携帯電話小説は小説じゃなくてゲームって考えると混乱しない

瀬戸内寂聴さんがケータイ小説を書いていたことと「あたし彼女」というケータイ小説の独特すぎる文体が小説読み(って何?)としての自分の癇に障って仕方がない件と、そのどちらに反応していいか迷う…っていうのは嘘で僕はどっちもどうでもいいです、もちろん。瀬戸内さんには興味ありますけど。

ところでケータイ小説と呼ばれているものは、メディアの形態として見ると、好きなところから読めないし改頁が鬱陶しいしで、ほとんど「ノベルゲーム」と変わらない。「あたし彼女」のプレゼンの仕方を少し変えて、PCでプレイできるようにしたら、プレイヤーは「トモ*1」という章があるとは認識せず、「トモシナリオに突入した」と解釈するでしょう。

いやだから何だってことはないですけど、ケータイ小説を小説として真面目に論じようとすると、アドベンチャーゲームのシナリオみたいなものも含めて小説として読まないといけないので大変じゃないかと思ったのでした。

追記

もちろんここでいうゲームとは「ゲームとはプレイヤーの意志決定が存在するものことを言うのであって…」よろしく、オールドファッションな定義で規定されるものではなくって、もっと緩い。
「本格ミステリは与えられた情報を元に論理的に導けるフェアな…」式のミステリの定義が、(自分の中では)麻耶雄嵩によって破壊されたのと似たような緩さ。

追記2

「あたし彼女」の文体に不満がある人は、小説の最後に「この手記を出版するにあたって」みたいなきちんとしたオチの文章を一つ勝手に自分で書いて、主人公が実は知能が低下する病気にかかっていただとか、手足の動かない難病で携帯電話のボタンが押せずに特殊な器具を使って書いたから言葉の選択に偏りがあるとか、実は主人公は途中で死んでいて死後母親が代筆していてそのことはよく読めばわかるとか、手前勝手なオチを妄想して、「このオチには気づかなかった」とか感動してあげればいいじゃない。

*1:「あたし彼女」の男性キャラクター