

林直道さんが99歳で亡くなった。
マルクス主義経済学の権威だが小倉百人一首の研究家でもある。
名古屋にいる頃の思い出を高槻にいる頃に書いた私の昔の記事から一部紹介し林直道さんを思い出すよすがとします。
ちょっと長いです。
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『小倉百人一首』は隠岐へ流され非業の死を遂げた後鳥羽上皇に捧げた歌集だという説をやや長いですが紹介します。
まずこれから
昔テレビムックという番組でこの内容を観て興奮して鳥肌が立ったことがあります。
その時はなかった小倉百人一首のただ一つの組み合わせから真ん中にあるのが後鳥羽院の眠る水無瀬神宮です。
世間で言われているように定家は後鳥羽院を裏切ってなかったというのです。
これを観たときにはこの近くに住んでいました。
この組み合わせを考えたのは資本論の分析の手法を使った経済学者の林直道さんです。
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百人一首とは、_百人の歌人の歌を、一人一首ずつ選んだ撰集で、後の各種百人一首のお手本的存在。__天智天皇から順徳院まで百人の歌人の歌を一首ずつ選び、百枚の色紙に揮毫し,小倉山荘の襖に_張り付けたことから、山荘の名をとって『小倉百人一首』と呼ばれる様になった。__ただ、この『百人一首』は秀歌撰というものの、果たして歌人にしろ、その歌にしろ『古今集』_から『新古今集』の頃までの選び抜かれた代表歌百撰といえるかどうか昔から疑問のあるところ。__しかしその事は定家自身先刻承知の様で「百人一首の中には歌の名人と誇り高い人の_秀逸な歌といわれているものが、ほとんど漏れている。選択の基準は自らの心中にあり、__その事をとやかく言っても、それは意味のない事だろう」といった内容の事を述べている。_裏返せば、この撰集は定家のある特殊な意図の下に編纂されていた、という事が__大阪市立大学の経済学博士 林 直道教授 の発表した著書「百人一首の秘密_驚異の歌織物」の_中で解き明かされている。大変興味あるものなので、百人一首の日に因んで紹介したい; __百人一首の百首の歌を、縦十種・横十種の正方形のます目の中にある特殊な並べ方をすると、上下左右隣り合う歌同士が「合わせ言葉」によってぴったりと一致する。そして、その合わせ言葉を絵に置き換えていくと、そこには秘められた『水無瀬絵図』が現れるという。水無瀬は京都の西南、長岡京の南に位置し都にほど近い景勝の地で、後鳥羽上皇が水無瀬離宮を建てた地でもある。承久の変が挫折し、後鳥羽院が隠岐に流されて水無瀬離宮は荒廃していった。定家は自分を引き立ててくれた恩人としての後鳥羽院に、密かに心をこめて百人一首を選定したのだろうというのである。__承久の乱後の京に和歌の最高権威として君臨した定家は、後鳥羽院が下命した『新古今和歌集』に続く、第九番目の勅撰集撰進を依頼されるが、鎌倉幕府をはばかった前関白・藤原道家の意向で、その勅撰集『新勅撰和歌集』から後鳥羽院の歌など百首強の歌を削除しなくてはならなかった。__その無念の思いを、碁盤目に並べた百首によって浮かび上がってくる水無瀬離宮の絵図に_託したのだろう。定家は全知全能を駆使してこの条件に合う歌百首を集めたらしいのである。__以下参考の長岡京・小倉山荘の水無瀬絵図にポインタを移動するとモノトーンの「合わせ言葉」が浮かび上がり、水無瀬絵図と「合わせ言葉」がどのようになっているのかが、よくわかる。__(水無瀬図会の横十行は大丈夫なのですが、縦は左側の三行が抜けています。まあ、しかし見事に_合わせ言葉になって、各升目が、上下左右に繋がっている事が分かりますね)
新・こんなところにこんなものが!
百人一首の日
http://blogs.yahoo.co.jp/gulliverbros/59548301.html
より
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「あれほど仲が良かった自分からの連絡がない事を、上皇はどのように思っているのだろう」という不安にかられながらも、やはり定家も現在の地位を失いたくはありません。
やがて、怨みを抱いて隠岐に幽閉されている上皇の「生霊」の話や、怪奇現象の話が噂されるようになります(ブログ:7月13日参照)。
そして、ついにある日、定家のもとへ「後鳥羽上皇が亡くなった」というニュースが飛び込んで来るのです。
その話を聞いた定家は、意を決したようにスクッと立ち上がり、なにも言わず山荘にこもったのです。
何週間かして、人前に現れた彼の手には、一首ずつ和歌が書かれた百枚の色紙があった・・・それが、『小倉百人一首』だったというのです。
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ですから、この話でいくと、『小倉百人一首』は秀歌を集めた歌集ではなく、隠岐へ流され非業の死を遂げた後鳥羽上皇に捧げた歌集だったという事になります。
もちろん、これは仮説です。
今日は何の日?徒然日記
2007年5月27日 (日)
百人一首に隠された暗号
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/05/post_55f5.html
私の昔の記事
https://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-35bb.html
更に違うまとめ方をした文章があったので紹介します。
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林さんはマルクス経済学者だ。社会生産物を生産手段生産部門
と消費資料生産部門とに分ける「再生産表」からの連想で、百首
を「景色の歌」54首と「情念の歌」27首に分ける方法を発見した
結果、全貌が明らかになった百人一首とは
①百首はタテ10首、ヨコ10首の方形の枠の中に、上下左右隣り
合う歌同士が何らかの共通語で全部結ばれ、配列されているとい
う「歌織物」の構造を持っている。
②この歌織物は
右から7列目をタテに走る月八景によって二分され、右側6列分
は、合わせ言葉の絵の具の代わりに、山紫水明、美しい日本の四
季の景観が豪華な柄模様になって描かれ、これに対し、左3列は
恋、恨み、嘆きという情念が織り込まれている。
3しかも、この絵は新古今歌壇の故郷、水無瀬の里のリアルな
描写である。
④またこの歌織物の四隅に、四人の主要人物、後鳥羽院、順徳院
式子内親王、さらに定家自身が配置され、3人の「帰って来ぬ人」
に対し、「来ぬ人を待って身も焦がれつつ」と定家が呼びかけると
いう構図になっている。
⑤で、歌織物の右半分には後鳥羽院の「見渡せば山もと霞む水無
瀬川」の歌、左半分には式子内親王の「軒端の梅よわrを忘るな」
の歌が合わせ言葉文字鎖の技法で封じ込まれ、さらに定家の返歌の
体裁で「裏の苫屋の秋の夕暮れ」と「匂ふ軒端の春の夜の月」と下
の句が封じ込まれている。
とまあ、現実、ややこしい。でこの「解読」から何を引き出した
のか?であるが、定家は「紅旗征戎吾事にあらず」、吾事とは歌の
道、と承久の変で敗れて流された後鳥羽院、順徳院に背を向けた。
しかし鎌倉=紅旗征戎は定家の吾事に介入し、新勅撰和歌集から
後鳥羽院、順徳院らの秀句を削除するよう要求してきた。そこで
定家は幕府への反逆者の二人の帝の政治的恨み歌で百人一首の掉尾
を飾ることで自己の主体性を守り抜いた、となる。
百人一首は反幕府の非合法の政治文書、「青白きインテリの定家
のせめてもの抵抗精神の現れ」となるという。
https://tsubuyaki3578.com/article/493897978.html
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以上です。
林直道さんのご冥福をお祈りします。
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