口から出まかせ日記【表】

こんな寒かったっけ冬

色々と背負ってしまう読書。

 

アントニオ猪木の「元気ですか〜っ」みたいなノリで、「本読んでますか〜っ」って人に聞いたことありますか。私は無いですが、大学時代にある教授がクセみたいに叫んでました。「本が読めればなんでもできる」とかも言っていた。嘘言うな。


それはどうでもいいとして、ちょっと前ですが、Xのタイムラインに「読書する奴、あんま偉そうにそんな」的なメッセージがやたら流れてきた時期がありました。いまいちその背景がよくわからないんですが、例えば、家の蔵書なんかをSNSにアップしたりして、豊かな読書習慣をアピールする=読書しない人へのマウンティングだと捉えた人がいるのかもしれない。それか、リアルに読書してる人から、「あっは、君はまだあれ読んでないわけ?」などと言われりしたんだろうか(ここで、あっは、に反応する人は読書してる人だと思いますが)


私も「本買ったぜ〜」みたいな投稿をSNSでしてるんで、「読書してる偉そうな奴」の範疇に入るのかもしれませんが、本ごときで偉くなるわけないだろアホかって思ってます。だいたい、買えば買うほど部屋が狭くなるやないか。スペパ(スペースパフォーマンス)なんていう、生活空間の余白を大事にしよう的な言葉も出てきましたが、紙の本で買うのが好きな人間はそういうのと真逆。自分のスペースなんかより本のスペースが大事なのです。アホやろ。あ、ポール・クルーグマン教授の部屋とかネットで調べるとえらいことになってますよ→研究室について - 浦安⇔那須日記

 

 

 

読書の習慣は色々なものを人に背負わせるものですね。ある作家さんや、特定のジャンル、もしくは時代性を背負ったりもする。坂口安吾に関するものは生きてる限り全部読むぞ〜、といった人も現れる。私もある作家さんはずっと追っていこうと思ってますが、熱烈って感じではなく、寧ろうっすらとした感覚で、しかし、おそらくは読むのをやめるという選択肢がまず存在しない、ある意味で完璧な信仰のようになっていたりもします。


それと、当たり前ですが読書っていま手元にある本の現物だけが、関係性の全てではありません。それまで何を読み、どんなことを考えてきたか、という過去は勿論のこと、今後も読み続けることが決まっているとなると、本を買うために捻出するお金や時間、空間的なスペースへの関心を背負い続けることになるし、読み続けるために必要な能力を維持すること、老眼鏡だとかレーシックの代金を未来に背負わせることになる。


自分に関わることだけじゃない。環境もです。その地域にある本屋さんとか図書館との関係性も背負っている。それはポジティブな面もあるけれど、将来、贔屓にしている本屋さんとか図書館が無くなってしまったら……という懸念として同時に背負っている。最終的には潔斎の問題でもあります。自分が死ぬまでにこの大量の本はどうするか。全部処分するのか、それとも誰かに譲るのか。という感じで、ちょいと考えただけでも本はとにかく背負ってしまうもので、いくら電子書籍でスマートっぽく振る舞っていても、実際はいまだにみんなニノキン(二宮金次郎)なのですよ。

 

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