2024年12月05日
堀田力氏死去(90歳)
元検事・堀田力さん死去90歳
ロッキード事件を捜査
戦後最大の疑獄とされるロッキード事件で、捜査の中核を担った元東京地検特捜部検事堀田力(ほつた・つとむ)さんが11月24日午前3時25分、老衰のため神奈川県の自宅で死去した。90歳。京都府出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻明子(あきこ)さん。後日、お別れの会を開く予定。病気療養中だった。
京大卒業後、1961年検事任官。大阪地検検事、東京地検特捜部検事、甲府地検検事正などを経て、90年に法務省官房長に就いた。
特捜部が76年に田中角栄元首相を逮捕したロッキード事件の捜査では、在米大使館での勤務経験を生かして米国との交渉に尽力した。有罪判決を受けた田中元首相の公判も担当。追及の鋭さから「カミソリ堀田」の異名で知られた。
91年に退官し、福祉事業に転身。社会福祉や教育の分野で国の審議会メンバーを務めたほか、現在の「さわやか福祉財団」を創設し、ボランティア活動の意義を全国に訴え続けた。2020年に閣議決定された検察官の定年延長を可能とする検察庁法改正案に反対し、検察OBが提出した意見書に名を連ねた。
ロッキード事件の捜査を共に担当した元検事総長の松尾邦弘弁護士(82)は、堀田さんの米側の人脈が大きな役割を果たしたと述懐。
「旧来の検察にはない発想を持ち、退官前から時に組織に厳しい意見も言っていた。鋭い視点と広い視野を持ち、尊敬する存在だった」と惜しんだ。
「評伝」政治と一線画す
東京地検特捜部が1976年に田中角栄元首相を逮捕したロッキード事件。今年11月に亡くなった元検事堀田力さんは疑惑発覚後、米国側に証拠引き渡しを求めて交渉した。三木武夫首相(当時)は米側の資料を見たがったが、上司と共に抵抗した。田中元首相に近い政治家にも見せなかつた。「政治的に利用されれば潜行捜査ができず、真相解明に影響が出る恐れがあった」。政治の世界と一線を画した理由を取材にそう語っていた。
「堀田さんだったら、どう考えるだろうか」。董陶を受けた元最高検次長検事の伊藤鉄男さんは、大きな局面を迎えると、その存在が頭に浮かんだ。堀田さんは検事退官後、福祉事業を手がけた。「大きい夢を抱き、実行する人だった。人のために役立つことをしたい、との思いからだろう」
76年2月、米上院の公聴会でロッキード社の航空機売り込み工作が暴露され、ロ社副会長が丸紅専務を通じ「政府高官に献金した」と証言した。
法務省参事官だった堀田さんは米側に証拠の引き渡しを求めることができると主張したが、検察内部からは疑問の声も上がった。その時、東京高検検事長だった神谷尚男さん(故人)が「ここで検察が立ち上がらなければ、今後20年間は国民に信頼されない」と語り、捜査を進める方針が定まった。
「失敗しても現場ではなく自分が責任を取るということ。そうじゃないと下は動けない」。堀田さんはこのエピソードを繰り返し紹介した。あるべき上司の姿として考えていたのだろう。
「出世とは関係なく、目の前のことを一生懸命にやる。国民の感覚を大切にする。権力の行き過ぎた行使にならないように良識を持つ」。堀田さんが話していた検察官のあるべき姿をいま一度かみしめたい。
【静新令和6年12月5日朝刊】
2024年11月01日
松岡宏氏逝去
松岡宏氏(まつおか・ひろし:弁護士)は10月29日に死去した。89歳。
通夜が5日午後6時から、葬儀が6日午前9時半から、いずれも下香貫上障子の沼津平安典礼会館で行われ、出棺は6日午前11時20分、火葬は正午から市斎場で。喪主は妻の美恵子さん。
なお、事前の弔問を5日午後5時から6時まで同会館で受け付ける。 松岡氏は1971年に法律事務所を開設、75年に松岡氏ら3人で沼津総合法律事務所を開いた。
公職として県教育委員、民事・家事事件調停委員を務めた。また、長年にわたり沼津朝日賞の選考委員として市井の人材の顕彰に尽力した。
【沼朝令和6年11月1日(金)号】
2024年07月14日
訃報 佐藤光徳上人
佐藤光徳上人ご遷化
大諏訪承光山吉祥院第二十八世光徳院日全上人(佐藤光徳師)が、去る四月三十日ご遷化されました。五月五日通夜葬、東之坊石田智宏上人導師。六日本葬儀、正見寺杉本日宣上人導師のもと吉祥院檀信徒葬として修行されました。本光寺より光正住職はじめ多くの檀家の皆様が参列しました。上人は先々代光顕日英聖人を師範として、昭和二十五年得度。実父第二十六世全樂院日信上人ご遷化に伴い、本光寺より沼津市立第二中学校、沼津市立高等学校に通学、この間、僧侶としての基礎の修行生活を過ごされました。東洋大学を卒業後、昭和四十七年第二十八世住職に就任、昌子夫人とともに吉祥院運営に尽力され、三十数家のお檀家さんを百二十家を超えるまでに増やされました。この間本堂・庫裡・客殿の新築改修、鐘楼の建立。大諏訪天満宮の新築等境内整備にあたられました。日英聖人、日崇上人、当住と三代に渡り本光寺の法務に給仕奉公ご助力をいただきました。
令和に入り体調を崩されるようになり昨夏より施設に入居されておりましたが突然のご遷化でした。上人の温厚、柔和なお人柄で、本光寺檀信徒をはじめ多くの友人知己に慕われていました。上人の急の訃報に接し、多くの人々に衝撃を与えました。こころからの自受法楽を祈念いたします。合掌。令和6年7月13日(仏歴2567年) 薬王山寺報
大諏訪承光山吉祥院第二十八世光徳院日全上人(佐藤光徳師)が、去る四月三十日ご遷化されました。五月五日通夜葬、東之坊石田智宏上人導師。六日本葬儀、正見寺杉本日宣上人導師のもと吉祥院檀信徒葬として修行されました。本光寺より光正住職はじめ多くの檀家の皆様が参列しました。上人は先々代光顕日英聖人を師範として、昭和二十五年得度。実父第二十六世全樂院日信上人ご遷化に伴い、本光寺より沼津市立第二中学校、沼津市立高等学校に通学、この間、僧侶としての基礎の修行生活を過ごされました。東洋大学を卒業後、昭和四十七年第二十八世住職に就任、昌子夫人とともに吉祥院運営に尽力され、三十数家のお檀家さんを百二十家を超えるまでに増やされました。この間本堂・庫裡・客殿の新築改修、鐘楼の建立。大諏訪天満宮の新築等境内整備にあたられました。日英聖人、日崇上人、当住と三代に渡り本光寺の法務に給仕奉公ご助力をいただきました。
令和に入り体調を崩されるようになり昨夏より施設に入居されておりましたが突然のご遷化でした。上人の温厚、柔和なお人柄で、本光寺檀信徒をはじめ多くの友人知己に慕われていました。上人の急の訃報に接し、多くの人々に衝撃を与えました。こころからの自受法楽を祈念いたします。合掌。令和6年7月13日(仏歴2567年) 薬王山寺報
2024年06月05日
沼津市歌を新たに編曲した 川口三郎(かわぐちさぶろう)さん(沼津市)
沼津市歌を新たに編曲した
川口三郎(かわぐちさぶろう)さん(沼津市)
2023年の沼津市制100周年記念事業の一環として、童謡「めだかの学校」などで知られる中田喜直(1923~2000年)が作曲した沼津市歌を新たに編曲した。新たなメロディーは毎日正午、同報無線のチャイムとして市内で流れている。トランペツト教室を主宰するとともに、清水町の沼津商高吹奏楽部などで音楽監督を務める。52歳。
一編曲の経緯は。
「以前、沼津市歌の演奏用譜面づくりに携わったことがあり、市から『市民が親しみを持てる現代に合った編曲を』と依頼された。吹奏楽や管弦楽、ピアノ伴奏など6パターンを編曲し、新たに音源を録音した。貴重な機会に関わり、名前を残していただけることに感謝している」
ー市歌の原曲の印象は。
「高度経済成長期の1955年、4村との合併を機に作曲されたこともあり、力強くビッグバンドジャズの影響があるような曲調が特徴。行進曲を思わせる曲調ながら、中田さんらしい叙情的なメロディーが含まれている素晴らしい曲と改めて感じた」
ー編曲で意識したことは。
「一般的にはサビの旋律をイントロにする場合が多いが、沼津市歌は弾むようなサビで、その印象が強くなってしまう。そのため、歌い出しのノスタルジックなメロディーを引き立たせた。ピアノ伴奏用の譜面は学校行事などで演奏できるよう、小中学生でも弾けるように工夫した」
一編曲した作品への思いを。
「気分転換によく訪れる千本浜の風景や、沼津のさまざまな場所でこのメロディーが流れたらと想像して作った。子どもたちに愛着を持って心優しく歌ってもらえたらと願っている」 (東部総局・尾藤旭)
【静新令
2024年02月26日
石井直樹氏(いしい・なおき)元下田市長)
石井直樹氏(いしい・なおき)元下田市長)
22日午後5時43分、慢性心不全のため神奈川県海老名市の病院で死去、79歳。下田市出身。自宅は下田市西中。通夜は26日午後6時から、葬儀・告別式は27日午前11時から、下田市吉佐美1077の1のJAふじ伊豆メモリアル吉佐美で。喪主は妻久子(ひさこ)さん。
2000年の市長選で初当選し、12年まで3期務めた。15年には旭日小綬章を受けた。
【静新令和6年2月24日(土)朝刊訃報】
22日午後5時43分、慢性心不全のため神奈川県海老名市の病院で死去、79歳。下田市出身。自宅は下田市西中。通夜は26日午後6時から、葬儀・告別式は27日午前11時から、下田市吉佐美1077の1のJAふじ伊豆メモリアル吉佐美で。喪主は妻久子(ひさこ)さん。
2000年の市長選で初当選し、12年まで3期務めた。15年には旭日小綬章を受けた。
【静新令和6年2月24日(土)朝刊訃報】
2024年02月22日
戸田観光協会事務局長' 佐藤寿美さん(さとうとしみ)
戸田観光協会事務局長'
佐藤寿美さん(さとうとしみ) (沼津市)
観光交流客の増加と水産物の消費拡大を狙い、2020年から沼津市南部の戸田漁港でプレジャーボートやヨットの係留を受け入れている。約25年間金融業に従事し、10年前に生まれ育った戸田に戻った。旅館勤務を経て20年から現職。58歳。
ー仕組みは。
「14年の定期船廃止で役割を失っていた浮桟橋を活用し、戸田地区での宿泊か飲食を条件に一時係留を認める。係留料金は徴収せず地域での消費行動を促して波及効果を生み出す。海に関連する資源を生かして地域活性や水産物の消費拡大につなげる水産庁の海業(うみぎょう)のモデル地区に選ばれた」
ーきっかけは。
「旅館勤務時代、ヨットを係留できないことが理由で50人ほどの団体客がキャンセルとなり、なぜできないか疑間を持った。15年開業の『道の駅くるら戸田』の来客者数が減少傾向となり海から人を迎える方法を本格的に考えた。清水港から戸田港までの海域は年間を通じて穏やかで、人を呼び込みやすい」
ー効果は。
「入港隻数、乗員数ともに着実に伸びている。23年度は年間経済効果が初めて1千万円に到達した。新たな店舗や宿泊施設がオープンしている。住民がまちに変化の兆しを感じ、何かに取り組んだり協力したりする機運が想像以上に高まっている」
ー今後の展望は。
「イベント開催日や好天の日は係留が集中して断っているため、桟橋を増設して受け入れられる隻数を増やしたい。戸田は日本初の近代洋式船舶を造船した地。深海魚や海水浴場などコンテンツが豊富にある。波や風を感じ富士山を仰ぎ見る船旅を含め、魅力を組み合わせて付加価値の高い商品を創出したい」 (東部総局・矢嶋宏行)
【静新令和6年2月22日(木)この人】
佐藤寿美さん(さとうとしみ) (沼津市)
観光交流客の増加と水産物の消費拡大を狙い、2020年から沼津市南部の戸田漁港でプレジャーボートやヨットの係留を受け入れている。約25年間金融業に従事し、10年前に生まれ育った戸田に戻った。旅館勤務を経て20年から現職。58歳。
ー仕組みは。
「14年の定期船廃止で役割を失っていた浮桟橋を活用し、戸田地区での宿泊か飲食を条件に一時係留を認める。係留料金は徴収せず地域での消費行動を促して波及効果を生み出す。海に関連する資源を生かして地域活性や水産物の消費拡大につなげる水産庁の海業(うみぎょう)のモデル地区に選ばれた」
ーきっかけは。
「旅館勤務時代、ヨットを係留できないことが理由で50人ほどの団体客がキャンセルとなり、なぜできないか疑間を持った。15年開業の『道の駅くるら戸田』の来客者数が減少傾向となり海から人を迎える方法を本格的に考えた。清水港から戸田港までの海域は年間を通じて穏やかで、人を呼び込みやすい」
ー効果は。
「入港隻数、乗員数ともに着実に伸びている。23年度は年間経済効果が初めて1千万円に到達した。新たな店舗や宿泊施設がオープンしている。住民がまちに変化の兆しを感じ、何かに取り組んだり協力したりする機運が想像以上に高まっている」
ー今後の展望は。
「イベント開催日や好天の日は係留が集中して断っているため、桟橋を増設して受け入れられる隻数を増やしたい。戸田は日本初の近代洋式船舶を造船した地。深海魚や海水浴場などコンテンツが豊富にある。波や風を感じ富士山を仰ぎ見る船旅を含め、魅力を組み合わせて付加価値の高い商品を創出したい」 (東部総局・矢嶋宏行)
【静新令和6年2月22日(木)この人】
2024年01月30日
静岡古城研究会会長 望月保宏(もちつきやすひろ)さん(三島市)
静岡古城研究会会長
望月保宏(もちつきやすひろ)さん(三島市)
県内に残る城や砦(とりで)跡の構造や歴史的役割を研究する1972年発足の団体「静岡古城研究会」を束ねる。新型コロナ禍の影響により本米より1年遅れ、本年度に50周年記念事業を展開した。県立沼津工高校長。静岡市清水区出身。60歳。
―どのような会か。
「戦に備えた防御施設を有した城や屋敷跡を研究している。鎌倉から戦国時代のものが多い。城館があったとされる場所に月に数回ほど出向いて遺構を調べるほか、一般向けに古城見学会や山城セミナーを毎年開いている。地主の依頼があれば、古城の遺構を守るために草刈りにも取り組む。現在の会員は20~90代の約80人。最近は若い人や女性の入会もある」
ー50年余の活動の功績は。 婆員の地道な遺構調査により、これまで見つかっていなかった古城が新たに100カ所以上発見された。中には文化財保護法上の埋蔵又化財包蔵地に登録されたケースもある。研究成果をまとめた冊子『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成』の中部版と西部版を発刊し、歩みを広く伝え、記録に残した」
ー県内の古城の特徴は何か。 「もともと遠江・駿河・伊豆に分かれていたため、戦国時代には今川、武田、北条、徳川など、さまざまな戦国大名の勢力が代わる代わる入ってきた。県内には大小含めて少なくとも800カ所以上の古城があるとみられる。諸大名の特徴が残る城跡を見学できるのが魅力」
ー今後の目標を。
「会としては、冊子東部版の2030年発刊を目指している。個人としては、定年退職したらこれまで以上に城館跡を見て回りたい。土塁や堀の跡から、天守や石垣のない『土の城』の往時の姿を想像するのが楽しい」
(教育文化部・鈴木美晴)
【静新令和6年1月30日(火)この人】
望月保宏(もちつきやすひろ)さん(三島市)
県内に残る城や砦(とりで)跡の構造や歴史的役割を研究する1972年発足の団体「静岡古城研究会」を束ねる。新型コロナ禍の影響により本米より1年遅れ、本年度に50周年記念事業を展開した。県立沼津工高校長。静岡市清水区出身。60歳。
―どのような会か。
「戦に備えた防御施設を有した城や屋敷跡を研究している。鎌倉から戦国時代のものが多い。城館があったとされる場所に月に数回ほど出向いて遺構を調べるほか、一般向けに古城見学会や山城セミナーを毎年開いている。地主の依頼があれば、古城の遺構を守るために草刈りにも取り組む。現在の会員は20~90代の約80人。最近は若い人や女性の入会もある」
ー50年余の活動の功績は。 婆員の地道な遺構調査により、これまで見つかっていなかった古城が新たに100カ所以上発見された。中には文化財保護法上の埋蔵又化財包蔵地に登録されたケースもある。研究成果をまとめた冊子『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成』の中部版と西部版を発刊し、歩みを広く伝え、記録に残した」
ー県内の古城の特徴は何か。 「もともと遠江・駿河・伊豆に分かれていたため、戦国時代には今川、武田、北条、徳川など、さまざまな戦国大名の勢力が代わる代わる入ってきた。県内には大小含めて少なくとも800カ所以上の古城があるとみられる。諸大名の特徴が残る城跡を見学できるのが魅力」
ー今後の目標を。
「会としては、冊子東部版の2030年発刊を目指している。個人としては、定年退職したらこれまで以上に城館跡を見て回りたい。土塁や堀の跡から、天守や石垣のない『土の城』の往時の姿を想像するのが楽しい」
(教育文化部・鈴木美晴)
【静新令和6年1月30日(火)この人】
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2023年12月21日
訃報 市川厚氏
市川厚氏(いちかわ・あつし)
=石川建材工業相談役、元沼津商工会議所会頭)18日、肺炎のため沼津市内の病院で死去、89歳。沼津市出身。自宅は沼津市吉田町30の3。通夜は22日午後6時から、葬儀は23日午前10時半から、沼津市大岡2170のlの大岡平安典礼会館で。喪主は妻由喜子(ゆきこ)さん。
1990年から2006年まで石川建材工業社長、10年から16年まで沼津商工会議所会頭を務めた。沼津駅の高架化を実現する市民の会の会長を担った。
【静新令和5年12月20日(水)訃報】
=石川建材工業相談役、元沼津商工会議所会頭)18日、肺炎のため沼津市内の病院で死去、89歳。沼津市出身。自宅は沼津市吉田町30の3。通夜は22日午後6時から、葬儀は23日午前10時半から、沼津市大岡2170のlの大岡平安典礼会館で。喪主は妻由喜子(ゆきこ)さん。
1990年から2006年まで石川建材工業社長、10年から16年まで沼津商工会議所会頭を務めた。沼津駅の高架化を実現する市民の会の会長を担った。
【静新令和5年12月20日(水)訃報】
2023年12月02日
2023年09月09日
「昭和すぎる」喫茶店の店主 藤原美恵子(ふじわらみえこ)さん (沼津市)
「昭和すぎる」喫茶店の店主
藤原美恵子(ふじわらみえこ)さん (沼津市)
父親が開業した沼津新仲見世商店街の喫茶店「ケルン」(沼津市大手町)を1人で切り盛りする。半世紀以上趣が変わらない店は過ぎた時代を懐かしむ中高年に加え、古さに新鮮さを感じる若者を引き付ける。85歳。
ーこれまでの歩みは。
「高校を卒業して洋裁学校に1年間通った後、父の手伝いを始めてからずっと働いている。当時は日付が変わる時間まで営業し、3交代勤務だった。1990年に父が他界し、夫と共に店の2階に移り住んだ。5年ほど前から1人で営業している」
ーこだわりは。
「冷凍食品は一切使わず全て手作り。見た目はシンプルで家庭的な味にしている。愛を込めているからおいしい。お客さんから値上げしろと雷われ、数年前に全メニュー50円値上げした。おかず4品のサービスランチは750円、クリームソーダは450円。1日2度来る常連さんや年金暮らしのお客さんを考えるともう値上げできない」
ー評判の受け止めは。 「昭和の人間なのでうれしい。ぼろぼろだから直そうとしたこともあるが、雰囲気を変えないでと言われてそのままにした。10歳若かったら直したかもしれない。今は私もこの雰囲気が好き。コロナ禍前は若者がたくさん来て驚いた。人形を持ったラブライブ!ファンも訪れる」
ー今後は。
「いつまで続けられるか分からないが、これからも形を変えずに営業したい。お客さんはいい人ばかり。会話して元気になり長生きできている。特に常連さんは家族みたいなもの。水やおしぼりを配り、食器を片付け、買い物に付いてきてくれる人もいる。お客さんが好きなことをして、ゆっくりくつろげる店であり続けたい」
(東部総局・矢嶋宏行)
【静新令和5年9月9日(土)この人】
藤原美恵子(ふじわらみえこ)さん (沼津市)
父親が開業した沼津新仲見世商店街の喫茶店「ケルン」(沼津市大手町)を1人で切り盛りする。半世紀以上趣が変わらない店は過ぎた時代を懐かしむ中高年に加え、古さに新鮮さを感じる若者を引き付ける。85歳。
ーこれまでの歩みは。
「高校を卒業して洋裁学校に1年間通った後、父の手伝いを始めてからずっと働いている。当時は日付が変わる時間まで営業し、3交代勤務だった。1990年に父が他界し、夫と共に店の2階に移り住んだ。5年ほど前から1人で営業している」
ーこだわりは。
「冷凍食品は一切使わず全て手作り。見た目はシンプルで家庭的な味にしている。愛を込めているからおいしい。お客さんから値上げしろと雷われ、数年前に全メニュー50円値上げした。おかず4品のサービスランチは750円、クリームソーダは450円。1日2度来る常連さんや年金暮らしのお客さんを考えるともう値上げできない」
ー評判の受け止めは。 「昭和の人間なのでうれしい。ぼろぼろだから直そうとしたこともあるが、雰囲気を変えないでと言われてそのままにした。10歳若かったら直したかもしれない。今は私もこの雰囲気が好き。コロナ禍前は若者がたくさん来て驚いた。人形を持ったラブライブ!ファンも訪れる」
ー今後は。
「いつまで続けられるか分からないが、これからも形を変えずに営業したい。お客さんはいい人ばかり。会話して元気になり長生きできている。特に常連さんは家族みたいなもの。水やおしぼりを配り、食器を片付け、買い物に付いてきてくれる人もいる。お客さんが好きなことをして、ゆっくりくつろげる店であり続けたい」
(東部総局・矢嶋宏行)
【静新令和5年9月9日(土)この人】
2023年09月06日
福原義春さん死去 92歳 元資生堂社長・会長
福原義春さん死去 92歳
元資生堂社長・会長
国内化粧品トップ資生堂の社長、会長を歴任し、芸術文化活動を支援する文化人経營者としても知られた同社名誉会長の福原義春(ふくはら・よしはる)さんが8月30日午後2時0分、老衰のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。
資生堂が5日発表した。創業者福原有信氏の孫で、慶応大卒業後の1953年に資生堂に入社。取締役外国部長などを経て87年に社長に就任した。化粧品の値崩れ要因となっていた過剰な流通在庫を大幅に圧縮する経営改革を断行。社員公募による経営改革室の設置や、社員が働きやすい制度の導入といった先進的な取り組みも進めた。
中国に合弁の化粧品会社を設立するなど海外での販売拡大を推進し、資生堂を世界的な企業に成長させる基盤を築いた。同社が小売店に対して定価販売を求めたことが独禁法違反に当たると公正取引委員会に指摘された際には、勧告の受け入れを決断。化粧品業界で定価廃止の動きが広がり、消費者が安価に入手できるきっかけとなった。
97年に会長となり、2001年に名誉会長に退いた。東京商工会議所副会頭や企業メセナ協議会会長、東京都写真美術館長など多くの公職を務めた。著名な文化人として講演や執筆も積極的に手がけ、洋ラン栽培や写頁撮影など趣味も多彩だった。
経営者と同時に文化人
評伝 フランスのメディアに個人財産がどれほどあるかを尋ねられた際、こう切り返した。
「唯一の財産はエスプリ(精神)」。物質的な富とは異なる自らの知性、心情こそが蓄えだと表現した。8月30日に死去した資生堂の元社長福原義春さんは、家業を世界的企業に育て上げた経営者であると同時に、一流の文化人、評論家でもあった。
幼少の頃は植物学者か遺伝学者になりたかった。趣味の写真も書籍の表紙を飾るほどの腕前だったが、創業者の孫として生まれた福原さんに「職莱選択の自由はなかった」。慶応大で経済学を学び、大学新卒の定期採用1期生として家業である資生堂に入社した。
入社後は国内で総合化粧品ブランドの商品企画や宣伝に携わり、大規模な広告展開を通じて販売拡大につなげる経験を積んだ。経営難だった米子会社再建に奔走し、世界展開の礎となったフランスや中国進出の足掛かりもつくった。
社長就任は1987年。当時の大野良雄社長が急死し、56歳でかじ取りを任された。記者会見で「突然大波が来て、一人だけ岸に打ち上げられたような気がする」と不安な心情を吐露したが、いずれ資生堂のトップを継ぐことは避けがたい運命だった。
不良在庫の圧縮や経営改革室の設置など合理化を進め、経営者として手腕を発揮したが、福原さんの人間性がうかがえる象徴的な取り組みは「さん付け活動」だ。上司を役職名で呼ぶ慣習を見直し、上下関係に縛られない企業風土を育んだ。育児休業の推進をはじめ、女性の働きやすさに目配りを欠かさなかった。当時を知る社員が思い起こすのは、硬直した社内制度を改めようと尽力した変革者としての姿だ。
他方、企業による文化支援にも熱心に取り組んだ。ヒト、モノ、カネのほか、企業又化を重要な経営の要素と捉え、芸術振興に心血を注いだ。仕事で接した社員には直筆の手紙を出すなど、こまやかな心の持ち主だった。洋ラン栽培を好み、2001年に名誉会長に退いた後は著述や講演で精力的に動き回った。
【静新令和5年9月6日(水)朝刊】
元資生堂社長・会長
国内化粧品トップ資生堂の社長、会長を歴任し、芸術文化活動を支援する文化人経營者としても知られた同社名誉会長の福原義春(ふくはら・よしはる)さんが8月30日午後2時0分、老衰のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。
資生堂が5日発表した。創業者福原有信氏の孫で、慶応大卒業後の1953年に資生堂に入社。取締役外国部長などを経て87年に社長に就任した。化粧品の値崩れ要因となっていた過剰な流通在庫を大幅に圧縮する経営改革を断行。社員公募による経営改革室の設置や、社員が働きやすい制度の導入といった先進的な取り組みも進めた。
中国に合弁の化粧品会社を設立するなど海外での販売拡大を推進し、資生堂を世界的な企業に成長させる基盤を築いた。同社が小売店に対して定価販売を求めたことが独禁法違反に当たると公正取引委員会に指摘された際には、勧告の受け入れを決断。化粧品業界で定価廃止の動きが広がり、消費者が安価に入手できるきっかけとなった。
97年に会長となり、2001年に名誉会長に退いた。東京商工会議所副会頭や企業メセナ協議会会長、東京都写真美術館長など多くの公職を務めた。著名な文化人として講演や執筆も積極的に手がけ、洋ラン栽培や写頁撮影など趣味も多彩だった。
経営者と同時に文化人
評伝 フランスのメディアに個人財産がどれほどあるかを尋ねられた際、こう切り返した。
「唯一の財産はエスプリ(精神)」。物質的な富とは異なる自らの知性、心情こそが蓄えだと表現した。8月30日に死去した資生堂の元社長福原義春さんは、家業を世界的企業に育て上げた経営者であると同時に、一流の文化人、評論家でもあった。
幼少の頃は植物学者か遺伝学者になりたかった。趣味の写真も書籍の表紙を飾るほどの腕前だったが、創業者の孫として生まれた福原さんに「職莱選択の自由はなかった」。慶応大で経済学を学び、大学新卒の定期採用1期生として家業である資生堂に入社した。
入社後は国内で総合化粧品ブランドの商品企画や宣伝に携わり、大規模な広告展開を通じて販売拡大につなげる経験を積んだ。経営難だった米子会社再建に奔走し、世界展開の礎となったフランスや中国進出の足掛かりもつくった。
社長就任は1987年。当時の大野良雄社長が急死し、56歳でかじ取りを任された。記者会見で「突然大波が来て、一人だけ岸に打ち上げられたような気がする」と不安な心情を吐露したが、いずれ資生堂のトップを継ぐことは避けがたい運命だった。
不良在庫の圧縮や経営改革室の設置など合理化を進め、経営者として手腕を発揮したが、福原さんの人間性がうかがえる象徴的な取り組みは「さん付け活動」だ。上司を役職名で呼ぶ慣習を見直し、上下関係に縛られない企業風土を育んだ。育児休業の推進をはじめ、女性の働きやすさに目配りを欠かさなかった。当時を知る社員が思い起こすのは、硬直した社内制度を改めようと尽力した変革者としての姿だ。
他方、企業による文化支援にも熱心に取り組んだ。ヒト、モノ、カネのほか、企業又化を重要な経営の要素と捉え、芸術振興に心血を注いだ。仕事で接した社員には直筆の手紙を出すなど、こまやかな心の持ち主だった。洋ラン栽培を好み、2001年に名誉会長に退いた後は著述や講演で精力的に動き回った。
【静新令和5年9月6日(水)朝刊】
2023年06月22日
牛尾治朗さん死去 ウシオ電滊創業社元同友会代表幹事92歳
牛尾治朗さん死去
ウシオ電滊創業社元同友会代表幹事92歳
元経済同友会代表幹事でウシオ電機創業者の牛尾治朗(うしお・じろう)さんが13日午前2時55分、誤嚥(こえん)性肺炎のため死去した。92歳。兵庫県出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行った。後日お別れの会を行う予定。
1953年に東京大法学部を卒業し、東京銀行(現三菱UFJ銀行)入行。64年にウシオ電機を設立して社長、69年には日本青年会議所会頭に就任するなど、若手財界人のホープとして注目された。政府税制調査会などで財界きっての理論家として活躍した。
リクルート事件で未公開株譲り受けの責任を取り、88年に経済同友会の副代表幹事を辞任、財界活動から身を引いた時期もあったが、95年から99年は経済同友会の代表幹事を務め、規制緩和による民間主導の経済への転換を主張した。
2000年にはKDDとDDIなどが合併して発足したKDDIの会長に就任。当時の小泉純一郎首相のブレーンとして、政府の経済財政諮問会議で民間議員を務めた。故安倍晋三元首相とも親交が深かった。
03年に社会経済生産性本部(現・日本生産性本部)の会長に、06年にはその後民営化した日本郵政の取締役に就任した。東日本大震災後には当時、国際協力機構(JICA)理事長だった故緒方貞子さんらとともに経済界、労働界などを横断する提言組織「日本アカデメイア」を設立して危機克服を訴えた。
半世紀以上にわたって経営をけん引したウシオ電機の会長を20年5月に退き、同9月には取締役を退任した。
同友会の新浪剛史代表幹事は21日「生涯をかけて改革に果敢に挑戦し続け、日本経済の発展に貢献された」と哀悼するコメントを発表した。日本経済がバブル崩壊後の不良債権問題とグローバル化に直面して大変革を迫られた時代に、民間活力を引き出す構造改革を強力に後押ししたと功績を振り返った。
傍流ゆえに姿勢貫く
牛尾治朗さん 土光臨調、小泉改革
評伝 13日死去した牛尾治朗さんは、半世紀を超えて政財界を結ぶ「回廊」の役割を果たした。若手の頃から三木武夫、大平正芳ら自民党実力者を囲む勉強会にいくつも参加してきた。
当時のことを聞くと「若い頃から哲学が好きで生意気だった。青くさいのが好きな政治家がいたんだよ」と、はにかむような笑顔を見せた。
東京大の学生時代から、陽明学者の安岡正篤に師事する一方で、サルトルを読みこなす。米西海岸に留学し、新興産業の力強さを知り、市場主義に目をひらかされた。
日本興業銀行(現みずほ銀行)頭取だった中山素平氏に誘われ、経済同友会を舞台に活動した。重厚長大の大企業トップが支配する財界を「老害」と批判した度胸は、並大抵ではなかった。
中堅企業の経営者だから財界では肩身が狭かったはずだが、「傍流」「異端」だったからこそ、長いものに巻かれることなく、改革志向を貫くことができたのだろう。
土光敏夫氏が会長だった第2次臨時行政調査会では、改革に向けた議論を後退させないため「暴れ馬」の役割を担った。「全体をまとめる責任を負った土光さんが、僕には自由に発言させてくれた」という。
牛尾さんが真価を発揮したのは小泉純一郎首相の時代だ。改革志向の小泉氏と波長が合ったのだろう。市場重視の政策や規制緩和を支持し、政権の人事なども水面下で相談を受けた。学者から政界入りした竹中平蔵氏の後ろ盾にもなった。
安倍晋三氏とは縁戚関係にあり、最初に首相になった時には、財界人や経済学者を紹介することも多かった。しかし2012年の自民党総裁選に安倍氏が出馬した時は、自重を求める側に回り、第2次政権では、やや関係が遠のいたようだ。
政財界の指導者を育てるのにも熱心だった。12年に亡くなった、りそなホールディングス会長の細谷英二氏への信頼は厚かった。政財官を集めた改革志向のフォーラムを二人三脚で準備し、現在の「令和臨調」につながる流れを生んだ。
晩年は表舞台に姿を見せることはなくなった。それでも安倍政権で規制や農政の改革に関わった金丸恭文フユーチャー会長兼社長らが周囲に集った。
財界主流と一線を画した牛尾さんの改革の歩みは、ベンチャー出身の経営者らを引きつけ、最後まで色あせることはなかった。
【静新令和5年6月22日(木)朝刊】
ウシオ電滊創業社元同友会代表幹事92歳
元経済同友会代表幹事でウシオ電機創業者の牛尾治朗(うしお・じろう)さんが13日午前2時55分、誤嚥(こえん)性肺炎のため死去した。92歳。兵庫県出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行った。後日お別れの会を行う予定。
1953年に東京大法学部を卒業し、東京銀行(現三菱UFJ銀行)入行。64年にウシオ電機を設立して社長、69年には日本青年会議所会頭に就任するなど、若手財界人のホープとして注目された。政府税制調査会などで財界きっての理論家として活躍した。
リクルート事件で未公開株譲り受けの責任を取り、88年に経済同友会の副代表幹事を辞任、財界活動から身を引いた時期もあったが、95年から99年は経済同友会の代表幹事を務め、規制緩和による民間主導の経済への転換を主張した。
2000年にはKDDとDDIなどが合併して発足したKDDIの会長に就任。当時の小泉純一郎首相のブレーンとして、政府の経済財政諮問会議で民間議員を務めた。故安倍晋三元首相とも親交が深かった。
03年に社会経済生産性本部(現・日本生産性本部)の会長に、06年にはその後民営化した日本郵政の取締役に就任した。東日本大震災後には当時、国際協力機構(JICA)理事長だった故緒方貞子さんらとともに経済界、労働界などを横断する提言組織「日本アカデメイア」を設立して危機克服を訴えた。
半世紀以上にわたって経営をけん引したウシオ電機の会長を20年5月に退き、同9月には取締役を退任した。
同友会の新浪剛史代表幹事は21日「生涯をかけて改革に果敢に挑戦し続け、日本経済の発展に貢献された」と哀悼するコメントを発表した。日本経済がバブル崩壊後の不良債権問題とグローバル化に直面して大変革を迫られた時代に、民間活力を引き出す構造改革を強力に後押ししたと功績を振り返った。
傍流ゆえに姿勢貫く
牛尾治朗さん 土光臨調、小泉改革
評伝 13日死去した牛尾治朗さんは、半世紀を超えて政財界を結ぶ「回廊」の役割を果たした。若手の頃から三木武夫、大平正芳ら自民党実力者を囲む勉強会にいくつも参加してきた。
当時のことを聞くと「若い頃から哲学が好きで生意気だった。青くさいのが好きな政治家がいたんだよ」と、はにかむような笑顔を見せた。
東京大の学生時代から、陽明学者の安岡正篤に師事する一方で、サルトルを読みこなす。米西海岸に留学し、新興産業の力強さを知り、市場主義に目をひらかされた。
日本興業銀行(現みずほ銀行)頭取だった中山素平氏に誘われ、経済同友会を舞台に活動した。重厚長大の大企業トップが支配する財界を「老害」と批判した度胸は、並大抵ではなかった。
中堅企業の経営者だから財界では肩身が狭かったはずだが、「傍流」「異端」だったからこそ、長いものに巻かれることなく、改革志向を貫くことができたのだろう。
土光敏夫氏が会長だった第2次臨時行政調査会では、改革に向けた議論を後退させないため「暴れ馬」の役割を担った。「全体をまとめる責任を負った土光さんが、僕には自由に発言させてくれた」という。
牛尾さんが真価を発揮したのは小泉純一郎首相の時代だ。改革志向の小泉氏と波長が合ったのだろう。市場重視の政策や規制緩和を支持し、政権の人事なども水面下で相談を受けた。学者から政界入りした竹中平蔵氏の後ろ盾にもなった。
安倍晋三氏とは縁戚関係にあり、最初に首相になった時には、財界人や経済学者を紹介することも多かった。しかし2012年の自民党総裁選に安倍氏が出馬した時は、自重を求める側に回り、第2次政権では、やや関係が遠のいたようだ。
政財界の指導者を育てるのにも熱心だった。12年に亡くなった、りそなホールディングス会長の細谷英二氏への信頼は厚かった。政財官を集めた改革志向のフォーラムを二人三脚で準備し、現在の「令和臨調」につながる流れを生んだ。
晩年は表舞台に姿を見せることはなくなった。それでも安倍政権で規制や農政の改革に関わった金丸恭文フユーチャー会長兼社長らが周囲に集った。
財界主流と一線を画した牛尾さんの改革の歩みは、ベンチャー出身の経営者らを引きつけ、最後まで色あせることはなかった。
【静新令和5年6月22日(木)朝刊】
2023年06月12日
訃報 青木幹雄氏
訃報 青木幹雄氏
内閣官房長官や自民党の参院議員会長などを務め、「参院のドン」とも呼ばれた青木幹雄氏が亡くなりました。89歳でした。
関係者によりますと、青木幹雄元官房長官がきのう亡くなりました。89歳でした。
青木氏は、竹下登元総理の秘書を務めた後、1986年の参議院選挙で初当選。1999年に小渕内閣で初入閣し、官房長官に就任しました。
翌2000年に当時の小渕総理が緊急入院し意識不明になった際には、首相臨時代理として内閣総辞職を判断しました。
その後も自民党の参議院幹事長や参院議員会長など要職を歴任し、小泉政権時代には小泉元総理を牽制しながらも支え続けたことで、参院自民党の人事・運営を掌握。「参院のドン」と呼ばれました。
2010年に政界を引退しましたが、その後も自民党内に大きな影響力を与えた政治家の一人です。(TBSWEBニュース)
内閣官房長官や自民党の参院議員会長などを務め、「参院のドン」とも呼ばれた青木幹雄氏が亡くなりました。89歳でした。
関係者によりますと、青木幹雄元官房長官がきのう亡くなりました。89歳でした。
青木氏は、竹下登元総理の秘書を務めた後、1986年の参議院選挙で初当選。1999年に小渕内閣で初入閣し、官房長官に就任しました。
翌2000年に当時の小渕総理が緊急入院し意識不明になった際には、首相臨時代理として内閣総辞職を判断しました。
その後も自民党の参議院幹事長や参院議員会長など要職を歴任し、小泉政権時代には小泉元総理を牽制しながらも支え続けたことで、参院自民党の人事・運営を掌握。「参院のドン」と呼ばれました。
2010年に政界を引退しましたが、その後も自民党内に大きな影響力を与えた政治家の一人です。(TBSWEBニュース)
2023年05月20日
植松靖博氏逝去
植松靖博氏(うえまつ・やすひろ=植松本家十三世当主)は18日、病気のため療養先で死去した。84歳。自宅は原。
通夜が21日午後6時から、葬儀・告別式は22日午前11時半から、いずれも天翔苑原で行われる。喪主は妻の須賀子さん。
通夜、葬儀は家族葬で行うが、一般の弔問を21日午後4時半から5時半まで受け付ける。
植松本家の「帯笑園」は往時、東海の名園と言われ、2011年9月、国登録記念物(名勝地関係)として文化財登録され、その後、市が取得。一部を整備して19年4月に改めて開園されたが、帯笑園保存会が中心となった保存と顕彰活動に植松氏も顧問として参加した。
昨年、植松氏が帯笑園の古文書を整理中、三代目杵屋正次郎が同園を題材に作ったと記された長唄「松の翁」の直筆長唄本を発見。富士市の庭園が題材だと伝えられてきた長唄界の定説を翻す歴史的発見となった。
さらに、杵屋作十郎による1863(文久3)年作の筆書きの長唄本『駿河土産」を発見して復曲を依頼。今年1月に開かれたNPO法人レザミ・デ・ザールの設立記念公演で上演され、160年の時を超えて現代に蘇った。
【沼朝令和5年5月20日(土)号】
通夜が21日午後6時から、葬儀・告別式は22日午前11時半から、いずれも天翔苑原で行われる。喪主は妻の須賀子さん。
通夜、葬儀は家族葬で行うが、一般の弔問を21日午後4時半から5時半まで受け付ける。
植松本家の「帯笑園」は往時、東海の名園と言われ、2011年9月、国登録記念物(名勝地関係)として文化財登録され、その後、市が取得。一部を整備して19年4月に改めて開園されたが、帯笑園保存会が中心となった保存と顕彰活動に植松氏も顧問として参加した。
昨年、植松氏が帯笑園の古文書を整理中、三代目杵屋正次郎が同園を題材に作ったと記された長唄「松の翁」の直筆長唄本を発見。富士市の庭園が題材だと伝えられてきた長唄界の定説を翻す歴史的発見となった。
さらに、杵屋作十郎による1863(文久3)年作の筆書きの長唄本『駿河土産」を発見して復曲を依頼。今年1月に開かれたNPO法人レザミ・デ・ザールの設立記念公演で上演され、160年の時を超えて現代に蘇った。
【沼朝令和5年5月20日(土)号】
2023年05月10日
田上博氏(たがみ・ひろし)=元市議会議長)は4月29日、老衰のため死去した。
田上博氏(たがみ・ひろし)=元市議会議長)は4月29日、老衰のため死去した。97歳。自宅は中沢田。葬儀・告別式は親族で行った。
1925年(大正14)、幸町に生まれ、現在の二小から静岡工を経て山梨工専(現・山梨大学工学部)を卒業。二中、精華高(現・沼津中央高)、沼工で数学の教諭を務めた。
家業を継ぐために退職した後、29歳で市議に当選。2007年の市議選で当選したのを最後に引退。この間、市長選に出馬する(落選)など議席を離れる期間もあったが、80代半ばまで通算13期にわたって市議を務め、議長職に3回就いた。
12期目の在職中、全国に先駆けて一般会計、特別会計2つの予算決算委員会の常任委員会化の条例制定に尽力し実現させるなど議会改革に積極的に取り組んだのをはじめ、市政や市議会に関する分野の勉強量は人一倍。分からないことがあれば県庁に出向いて講義を受けるほどの姿勢を基礎に委員会審査では当局の答弁を詰まらせることもしばしばで、沼津市議会の一時代を築いた-人。【沼朝令和5年5月10日(水)号】
1925年(大正14)、幸町に生まれ、現在の二小から静岡工を経て山梨工専(現・山梨大学工学部)を卒業。二中、精華高(現・沼津中央高)、沼工で数学の教諭を務めた。
家業を継ぐために退職した後、29歳で市議に当選。2007年の市議選で当選したのを最後に引退。この間、市長選に出馬する(落選)など議席を離れる期間もあったが、80代半ばまで通算13期にわたって市議を務め、議長職に3回就いた。
12期目の在職中、全国に先駆けて一般会計、特別会計2つの予算決算委員会の常任委員会化の条例制定に尽力し実現させるなど議会改革に積極的に取り組んだのをはじめ、市政や市議会に関する分野の勉強量は人一倍。分からないことがあれば県庁に出向いて講義を受けるほどの姿勢を基礎に委員会審査では当局の答弁を詰まらせることもしばしばで、沼津市議会の一時代を築いた-人。【沼朝令和5年5月10日(水)号】
2023年04月29日
森田紀(もりたおさむ)さん(沼津市) 全国和菓子協会常任理事 旭日双光章(食料品加工業振興功労)
森田紀(もりたおさむ)さん(沼津市)
全国和菓子協会常任理事
旭日双光章(食料品加工業振興功労)
和菓子の普及全力投球
家業を継いで和菓子職人になり、業界に約65年携わっています。「自分にしか作れない菓子を作れ」という師匠の言葉を胸に、食べた人の笑顔を想像しながら作りました。導いてくれた師匠や家族の支えに感謝しています。県和菓子協会の会長も務めています。食物繊維を多く含む和菓子の健康性、おいしさ、美しさを普及することが自分の責務だと思っています。【静新令和5年4月29日(土)朝刊 春の叙勲】
2023年03月09日
県立がんセンター 山口総長 今月末退任 名誉総長へ
県立がんセンター 山口総長 今月末退任 名誉総長へ
県立静岡がんセンター(長泉町)総長の山口建氏 (73)が3月末で総長を退くことが、8日までの関係者への取材で分かった。2002年のセンター開設時に初代総長として就任以来、20年以上にわたって同センターの運営をけん引し、国内屈指のがん医療機関に発展させた。今春を区切りに、後進に道を譲る判断をしたとみられる。
静岡がんセンターは病院、疾病管理センター、研究所など複数の組織で構成し、山口氏は設立構想段階から携わった。総長として各組織を統括し、がん患者診察数は国内トップクラスにある。
後任は同センターの内部登用とみられ、病院長の上坂克彦氏の就任が有力視されている。山口氏は4月以降も名誉総長として後進の育成にあたるとみられる。
山口氏は慶応大医学部卒。乳がん治療や腫瘍マーカー開発を手がけ、国立がんセンター(現国立がん研究センター)の研究所副所長や宮内庁御用掛を歴任した。国のがん対策に関わる要職も担い、18年6月から4年間、政府のがん対策推進協議会の会長も務めた。三重県出身、沼津市在住。
静岡がんセンターは山口氏の指揮で、高度がん治療と併せ、患者、家族の生の声から学ぶ「がんの社会学」を推進。全国に先駆けて開設した「がんよろず相談」には年間1万件以上が寄せられ、国内のがん専門病院のモデルとなっている。県東部に医療健康産業を集積する県の「ファルマバレープロジェクト」の中核的役割も担い、医薬品・医療機器開発、製造における地域貢献も大きい。
【静新令和5年3月9日(木)朝刊】
県立静岡がんセンター(長泉町)総長の山口建氏 (73)が3月末で総長を退くことが、8日までの関係者への取材で分かった。2002年のセンター開設時に初代総長として就任以来、20年以上にわたって同センターの運営をけん引し、国内屈指のがん医療機関に発展させた。今春を区切りに、後進に道を譲る判断をしたとみられる。
静岡がんセンターは病院、疾病管理センター、研究所など複数の組織で構成し、山口氏は設立構想段階から携わった。総長として各組織を統括し、がん患者診察数は国内トップクラスにある。
後任は同センターの内部登用とみられ、病院長の上坂克彦氏の就任が有力視されている。山口氏は4月以降も名誉総長として後進の育成にあたるとみられる。
山口氏は慶応大医学部卒。乳がん治療や腫瘍マーカー開発を手がけ、国立がんセンター(現国立がん研究センター)の研究所副所長や宮内庁御用掛を歴任した。国のがん対策に関わる要職も担い、18年6月から4年間、政府のがん対策推進協議会の会長も務めた。三重県出身、沼津市在住。
静岡がんセンターは山口氏の指揮で、高度がん治療と併せ、患者、家族の生の声から学ぶ「がんの社会学」を推進。全国に先駆けて開設した「がんよろず相談」には年間1万件以上が寄せられ、国内のがん専門病院のモデルとなっている。県東部に医療健康産業を集積する県の「ファルマバレープロジェクト」の中核的役割も担い、医薬品・医療機器開発、製造における地域貢献も大きい。
【静新令和5年3月9日(木)朝刊】
2023年02月09日
2月9日の記事
大本山貫首の任期満了控え
光長寺原井日鳳師が退蔵前の心境
法華宗大本山光長寺第七十九世貫首の原井日鳳師=写真=が5年の任期満了に伴い、今月15日に退蔵する。
光長寺は法華宗四大本山のひとつで、他に鷲山寺(千葉県茂原市)、本能寺(京都市)、本興寺(兵庫県尼崎市)の大本山があり、宗門全体で約500の寺を擁している。
光長寺と聞けば、沼津人にとっては、五カ坊がある大きな寺、というだけでなく、鎮守の森や桜の名所としてなじみ深い。
原井師は現在78歳。青野にある妙泉寺の第33代住職でもある。同寺の次男に生まれ早大でアメリカ海運を研究。大手海運会社に就職し、サラリーマン人生を送るはずだった。ところが先代住職の父親が突然病に伏したことで、教職の道に進む決意の固かった兄と話し合った末、自分で考え、自分で話すことのできる稀有な道を選ぶのもいいのでは」と寺の承継を決意。法華宗興隆学林で修行の後、28歳で住職に。
ところが昭和49年の七タ豪雨で本堂が被害を被り、庫裡が沈下、その再建に奔走することに。若輩の身で寺の役員や檀家の理解を得るのは困難を極めたが、原井家伝来の刀など財産を明らかにし、それを寺の再建に注ぎ込む覚悟を伝え、本堂が上棟式の運びになると、「途端に風向きが変わった」。
「この住職のもとで、できるかも」という機運が高まり、再建に向けた檀家からの浄財も多く寄せられ、55年、本堂の上棟がかなった。
その間も、原井師は自寺や光長寺の古文書をひもとき、史実を詳らかにしていくことに熱中。特に光長寺日法・日朝聖人の研究に没頭した。
平成9年、法華宗事務方トップの宗務総長に就任。菩薩行研究所を設立し、仏教を通して人のために出来ることを探った。部長職も含めると12年にわたって法華宗を総括する立場にあった。
平成29年には大本山光長寺貫首に就くとともに法華宗宗門の管長に就任。仏教が何をしているのかを広く世の中に発信することの重要性を唱え、仏教が世の中に機能しているか?を常に問い続けていた原井師。釈迦の教えを伝え、長い歴史に育まれた寺を護りつつ世間との溝を埋めようと努めてきた。
これまでを振り返る日々を送る中で退蔵前の心境を原井師に尋ねた。
少子化、核家族化だけでなく、さまざまな要因で、信仰心が薄れつつある昨今、寺は今後、社会環境の変化で2割程減る、とも言われている。その要因のひとつに信仰や僧侶の在り方がある、と捉えている。「檀家と共に寺を守るのもひとつだが、世間の人より坊さんの方が遅れている、と感じることも多々ある。たとえ教義が正しいからと言って、これまで通りで良しとしたのでは、本来の仏教のあるべき姿から、どんどん遠のいてしまうのでは。目線を一般の人に揃えて、僧侶という立場に決して胡座(あぐら)をかいていては駄目。世の中が抱えている不条理に仏教がしっかりと立ち合わなければ」「世の中と空回りしているようでは仏教を人のため活用する仲立ちである僧侶として、世の人に尽くすことなどできない」と危機感を募らせる。
コロナ禍に翻弄されつつも「宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年」と「大本山光長寺開創七百五十年」を記念した大法要を厳修した。その都度、縁の下で支えてくれた同寺の総代、世話人、八品講、婦人部組織の妙光会の信徒の協力に深く感謝した。
在任中、祖師堂を始め御廟所の改修と発掘調査など大本尊を護持するための事業が進められた。祖師堂の障壁画は中嶌虎威画伯によって制作され、日法聖人御廟所出土品の自然科学分析調査の報告書をまとめた本も刊行された。
貫首は常に、日本だけでなく世界情勢や地球環境に至るまで気にかけてきた。それらが抱える問題に共通するのは人間の利益優先の欲望だとし、人の心や環境を壊してしまったことを痛感。菩薩行を以て命を大切にする「蘇生」の必要性を説き続けている。
特に環境に関しては「なあなあの共生では、もう間に合わない」とした上で「だからこそ心が蘇る行動を」とキッパリ。原発、戦争、差別などの問題に立ち向かうには煩悩を、人に尽くす力に転換する意識が大切、とした。
在任中、檀信徒の意見も採り入れながら世の中ヘの発信に力を注いできた。「人との交流はうれしいものだった」と振り返り、「人の命を大切にする」という一筋の寂光がひとりひとりに射し込むことを願っている。
句集『蘇生』より
樹上に蝉 叢(くさむら)に虫 世に妄語
絶対の 矛盾を生きる 彼岸道
花に風 時は命と今を生く
蔦の青 修羅のプリズム 透かし見る
秋海棠「蘇生」は未来を紡ぐべし
【沼朝令和5年2月9日(木)号】
光長寺原井日鳳師が退蔵前の心境
法華宗大本山光長寺第七十九世貫首の原井日鳳師=写真=が5年の任期満了に伴い、今月15日に退蔵する。
光長寺は法華宗四大本山のひとつで、他に鷲山寺(千葉県茂原市)、本能寺(京都市)、本興寺(兵庫県尼崎市)の大本山があり、宗門全体で約500の寺を擁している。
光長寺と聞けば、沼津人にとっては、五カ坊がある大きな寺、というだけでなく、鎮守の森や桜の名所としてなじみ深い。
原井師は現在78歳。青野にある妙泉寺の第33代住職でもある。同寺の次男に生まれ早大でアメリカ海運を研究。大手海運会社に就職し、サラリーマン人生を送るはずだった。ところが先代住職の父親が突然病に伏したことで、教職の道に進む決意の固かった兄と話し合った末、自分で考え、自分で話すことのできる稀有な道を選ぶのもいいのでは」と寺の承継を決意。法華宗興隆学林で修行の後、28歳で住職に。
ところが昭和49年の七タ豪雨で本堂が被害を被り、庫裡が沈下、その再建に奔走することに。若輩の身で寺の役員や檀家の理解を得るのは困難を極めたが、原井家伝来の刀など財産を明らかにし、それを寺の再建に注ぎ込む覚悟を伝え、本堂が上棟式の運びになると、「途端に風向きが変わった」。
「この住職のもとで、できるかも」という機運が高まり、再建に向けた檀家からの浄財も多く寄せられ、55年、本堂の上棟がかなった。
その間も、原井師は自寺や光長寺の古文書をひもとき、史実を詳らかにしていくことに熱中。特に光長寺日法・日朝聖人の研究に没頭した。
平成9年、法華宗事務方トップの宗務総長に就任。菩薩行研究所を設立し、仏教を通して人のために出来ることを探った。部長職も含めると12年にわたって法華宗を総括する立場にあった。
平成29年には大本山光長寺貫首に就くとともに法華宗宗門の管長に就任。仏教が何をしているのかを広く世の中に発信することの重要性を唱え、仏教が世の中に機能しているか?を常に問い続けていた原井師。釈迦の教えを伝え、長い歴史に育まれた寺を護りつつ世間との溝を埋めようと努めてきた。
これまでを振り返る日々を送る中で退蔵前の心境を原井師に尋ねた。
少子化、核家族化だけでなく、さまざまな要因で、信仰心が薄れつつある昨今、寺は今後、社会環境の変化で2割程減る、とも言われている。その要因のひとつに信仰や僧侶の在り方がある、と捉えている。「檀家と共に寺を守るのもひとつだが、世間の人より坊さんの方が遅れている、と感じることも多々ある。たとえ教義が正しいからと言って、これまで通りで良しとしたのでは、本来の仏教のあるべき姿から、どんどん遠のいてしまうのでは。目線を一般の人に揃えて、僧侶という立場に決して胡座(あぐら)をかいていては駄目。世の中が抱えている不条理に仏教がしっかりと立ち合わなければ」「世の中と空回りしているようでは仏教を人のため活用する仲立ちである僧侶として、世の人に尽くすことなどできない」と危機感を募らせる。
コロナ禍に翻弄されつつも「宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年」と「大本山光長寺開創七百五十年」を記念した大法要を厳修した。その都度、縁の下で支えてくれた同寺の総代、世話人、八品講、婦人部組織の妙光会の信徒の協力に深く感謝した。
在任中、祖師堂を始め御廟所の改修と発掘調査など大本尊を護持するための事業が進められた。祖師堂の障壁画は中嶌虎威画伯によって制作され、日法聖人御廟所出土品の自然科学分析調査の報告書をまとめた本も刊行された。
貫首は常に、日本だけでなく世界情勢や地球環境に至るまで気にかけてきた。それらが抱える問題に共通するのは人間の利益優先の欲望だとし、人の心や環境を壊してしまったことを痛感。菩薩行を以て命を大切にする「蘇生」の必要性を説き続けている。
特に環境に関しては「なあなあの共生では、もう間に合わない」とした上で「だからこそ心が蘇る行動を」とキッパリ。原発、戦争、差別などの問題に立ち向かうには煩悩を、人に尽くす力に転換する意識が大切、とした。
在任中、檀信徒の意見も採り入れながら世の中ヘの発信に力を注いできた。「人との交流はうれしいものだった」と振り返り、「人の命を大切にする」という一筋の寂光がひとりひとりに射し込むことを願っている。
句集『蘇生』より
樹上に蝉 叢(くさむら)に虫 世に妄語
絶対の 矛盾を生きる 彼岸道
花に風 時は命と今を生く
蔦の青 修羅のプリズム 透かし見る
秋海棠「蘇生」は未来を紡ぐべし
【沼朝令和5年2月9日(木)号】
Posted by パイプ親父 at
06:55
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2022年12月05日
訃報 一杉真城氏
一杉真城氏(ひとすぎ・まさき=ヒトスギ塾前会長、本名三浦真城=みうら・まさき)
1日午後7時52分、急性リンパ性白血病のため長泉町の県立静岡がんセンターで死去、77歳。
旧満州(現中国東北部)生まれ。自宅は沼津市。儀・告別式は近親者で行い、お別れの会を5日午後3時半から同5時半まで、沼津市鳥谷497の光厳寺で開く。喪主は妻和子(かずこ)さん。
1963年、沼津市で学習塾「ヒトスギ塾」の前身となる英数教室を創業。静岡新聞社・静岡放送「サンフロント21懇話会」の運営委員として尽力した。
【静新令和4年12月5日(月)朝刊 訃報蘭】
2022年05月29日
吉沢勇一郎(よしざわゆういちろう)さん(沼津市)
沼津市副市長に就任した
吉沢勇一郎(よしざわゆういちろう)さん(沼津市)
国土交通省出身で、市の重要課題であるJR沼津駅周辺高架化に伴う中心市街地活性化などを担当する。2001年、同省入省。近畿地方整備局都市整備課長、国土政策局地方振興課企画専門官など、主にまちづくり分野に携わった。4月1日から現職。静岡市葵区出身。43歳。
ー鉄道高架化の前提となる貨物ターミナルが着工した。事業や中心市街地活性化への考えは。
「沼津市の中心市街地は、首都圏からのアクセスも良く、潜在力は高い。一方、鉄道で南北が分断され、駅周辺道路は通過交通が多いのが現状。高架化によって、歩行者を中心に回遊性を高めることで、活性化につなげたい。大規模な事業だが、関係者との調整を進めて一歩一歩前に進めたい」
ー地方自治体への出向経験もある。どう生かすか。
「熊本市への出向時は、都市政策部長としてJR熊本駅高架化後の中心市街地再整備に携わった。沼津と同様、熊本も回遊性の向上が課題で、経験が生かせると感じている。熊本地震後の復興事業も経験し、防災対策などでも力になりたい」
ー沼津市の印象は。
「中学から静岡を離れたので久々に富士山が見える場所で生活でき、うれしい。海、山、川と自然豊かで魅力的な資源が多い、狩野川沿いをジョギングしながら実感している。市民の皆さんも、元気で聡明(そうめい)な方が多いと感じている」
ー抱負を。
「来年の市制100周年に向けた重要な時期。次の100年に向け、市に貢献したい。市民とよくコミュニケーションを取り、専門家集団としての市役所のノウハウを市民のために使っていく組織にしたい」
(東部総局・尾藤旭)
【静新令和4年5月28日(土)この人】
吉沢勇一郎(よしざわゆういちろう)さん(沼津市)
国土交通省出身で、市の重要課題であるJR沼津駅周辺高架化に伴う中心市街地活性化などを担当する。2001年、同省入省。近畿地方整備局都市整備課長、国土政策局地方振興課企画専門官など、主にまちづくり分野に携わった。4月1日から現職。静岡市葵区出身。43歳。
ー鉄道高架化の前提となる貨物ターミナルが着工した。事業や中心市街地活性化への考えは。
「沼津市の中心市街地は、首都圏からのアクセスも良く、潜在力は高い。一方、鉄道で南北が分断され、駅周辺道路は通過交通が多いのが現状。高架化によって、歩行者を中心に回遊性を高めることで、活性化につなげたい。大規模な事業だが、関係者との調整を進めて一歩一歩前に進めたい」
ー地方自治体への出向経験もある。どう生かすか。
「熊本市への出向時は、都市政策部長としてJR熊本駅高架化後の中心市街地再整備に携わった。沼津と同様、熊本も回遊性の向上が課題で、経験が生かせると感じている。熊本地震後の復興事業も経験し、防災対策などでも力になりたい」
ー沼津市の印象は。
「中学から静岡を離れたので久々に富士山が見える場所で生活でき、うれしい。海、山、川と自然豊かで魅力的な資源が多い、狩野川沿いをジョギングしながら実感している。市民の皆さんも、元気で聡明(そうめい)な方が多いと感じている」
ー抱負を。
「来年の市制100周年に向けた重要な時期。次の100年に向け、市に貢献したい。市民とよくコミュニケーションを取り、専門家集団としての市役所のノウハウを市民のために使っていく組織にしたい」
(東部総局・尾藤旭)
【静新令和4年5月28日(土)この人】