えっけんさんのエントリを二つ読んだ

たまたま続けて読んだのでメモじゃなくて感想として書く。

ネガティブコメント

死ね死ねコメンターは「自分が書いたことがそのまま公開されて相手がダメージを受けるか慌てるかする」という状況をつくりたいと思ってる。
承認制というのは、その「書いたことがそのまま反映される」という前提を、ブラックボックスに入れて、わからなくしてしまうということだ。コメント欄に表示されているコメントは、都合よく取捨選択されたものかもしれない。だから、自分がコメントしても表示されないかも知れない。*1
そういう風潮がある程度流行すれば、コメント欄は、コメントを書く側にとって「書きがいがないもの」とみなされて、死ね死ねコメントの対象になりにくくなるんじゃないだろうか。
面白がって書かれる、つまらないコメントの全体数が減るというか。
もちろん、死ね死ねコメントがなくなるとは思わないけど。

それで思いついたが

(以下不謹慎な方のみお読みください)
「そんなことを書くなんてやっぱり無責任ですね!」「人の死をなんだと思っているのですか!」「私の質問に答えていただけませんかね?」とか、コメント欄に湧きそうな、どうでもよい台詞をサンプリングして、時々それらを、ランダムにボットが投稿する仕組み。
ボットが投稿したか人間が投稿したかは、ブログ主にもわからない。
これで、コメント欄の信憑性自体が下がる。
「死ね」、と書かれても、あぁボットが書いたんだな、という心理的な逃げ道が用意される。あるいは、コメント記述者の側にも「憎まれ口を書いてもボットだと思われたら書き損だな」というためらいがうまれる。
これは欺瞞だろうか? でも、マッチョが用意する結論と、大筋、変わらない。
コメント欄チューリングテストにパスするには、ある程度論旨が通って長くてオリジナルなことを書かなければいけない。

ネガティブタグ

要約すると「ネガティブタグを使おうなんて示し合わせてないよ」ってことなのだが、これには疑問が残る。

そのタグを使おうと、だれも示し合わせてはいない。しかし、他の人の使ったタグを見て、あぁ、この語感しっくりくるな、これいただき、と思うから、結果、複数の人がその言葉をタグに使う「流行」というのが生まれる。

流行現象に首謀者などいないが、その流行が結果的に「死ねばいいのに」という言葉であるというのは、下品だとは言える。(そしてそのことを、浜ちゃんがテレビでつかってます、とか言い訳をするのはもっと下品。それは流行現象のきっかけを起こした人を首謀者として扱うようなもの)

ただの現象だから、誰に責任があるわけでもない、と言ってしまうこともできるし、流行現象なのだから「下品だ」以上の積極的な批判は失笑を買うこともある(のは、周知のとおり)。

しかし衛生管理義務のような意味合いで、下品な流行の発生を放置している運営者が、責任を問われるようなことも、あるのかも知れない。

昨日の話のつづきで書くと、はてブタグの用途は現状「分類」「関心」「振る行為そのものに意味のあるジャーゴン」あたりがごっちゃになっていると認識する。そのへん分けたほうがすっきりすると思う。「フォークソノミによる分類タグ」と「私的な関心タグ」の間に、<これはひどい>などの半私的な、語彙によるトライブが生まれているとすれば、「分類」と「関心」をすっぱり別のものにしてしまうのは有効だろう。

*1:このことを逆手にとって、「書いてないのに消されたのアンフェアだのと難癖が付けられるという致命的な欠点がある」とか評価してる記述をどこか見たが、致命的って、なぁ。