江戸時代の日本の地理がわかる「れきちず」
嬉しいニュースである。江戸時代(1800〜1840年頃が想定されている)の日本を現代の様式の地図(いわゆる「古地図」ではない)で見ることのできる「れきちず全国版」というのが公開された。暫定版なので情報量はまだ少なく、北海道と沖縄は今後カバーされるようだが、それでもかなり見応えがある。
この「れきちず」は右下のボタンで一瞬にして現代の地図に切り替えられるので比べてみると、海岸線が昔と今ではかなり違っているのがわかる。ずいぶん埋め立てや干拓などが進められてきたということだ。上の江戸付近の地図を見ても、今の有明や新木場などは影も形もない。
さらに「隅田川」の名称が「大川」になっているのも嬉しい。この辺りの名称変化に伴う話は、Wikipedia の「隅田川」の項に詳しい。歌舞伎の『三人吉三郭巴白浪』の「大川端庚申塚の場」というのも有名だ。
江戸周辺の地図で面白いのは、江戸時代の遊郭である「吉原」である。吉原は初めは今の人形町の辺りにあったのだが、明暦の大火で焼失してしまったために、現在の地(浅草の北)に移されたと記録されている。
そしてこの「れきちず」をみるとその位置関係が手に取るようにわかる。下の 2枚の地図をクリックすると、それぞれ別画面で拡大表示される。
私の大学時代の研究テーマは「歌舞伎」であり、とくに吉原が舞台の『助六』が大好きということもあって、この辺りの話は非常に興味深い。(ただ、現代の「吉原」についてはとんと疎いので、その辺りはよろしく)
浅草寺の東側を見ると、当時の歌舞伎「江戸三座」の、中村座、市村座、森田座(後の守田座)のうち森田座は資金難で休業中のようで、その控櫓の河原崎座(「川原崎座」と表示されているが、この表記もありだったようだ:参照)が営業している(参照)。ほとんど隣同士でやっていたのがよくわかる。
ただ、この「れきちず」、かなりよくできていて面白いのだが、江戸や上方から離れた周辺の地図を見ると、まだまだ未完成の部分が多いようだ。例えば私の故郷である山形県酒田市付近の地図を見ると、「北国街道」の一部が日本海上にはみ出ちゃってるし、日本三急流の一つとして名高い最上川が見当たらない。
江戸期の地図(左)と現代の地図(右)を見比べると、埋め立てが進んでから確定した現在の「国道 7号線」の上に「北国街道」をなぞってしまったんじゃなかろうかと想像される。できるだけ早期の修正が望まれる。
まあ、最上川は芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」という俳句でも知られ、明治以後に急に出現した川というわけじゃないのだから、黙っていてもそのうち加えられるだろうが。
この辺りのリバイズが進めば、さらにいくら眺めていても飽きない地図になってくれるだろう。期待はどんどん膨らむ。
【4月 10日 追記】
この「れきちず」、よく見るとあちこちに「ありゃ?、これヤバいじゃん!」みたいなバグが結構見つかる。もしかすると当分は「れきちず、バグ探し」がトレンドになるかもしれない。
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