2021年05月15日

平和の願い

平和の願い


作詞:平識ナミ  作曲:普久原恒男


1.沖縄てぃる島や何時ん戦世い 安々とぅ暮らす節や何時が 
うちなーてぃるしまや いちんいくさゆーい やしやしとぅくらすしちやいちが
'uchinaa tiru shima ya 'ichiN 'ikusa yuu i yashiyashitu kurasu shichi ya 'ichiga
沖縄という島(故郷)はいつも戦争の世の中なのか。安々と暮らす時はいつくるのか。
語句・うちなー沖縄。「おきなわ」のウチナーグチ。・てぃる という。・しま故郷。 いわゆるアイランドとしての島という意味よりも「故郷」「村」という意味が多い。・いちんいつも。・いくさゆーい 戦世か。「い」は疑問詞を含まない疑問文の文末にあって「か?」という疑問文となる。ここでは「いつも戦世なのか」という問い。・やしやしとぅ安々と。安心して。・しち時期。時。・いちがいつなのか。


でぃー我ったー此ぬ島沖縄 平和願らな此ぬ沖縄
でぃーわったーくぬしまうちなー へいわにがらなくぬうちなー
dii wattaa kunu shima 'uchinaa heiwa nigarana kunu 'uchinaa
さあ我々のこの故郷沖縄 平和を願いたいこの沖縄の
語句・でぃーさあ。誘いかける時につかう。・わったーわれわれの。われわれ。ここでは両方の意味が含まれている。



2.忘るなよ互に哀り戦世や 世間御万人ぬ肝に染みてぃ
わしるなよたげに あわりいくさゆーや しきんうまんちゅぬちむにすみてぃ
washiruna yoo tagee ni 'awari 'ikusayuu ya shikiN 'umaNchu nu chimu ni sumiti
忘れるなよ互いに 哀れだよ戦争の世の中は 世の中多くの人の心に染めて
語句・わしるなよ<わしゆん。否定命令形。わしるな。忘れるな。・たげーに互いに。・あわり哀れな。つらい。くるしい。・しきん世間。「しけー」は世界。・うまんちゅ 琉球語辞典によると「御万人」と書くが、元は「御真人」か「うま(そこら)ん人」から。多くの人々。・ちむにすみてぃ 「すみゆん」(染める)は「刻む」くらいの強い意味。

*繰り返し



3.上下ん揃てぃ心打ち合わち 誠此ぬ沖縄守てぃいかな
かみしむん するてぃ くくるうちあわち まくとぅくぬうちなーまむてぃいかな
kamishimuN suruti kukuru 'uchi'awachi makutu kunu 'uchinaa mamuti 'ikana
上下(国を治める者や庶民)も心を合わせて 真心を持ってこの沖縄を守っていきたい
語句・かみしむん 国を治める者や庶民も。・まむてぃいかな守っていきたい。「いかな」は標準語の「いかないといけない」に似ているが、意味はそうではなく「いきたい」「いきましょう」という自分の意思や呼びかけ。

*繰り返し



4.思事や一道恋しさや大和 やがてぃ御膝元戻る嬉さ
うむくとぅや ちゅみち くいしさややまとぅ やがてぃ うふぃじゃむとぅ むどぅる うりしゃ
'umukutu ya chumichi kuisisa ya yamatu yagati 'uhwijamutu muduru 'urisha
願うことは一つの道。恋しいのは本土(ヤマト)。やがて本土に復帰するうれしさよ
語句・ちゅみち一つの道。・やまとぅ 本土。薩摩の事も。・うふぃじゃむとぅお膝元。・うりしゃ とても嬉しい<うりさん。文語表現。普通は「うっさん」

*繰り返し



コメント

1969年に平識ナミが作詞、普久原恒男が作曲。
このウタが作られた背景には当時盛り上がった復帰運動があった。

祖国復帰運動とは

特に沖縄戦は日本の歴史上初めての地上戦であり、四人に一人の沖縄県民が亡くなったと言われるように一般市民も巻き込んだ戦争だった。また「鉄の暴風」と言われるように上陸する米軍は徹底的に日本軍を殲滅すべく艦砲射撃を繰り返して一般市民への被害が拡大した。日本の軍部は沖縄を「捨て石」として本土防衛の最前線にしたのである。

そのような沖縄戦が終結した後、アメリカ政府ー米軍による統治が続き、朝鮮戦争、ベトナム戦争などアメリカの極東戦略に組み込まれた沖縄は「平和憲法」の下にある日本への復帰を果たしたいとの世論が強くなっていく。そしてついに1972年5月15日に沖縄は日本に復帰した。

この「平和の願い」の題名にも歌詞にも沖縄戦で激しく傷ついた沖縄県民の思いが込められている。

このウタを作詞した平識ナミについて、琉球新報の2021年5月11日版に紹介されている。

『彼女は本部町崎本部の出身で、十二、三歳までは炭焼きや薪取りなどの家業を手伝い、十五歳で紡績女工になった。満足に読み書きができなかったため、後年、島うたを詠むようになってからは、即興的に詠んだ琉歌を娘さんが口述筆記したという。』(「圧政下の文化運動」3、仲松昌次)

また、こんなエピソードも紹介されている。

『歌ったのは玉城安定。安定亡き後、娘の玉城一美が歌い継いだ。一美がこの歌と出合ったのは復帰3年後の1975年。海洋博のホテルで、父親が観光客相手の民謡ショーを手掛けていた。(中略)この頃は、第2次民謡プームとも言える時期で、各地に民謡酒場が乱立していた。「安里屋ゆんた」や「十九の春」など、本土の人にもわかるようにと日本語の島うたを歌っていたが、時々、父と一緒に「平和の願い」も歌った。 しかし、彼女は4番の歌詞はあまり歌いたくなかったという(中略)復帰を夢見た一美の高校時代、熱心に日の丸を振って平和行進を沿道から応援したあの時の気持ちが苦々しく思い出される。 復帰から5年がたち10年が過ぎても、理不尽な沖縄の状況は変わっていない。復帰とは、何だったんだろう、とつい考えてしまう。たかが島うたではないか、と思っても忸怩(じくじ)たる思いが湧き上がってくる。「平和の願い」はなるべく3番までで歌い終わるようにしている自分がいた。歌三線を熱心に教えてくれた父や、情感あふれ
る島うたを数多く詠み続けた平識ナミにはわびる思い
も抱きながら…。』(同上)

このウタの歌詞を作った平識ナミと、歌った玉城一美との間に、どんな時代背景の変化があったのか。

言うまでもなく沖縄は本土に復帰したが、米軍基地は無くなるどころか、さらに沖縄に押し付けられ、米兵による犯罪は減らないという現実があった。

これは現在の私たちに突きつけられている現実でもある。

今日は5月15日沖縄の復帰記念日だ。復帰して49年を迎える。

もう一度「復帰」がなんだったのか、どんな現実が沖縄におしつけられているのか、この「平和の願い」を歌いながら考えてみたい。

平和の願い
(このCDの最後に「平和の願い」がある)



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Posted by たる一 at 07:52│Comments(0)は行沖縄本島
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