なんとかの森となんとかワンダーランド

私は超自我の活動範囲が狭いので、「この現実は現実ではないかも知れない」という、観念の流行り病が、人にどれくらい衝撃を与えるのか、想像するのが難しい。

ふつうに書くと「ぼんやり生きているしもうオッサンなので、これは現実じゃないかも知れないんだよ! と言われても、ふーん、としか思えなくなっている」。

思考実験としてならもちろん考えることはある(今でも)けれど、「マトリックス」を見て、そうかこの世界は現実じゃないんだ、と納得したのちおもむろに、黒いコートとサングラスで銃を乱射しに行くという発想は、よくわからない。

そういった流行り病は、若い人がよくかかるものなのかも、と考えてもみた。そうかな……よくわからない……若い頃から私はぼんやりしてたから、言われても「ふーん」としか言わないかもしれない。

ひょっとして、ビデオゲーム経験があまりない人が、「マトリックス」みたいなものに衝撃をうけてしまうのかもしれないな、と、思った。だって、ゲームでふつうに感じることだから、そういうのって。

ゲーム内時間と現実の時間を往復するだけではなく、ゲーム内時間でキャラクターが生活を営むような設定が設けられると、自分が「キャラクターとして思考している」のか、「プレイヤーとして思考している」のか、わからなくなることが、ときどきある。

1年以上放置していた「おいでよ どうぶつの森」を起動する。家の周りは草茫々。市松模様に並べた花も枯れてしまった。昔いたはずの村のともだちも変わってしまった、ような気がする(ともだちに関しては記憶が確かでない…)。

ところで、この草は<いつ>生えたのだろう?

そうひとりごちて、草を抜く。

私が放置したせいで生えてきたことになっているこの草は、実際には、私がこのゲームの世界を再開した瞬間、生まれたものだ。

しかし、ゲームの中ではそのあいだ、私はこの村にずっといたことになっているし、村の中でも、時間が経っていたことになっている。プレイヤーの視点からだと、「ことになっている」ことは明かだが、キャラクターの視点だと「あぁ、放置してたら草ぼうぼう……」と、あたかもそこに時間があったかのように、記憶が再開される。

村そのものも、プレイヤーがゲームをはじめるときに生成されたはず、なのだが、はじめから村がそこにあったものとして、ゲームは開始される。

村に向かう雨降りのタクシーの中で「お客さん、どうやってここに来たか覚えてます?」と、その世界が現実かどうかを、問われることはない。

「ぶつ森」でも「GTA」でも構わないのだけど、こういったゲームの本質は、仮想世界のルールにのっとって、別の時間を生きるところにあると、私は思っている。プレイヤーとして遊ぶのではなく、文字通り「生きる」のだ。その目眩を感じられないのなら、面白くなろうはずがない。

最初から、プレイヤー同士がコミュニケーションをとることを目的に、現実の話題にマップされるよう設計されているソーシャルゲームとやらに、私が興味がわかないのはそのためだ。

え? ソーシャルゲームでゲームは死んだ? はぁそうですか。死んだ、っていうかそもそも、そういう人の頭の中では、世界は生まれてすらいないんじゃないの。

「ぶつ森」における死とは何だろう。

プレイヤーが、やめようと思ったときが、キャラクターの死、だろうか。しかし、ただプレイしないままでは、世界は継続(セーブデータ)として、次のプレイを待ちつづける。

私が「ぶつ森」をやっていたころ、プレイをきれいにやめるのに「同じように飽きた頃合いの人のカートリッジに、キャラクターを引っ越しして終わる」ことを考えていた(実際には、そんなことはせず、中古に売ってしまったが……)。

彼らはその世界の中で永遠に生き続けましたとさ、ということにしてしまえば、私は彼らのことを忘れて、もとの時間を生きることができるようになる。

「引っ越し」機能とは「埋葬」機能だったのだ。