その地域の名産品にまつわる話を盛り込んでいる。村名を併称するのは民謡「スーキカンナー」にもみられる。
歌詞についてみてみよう。
一番【小禄・豊見城・垣花】について
一番は「布織」をしながら世間話をしている女性達が登場する。
この辺りは小禄紺地(ウルククンジー)の産地で、1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常もこの地域での木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。小禄紺地の特徴は小絣(模様が小さく多い)であること、何度も藍染を重ねていることに特徴があるという。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。
機織りは女性たちの仕事だった。ヤガマーという作業をする家に集まり徹夜の作業もあった。この歌詞では「あんぐぁーたー」、若い女性達が話に気をとられて糸を間違えばやり直しをしなければならず、大損するぞ、と戒められている。
那覇の古地図に三村の位置を書き込んでみる。
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(スタンフォード大学がインターネットで公開している大日本帝国陸軍測図の地形図に加筆。1910年頃ー明治40年台に測量されたもの)
古地図といっても測量されたものでは1910年頃のものが最も古い。昔の村の大まかな位置を理解するために古地図に地名を入れた。
二番【上泊・泊・元の泊】について
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二番は塩炊きの話だ。地名として出てくる上泊(うぃーどぅまい)は明確ではないが現在の那覇市立泊小学校あたりではないか。はっきりしない。
「元の泊」(むとぅぬとぅまい)は通称で現在の前島(昔潟原と呼ばれる地域で、塩田があった)あたりではないか。
この二番の歌詞「塩炊き」(まーすたち)を理解するためには琉球、泊村での製塩について知らなければならない。
まずはその様子を知る手がかりとして貴重な絵が二つある。
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(那覇市歴史博物館 デジタルミュージアムより)
「バジルホール・ペリー航海記等関係写真/拡大写真2枚あり/青い目が見た大琉球 P137 写真番号211を参照/那覇と泊の潟原には広大な入浜式塩田が広がっていた。この絵は泊潟原である。遠方に天久聖現時と泊高橋が見える。」(同上)
この絵の下側の絵は上の一部を私が拡大したもので、塩田から塩水(かん水)のようなものを甕に入れて運び手前の窯のようなものに入れている。その下には火を起こしているような人の姿も描かれている。
沖縄の塩、といえば今では「島マース」として人気があるが、その塩の歴史を見るとそれほど古いものではない。
17世紀頃、薩摩藩から製塩の方法が導入された。それまでは海水から塩を作る技術がなく、海水を直接 調理に利用したり、薩摩藩や薩摩商人から高い塩を買わねばならなかった。海水を煮詰めるには大量の薪が必要となり、山が少ない琉球の島々では薪も自由ではなかった。
泉崎の宮城芝香は薩摩の弓削次郎右衛門から入浜式の塩づくりの方法を習得し、1694年(元禄7年)に泊に塩田を作った。この入浜式は琉球諸島にも広がって行くが、米軍の統治下まで続いていたという。
入浜式とは、簡単に言えば、それまでの手で海水を砂にまいて塩分濃度を高めるやり方ではなく、潮の干満を利用してかん水(塩分濃度の高い水)を作る方法。それを炊いて塩を作る。
さてもう一つの絵は「琉球貿易港図屏風」だ。薩摩藩への土産として琉球の絵師達が描いた物だとみられている。そこに泊潟原での塩田が描かれている。
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「琉球貿易港図屏風」(浦添市美術館蔵)全体図
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部分図。地名を書き込んである。
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Google mapからの写真だが、塩田があった潟原は現在は前島という地名だ。那覇市前島1丁目3の公園に「泊塩田之跡碑」がある。
三番【辻・仲島・渡地】について
この三つの遊郭が「仲島節」でも取り上げた「沖縄志」(伊地知 貞馨著)に描かれている。沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫にある。
伊地知(1826-1887)は薩摩藩出身の明治時代の官僚だ。この伊地知が1877(明治10)年に書いたこの本の第1巻に「那覇港圖」がある。
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現代の地図、google mapに地名を重ねてみた。
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「じゅり」と呼ばれる琉球王朝時代の女郎については、これまでも「さらうてぃ口説」や「仲島節」などでも取り上げてきた。遊郭が制度として薩摩藩からの要請で整備されたということは「じゅり」という言葉が九州方言の「じゅーり」(料理)からきていると言われていることにも表れている。
「さらうてぃ口説」で書いたが、遊郭が長年にわたる女性蔑視、人身売買の根源であることは歴史的に間違いない。しかし、そこで生み出された芸能、文化はきわめて琉球文化を理解する上で重要であるということは私などが言うまでもないことであろう。
例えば、吉屋チルーという琉球時代の女流詩人は読谷に生まれ8歳のとき那覇仲島へ遊女として身売りされた。このように大半が地方の貧困層、つまり士族以外の平民の娘が身売りさせられた。女郎は琉球では「ジュリ」と呼ばれた。遊郭は自治制度があり女性だけで管理され、ジュリアンマー(女郎の抱え親)と呼ばれる人々が母子関係を結び、歌や三線、舞踊などの芸事を教えていった。
遊郭は各地にあったが、尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設した。背景には薩摩藩からの指示があったと推測されるが、遊郭の管理を王府として行う事で風紀の乱れを防止しようとした。そして琉球王朝が廃藩置県で沖縄県となり、太平洋戦争で米軍によって空襲を受けるまで辻、仲島の遊郭は存在し続けたのである。
沖縄語辞典(国立国語研究所編)には「辻」の項でこうある。
「[辻]那覇にあった遊郭の名。本土人・中国人・首里・那覇の上流人を相手とした高級な遊郭であった。那覇にはciizi,nakasima[中島],wataNzi[渡地]の三つの遊郭があり、ciiziが高級で、nakasimaは首里・中島相手、wataNziはいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていた」
本土人とは主に薩摩藩の役人で、中国人とは冊封使のことである。それ以外、商人なども含まれる。遊郭で展開された琉球芸能は表に出ることがほとんどなく記録も非常に少ない。
それでも琉球古典音楽や舞踊、さらには地方の祭祀や芸能も含め、琉球芸能の重要な部分を構成していたと言われている。琉球王朝の文化である古典音楽も含め遊郭の中で展開された芸能との関わりは無視できない。
この三番の歌詞が省略されて歌われることも多い。
四番 【潮平・兼城・糸満】について
糸満は昔から沖縄を代表する漁師町であり、戦前までは大型追い込み漁が続けられていた。
漁をするのは男性で、それを買い、さらに町で高く売る役目は多くは女性だった。
したがって、この四番の歌詞の主人公は女性となっている。
三村の位置を確認しよう。
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五番 【赤田・鳥小堀・崎山】について
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「首里古地図の全体図」【沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫】より「赤田、鳥小堀、崎山」の地名を書き入れた。
「首里三箇(しゅりさんか)」と呼ばれ、この三つのむらでは琉球王朝により酒(泡盛)の醸造が許可された。
当時の醸造所で、現在ものこっているのは瑞穂酒造、咲元酒造、瑞泉酒造、石川酒造場、崎山酒造廠、比嘉酒造、識名酒造。
ほとんど移転してしまい、現在あるのは咲元酒造(鳥堀)、瑞泉酒造(崎山)、識名酒造(赤田)の三醸造所になっている。
琉歌との関係
ところで「琉歌大成」にはこの唄の元になると思われる琉歌は一首だけある。
小禄豊見城垣花三村あんに誰が捨てて布織りばなし
うるく とぅみぐしく かちぬはな みむら あんにたがしてぃてぃ ぬぬういばなし
しかし、この本では珍しく、大意は「不勘」(不詳の意味)と書かれている。「あんに」の意味が不明なのだと思われる。
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みむら うぅどぅいぶし
mimura wuduibushi
語句・みむら 本土にもあるが、沖縄では昔から近隣する二つ、ないし三つの村を並べて呼ぶことが多い。「二村落連称」などと呼ぶ。(例:「スーキカンナー」)同じ名前の村が多いことから区別するため、という説もあるが例外も多く根拠は不明。・うどぅい 踊り。
作者不詳
一、小禄 豊見城 垣花 三村 三村のアン小達が揃とて布織い話 綾まみぐなよ 元かんじゅんど
'うるくてぃみぐしく かちぬはなみむら みむらぬ'あんぐゎーたーが すりとーてぃぬぬ'ういばなし 'あやまみぐなよーむとぅかんじゅんどー
'uruku timigushiku kachinuhana mimuranu 'aNgwaataa ga suritooti nunu'uibanashi 'ayamamiguna yoo mutukaNjuN doo
◯小禄 豊見城 垣花という三つの村 三つの村の姉さん達が揃って布織り話 模様を間違えるなよ 元が取れず損をするぞ
語句・あんぐゎーたー姉さんたち。「あんぐゎー」は平民の若い女性を指す。+たー 達。・すりとーてぃ 揃っていて。<すりてぃ 揃って。<すりゆん 揃う。+うてぃ<うゆん → 揃って居て。・ぬぬうい 小禄紺地(うるくくんじ)を指していると思われる。小禄紺地とは、17世紀から始まった木綿布で作られた紺地の絣。1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常も木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。参照「小禄間切口説」・あや 「縞。着物などの縞をいう。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まみぐな <まみじゅん。「取り違える。間違える。」【沖辞】。否定形「まみがん」の命令形は「まみぐな」。・むとぅ 元。・かんじゅん「(負債などを)負う。損をする」【沖辞】。むとぅかんじゅん「(商売)で元がとれずに、損をする。」【沖辞】。
二 上泊 泊 元の泊と三村三村のニ才達がすりとーて塩炊き話 雨降らすなよ 元かんじゅんど
'うぃーどぅまい とぅまい むとぅぬとぅまいとぅみむら みむらぬにせたーがすりとーてぃまーすたちばなし'あみふらすなよ むとぅかんじゅんどー
'wiidumai tumai mutunu tumai tu mimura mimura nu nisetaa ga suritooti maasa tachibanashi 'amihusasuna yoo
◯上泊 泊 元の泊という三つの村、三つの村の青年達が揃って塩炊き話 雨を降らすなよ 元が取れず損をするぞ
語句・うぃーどぅまい 現在の「おもろまち」あたりにあった古い村。・とぅまい現在の泊。三山時代から八重山宮古などの船が着く港であり、泊と「浮島」と呼ばれた那覇の間にあった潟原という干潟に塩田があった。・ますたち 塩炊き。塩を作るための工程。たち<たちゅん 炊く、煮る。泊にあった塩田は薩摩から導入された入浜式塩田方式というもの。潮の干満を利用して海水を集め、太陽の熱と砂の毛細管現象を利用してかん水(濃度の高い塩水)を作り、それを薪燃やして煮詰めて塩を生産する方法。雨が降るとかん水も薄まり、塩炊きもできなくなる。
三、辻仲島と渡地と三村 三村の尾類小達がすりとーて客待ち話 美ら二才からはい行ちゃらなや
ちーじなかしまとぅ わたんじとぅみむら みむらぬじゅりぐゎーたーがすりとーてぃ ちゃくまちばなし ちゅらにせからはい'いちゃらなや
chiiji nakashima wataNji tu mimura mimura nu jurigwaataa ga suritooti chakumachibanashi chura nisee kara hai'icharanara
◯辻、仲島、渡地という三つの村 三つの村の女郎達が揃って客(を)待ち(ながらの)話 美しい青年に早く会いたいな
語句・じゅり 女郎。娼妓。「じゅり」という言葉は九州方言と関わりがあるといわれている。「<料理;‘尾類’」と書かれ旧かなは‘づり’;‘料理茶屋の女’意;‘女郎’系ではなく九州諸方言〔鹿児島でジョーリ[料理]の影響らしい〕」【琉辞】遊郭の制度は尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設したことに始まる。背景には薩摩藩からの指示があったと推測される。・はいいちゃらなや 早く逢いたいな。<はい 走って。早く。+ <いちゃゆん 会う。
四、潮平 兼城 糸満と三村 三村のアン小達が揃とて魚売り話安売りすなよ元かんじゅんど
すんじゃかなぐしく'いちまんとぅみむらぬ'あんぐわーたーがすりとーてー'いゆ'ういばなし やし'ういすなよーむとぅかんじゅんどー
suNja kanagushiku 'ichimaN tu mimura mimura nu 'aNgwaataa ga suritooti 'iyu'uibanashi yashi'uisunayoo mutukaNjuNdoo
◯潮平、兼城、糸満という三つの村 三つの村の姉さん達が揃って魚売り話 安売りをするなよ 元が取れず損をするぞ
語句・いゆ 魚。
五、赤田 鳥小堀 崎山と三村 三村の二才達が揃とて酒たり話麹できらしよ元かんじゅんど
'あかたとぅんじゅむいさちやまとぅみむら みむらぬにせたーがすりとーてぃ さきたりばなし こーじでぃきらしよーむとぅかんじゅんどー
'akata tuNjumui sachiyama tu mimura mimura nu nisetaa ga suritooti sakitaribanashi koojidikirashiyoo mutukaNjuNdoo
◯赤田、鳥小堀、崎山という三つの村 三つの村の青年達が揃っていて酒醸造話 麹をうまく醗酵させろよ 元が取れず損をするぞ
語句・あかたとぅんじゅむいさちやま 首里の赤田、鳥小堀、崎山という三つの村。泡盛の醸造が盛んだった場所で、醸造所は戦前まで10数軒あった。・さきたり 「酒の醸造」【琉辞】。「たりゆん」は「(酒や醤油)を作る」【琉辞】つまり、醸造の意味がある。・こーじでぃきらし 麹をうまく醗酵させろ。 でぃきらし<でぃきらしゅん 成功させる。 の命令形。 麹の「成功」とは「醗酵する」こと。
概要
那覇市のゆいレールに乗ると、駅ごとに民謡のオルゴール音が流れる仕組みになっていて、この「三村踊り節」は「小禄駅」に接近すると流れてくる。
軽快な早弾きで、沖縄音階で出来ている。人気の高い曲の一つだ。
舞踊曲でもある「取納奉行節」とほぼ同じメロディーである。
歌詞には沖縄本島南部の村の名前を三つ並べて併称し、その地域の名産品にまつわる話を盛り込んでいる。村名を併称するのは民謡「スーキカンナー」にもみられる。
歌詞についてみてみよう。
一番【小禄・豊見城・垣花】について
一番は「布織」をしながら世間話をしている女性達が登場する。
この辺りは小禄紺地(ウルククンジー)の産地で、1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常もこの地域での木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。小禄紺地の特徴は小絣(模様が小さく多い)であること、何度も藍染を重ねていることに特徴があるという。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。
機織りは女性たちの仕事だった。ヤガマーという作業をする家に集まり徹夜の作業もあった。この歌詞では「あんぐぁーたー」、若い女性達が話に気をとられて糸を間違えばやり直しをしなければならず、大損するぞ、と戒められている。
那覇の古地図に三村の位置を書き込んでみる。
(スタンフォード大学がインターネットで公開している大日本帝国陸軍測図の地形図に加筆。1910年頃ー明治40年台に測量されたもの)
古地図といっても測量されたものでは1910年頃のものが最も古い。昔の村の大まかな位置を理解するために古地図に地名を入れた。
二番【上泊・泊・元の泊】について
二番は塩炊きの話だ。地名として出てくる上泊(うぃーどぅまい)は明確ではないが現在の那覇市立泊小学校あたりではないか。はっきりしない。
「元の泊」(むとぅぬとぅまい)は通称で現在の前島(昔潟原と呼ばれる地域で、塩田があった)あたりではないか。
この二番の歌詞「塩炊き」(まーすたち)を理解するためには琉球、泊村での製塩について知らなければならない。
まずはその様子を知る手がかりとして貴重な絵が二つある。
(那覇市歴史博物館 デジタルミュージアムより)
「バジルホール・ペリー航海記等関係写真/拡大写真2枚あり/青い目が見た大琉球 P137 写真番号211を参照/那覇と泊の潟原には広大な入浜式塩田が広がっていた。この絵は泊潟原である。遠方に天久聖現時と泊高橋が見える。」(同上)
この絵の下側の絵は上の一部を私が拡大したもので、塩田から塩水(かん水)のようなものを甕に入れて運び手前の窯のようなものに入れている。その下には火を起こしているような人の姿も描かれている。
沖縄の塩、といえば今では「島マース」として人気があるが、その塩の歴史を見るとそれほど古いものではない。
17世紀頃、薩摩藩から製塩の方法が導入された。それまでは海水から塩を作る技術がなく、海水を直接 調理に利用したり、薩摩藩や薩摩商人から高い塩を買わねばならなかった。海水を煮詰めるには大量の薪が必要となり、山が少ない琉球の島々では薪も自由ではなかった。
泉崎の宮城芝香は薩摩の弓削次郎右衛門から入浜式の塩づくりの方法を習得し、1694年(元禄7年)に泊に塩田を作った。この入浜式は琉球諸島にも広がって行くが、米軍の統治下まで続いていたという。
入浜式とは、簡単に言えば、それまでの手で海水を砂にまいて塩分濃度を高めるやり方ではなく、潮の干満を利用してかん水(塩分濃度の高い水)を作る方法。それを炊いて塩を作る。
さてもう一つの絵は「琉球貿易港図屏風」だ。薩摩藩への土産として琉球の絵師達が描いた物だとみられている。そこに泊潟原での塩田が描かれている。
「琉球貿易港図屏風」(浦添市美術館蔵)全体図
部分図。地名を書き込んである。
Google mapからの写真だが、塩田があった潟原は現在は前島という地名だ。那覇市前島1丁目3の公園に「泊塩田之跡碑」がある。
三番【辻・仲島・渡地】について
この三つの遊郭が「仲島節」でも取り上げた「沖縄志」(伊地知 貞馨著)に描かれている。沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫にある。
伊地知(1826-1887)は薩摩藩出身の明治時代の官僚だ。この伊地知が1877(明治10)年に書いたこの本の第1巻に「那覇港圖」がある。
現代の地図、google mapに地名を重ねてみた。
「じゅり」と呼ばれる琉球王朝時代の女郎については、これまでも「さらうてぃ口説」や「仲島節」などでも取り上げてきた。遊郭が制度として薩摩藩からの要請で整備されたということは「じゅり」という言葉が九州方言の「じゅーり」(料理)からきていると言われていることにも表れている。
「さらうてぃ口説」で書いたが、遊郭が長年にわたる女性蔑視、人身売買の根源であることは歴史的に間違いない。しかし、そこで生み出された芸能、文化はきわめて琉球文化を理解する上で重要であるということは私などが言うまでもないことであろう。
例えば、吉屋チルーという琉球時代の女流詩人は読谷に生まれ8歳のとき那覇仲島へ遊女として身売りされた。このように大半が地方の貧困層、つまり士族以外の平民の娘が身売りさせられた。女郎は琉球では「ジュリ」と呼ばれた。遊郭は自治制度があり女性だけで管理され、ジュリアンマー(女郎の抱え親)と呼ばれる人々が母子関係を結び、歌や三線、舞踊などの芸事を教えていった。
遊郭は各地にあったが、尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設した。背景には薩摩藩からの指示があったと推測されるが、遊郭の管理を王府として行う事で風紀の乱れを防止しようとした。そして琉球王朝が廃藩置県で沖縄県となり、太平洋戦争で米軍によって空襲を受けるまで辻、仲島の遊郭は存在し続けたのである。
沖縄語辞典(国立国語研究所編)には「辻」の項でこうある。
「[辻]那覇にあった遊郭の名。本土人・中国人・首里・那覇の上流人を相手とした高級な遊郭であった。那覇にはciizi,nakasima[中島],wataNzi[渡地]の三つの遊郭があり、ciiziが高級で、nakasimaは首里・中島相手、wataNziはいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていた」
本土人とは主に薩摩藩の役人で、中国人とは冊封使のことである。それ以外、商人なども含まれる。遊郭で展開された琉球芸能は表に出ることがほとんどなく記録も非常に少ない。
それでも琉球古典音楽や舞踊、さらには地方の祭祀や芸能も含め、琉球芸能の重要な部分を構成していたと言われている。琉球王朝の文化である古典音楽も含め遊郭の中で展開された芸能との関わりは無視できない。
この三番の歌詞が省略されて歌われることも多い。
四番 【潮平・兼城・糸満】について
糸満は昔から沖縄を代表する漁師町であり、戦前までは大型追い込み漁が続けられていた。
漁をするのは男性で、それを買い、さらに町で高く売る役目は多くは女性だった。
したがって、この四番の歌詞の主人公は女性となっている。
三村の位置を確認しよう。
五番 【赤田・鳥小堀・崎山】について
「首里古地図の全体図」【沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫】より「赤田、鳥小堀、崎山」の地名を書き入れた。
「首里三箇(しゅりさんか)」と呼ばれ、この三つのむらでは琉球王朝により酒(泡盛)の醸造が許可された。
当時の醸造所で、現在ものこっているのは瑞穂酒造、咲元酒造、瑞泉酒造、石川酒造場、崎山酒造廠、比嘉酒造、識名酒造。
ほとんど移転してしまい、現在あるのは咲元酒造(鳥堀)、瑞泉酒造(崎山)、識名酒造(赤田)の三醸造所になっている。
琉歌との関係
ところで「琉歌大成」にはこの唄の元になると思われる琉歌は一首だけある。
小禄豊見城垣花三村あんに誰が捨てて布織りばなし
うるく とぅみぐしく かちぬはな みむら あんにたがしてぃてぃ ぬぬういばなし
しかし、この本では珍しく、大意は「不勘」(不詳の意味)と書かれている。「あんに」の意味が不明なのだと思われる。
【このブログが本になりました!】
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