fc2ブログ

FacebookのMeta社の声明と食中毒事件の類似性

FacebookのMeta社があまりにひどい広告を掲載し続けていることについての釈明の声明が大変な騒ぎになっていますね。

これの問題点について既に多くの人がいろいろな意見を発表していて、読むにどれもいちいちそのとおりと言いたくなるようなものばかりですが、私も言いたい。これ、昨年世間を騒がせたいくつかの食中毒事件と構造が似ている気がします。

昨年話題になった食中毒事件は、私がその釈明や謝罪やあるいは新聞雑誌の追跡記事を見たところ、どれも事業者がその事業規模からして適切に生産できる量を遥かに超えて受注したとか、そうなるような催し物に出店したがために品質管理が蔑ろになり起こったものだったように感じました。

そしてMeta社の声明を読んで、同じことを感じたというわけです。要は取り扱っている広告の量が、自分たちで適切に管理できる量を超えてしまっていると言いたいのだろうと。



食中毒事件を例にあげたのでもう言いたいことはわかるかと思いますが、こんなのは言い訳として通用するものではありません。通用させてはなりません。食中毒を起こした事業者に、それじゃ仕方がないね、キャパオーバーのまま事業を続けて、度々食中毒出してくれなんて思わないでしょう。適切な規模で事業をやってくれと思うでしょう、そして安易にそういうことをやらかすような業者とは関わりたくないって思うでしょう。

なんでネット広告はそれで許されると思ってるんですかね。理解に苦しみます。食中毒を例に出しましたが、そもそも大概の事業は管理がいい加減で顧客や工場周辺に被害が出るなんてことは許されません。車、鉄道、化学工場、発電所、その他諸々。ネット広告で人身に被害が出ることは考えにくいですが、しかし詐欺によって人生を台無しにされるほどの金銭的被害を負うというのはよくある話で、それは人身被害に匹敵するものと考えてもいいと思います。それがMeta社の事業規模で世界的に行われているわけですよ。

本当に、本当に歪んでいると思います。



Meta社がこんな態度でいるのなら、官憲が規制する仕組みがあるべきだという意見がかなり強く論じられているようですが、これがまたなんか言論の自由、表現の自由を規制する切っ掛けを与えているようで癪でなりません。

ただ、広告を通じて被害が発生したのならば、広告事業者も責任を負うべきだとされることには、私は反対しません。

テーマ : インターネットサービス
ジャンル : コンピュータ

学問の自由とは、いやそもそも自由とは何か

日本学術会議の任命拒否問題についてですが、学問の自由、いやそもそも自由というものを根本的に勘違いしている意見を、有識者・知識人(と世の中では見られている人)も堂々と発しているのが見られます。あまりに気になるので、ちょっと書かせてください。



・「勝手気まま」は「自由」ではない

自由というものを根本的に勘違いしている原因の一つは、日本では「勝手気まま」と「自由」がごっちゃにされているからだと思います。この二者は全く違います。

自由とは、FreeやFreedomの訳語として明治期に作られた言葉だと思いますが、そのFreeには、何かに縛られていない状態、何かから開放されている状態、という意味があります。

ここで突然ですがうちのブログのタイトル欄を見てください(スマホ版を見ている方はPC版ページを)。シュガーフリー・タックスフリー・MSフリーとあるでしょう。このフリーとは何でしょう?勝手気ままという意味とは異なりそうだというのはわかりますよね。

シュガーフリーとは砂糖が入っていないことです(砂糖かけ放題という意味ではありません)。タックスフリーとは関税や消費税など税金の支払い義務が免除された状態ということです。MSフリーとはそこから私が付けたタイトルです。この十ウン年でだいぶ状況は改善されましたが、このブログを始めたちょっと前まではマイクロソフトなしにパソコンを使うというのがほぼ不可能な状況で、それを何とかしようと考えて付けたタイトルです。

おわかりいただけたでしょうか。もう一度書きますが、Freeとは、何かから開放されている状態、という意味があるのです。勝手気ままとは明らかに違う意味があります。

そして、「勝手気まま」は本質的にFreeとは言えません。これに似た状態を示す表現で「欲望の赴くまま」とか「本能のまま」なんてのがありますが、これは欲望や本能という、単純で御しがたい感情に支配されてしまっている状態のことです。

このあたりはマイケル・サンデル氏の「これからの正義の話をしよう」を読むとわりと詳しく、わかりやすく書いてあります。この中で特にわかりやすかったのは、お金が必要だからという理由で仕事を選ぶ人の話でしょうか。仕事を選ぶ理由で挙がりやすいもののひとつですが、これは逆に言うと、お金が必要でなければその仕事を選ばなかった、となるわけで、それはお金の都合に縛られた結果自由な仕事選びができなかった、ということになるのです。

そう考えると、意外と自由って深く、難しく、でも崇高なことがわかるかと思います。



・「政府の支配・干渉からの自由」が立法趣旨にある

自由の意味が「開放」である、ということがわかったところで、じゃあ何からの開放なのでしょうか。日本学術会議の場合、根拠法の日本学術会議法の立法趣旨からして「政府の支配・干渉からの開放」という意図がある、と言えるでしょう。第一条には内閣総理大臣の所轄で、費用は国庫負担とありますが、第三条に独立して職務を行うと規定されています。独立、つまり独りで立つということは何者の支配も干渉も受けない(例え所轄するとされた総理大臣でさえも)という意図はあると考えられます。そうでなければ独立という言葉は使わないはずです。

また、かつては日本学術会議の会員は推薦制ではなく選挙制だったそうですが、83年に推薦制に変更となる法改正があり、この際の国会審議で、これが政府による学術会議への干渉・支配へとつながるのではないかという内容の質問が飛んだようです。そしてそれには当時の政府が形式的な任命というかたちになるのでそのような心配はないと答弁しているようです。

菅総理による日本学術会議の委員の任命拒絶は違法の可能性(渡辺輝人) - 個人 - Yahoo!ニュース (FreezePage)

じゃあ、やはりこれは日本学術会議が有する学問の自由という権利への侵害行為だと考えられるべきでしょう。少なくとも学問の自由を守るためにあえてそう定まっていたことに手を入れたのですから。



というわけで、これが学問の自由に対する侵害行為であるのは間違いありません。また、これは前回書いたことですが「任命」という言葉の法的な意味からしても違法です。法律に書かれている言葉の意味を勝手に変えていいのなら、例えば「懲役とは刑務所に行くことではない」とだって言えちゃいますよね。これはすごく危険なことです。

テーマ : 社会問題
ジャンル : ニュース

Change.orgの日本学術会議会員任命拒否の撤回を求める署名に賛同しました

菅首相に日本学術会議会員任命拒否の撤回を求めます! - Change.org

Twitterにてすでに書きましたが、こちらに当ブログ名で署名しました。

政府が政府の人事に相応しい人を選ぶ、って気持ちはわからんでもないですが、私は危機感を覚えます。

というのも、学問は真実を追求するものです。どれだけ正当性のある、どれだけ国民の支持を受けた政府であれ、都合は良くとも悪くとも真実は真実であり、それを変えることはできないのです。

そう、例えば、地球なんて星はなく、我々が今いるこの場所は宇宙の中心で、太陽は文字通り東から登って西に沈む、我々の世界の周囲を回っているものだと。かつて多くの人々がそれを信じたものですが、しかし真実は違いました。多くの人々がそれを信じたからといって、そのように変わってくれることもありません。

あるいは日本の南北朝時代。楠木正成が南朝後醍醐天皇に、南朝は北朝足利軍に勝てないと進言し、しかしその進言は南朝政権に参画していた公家の多数に支持を受けず、結局無視されたということがあったと伝えられています。これは少なくとも新田・楠木軍としては真実であり、その後の歴史を見てもやはり真実だったのです。支持を受けなかったからといって真実が変わってくれることもなかったのです。

多数決こそが正義・真実だと我々は考えがちですが、実際は違うのです。真実に基づいて何かをする、ってのが政治です。真実を決めたり、変えたりするのが政治ではありません。そして、真実とは上に挙げた例からもわかるとおり、パッと見てすぐに答えがわかるものばかりではありません。それを追求するには、都合の悪い意見が必要になってくることもよくあることなのです。

なんでこんなことを私が書くか。このところ私は新型コロナウイルスのことばかり書いていますが、それです。このパンデミックは人災です。武漢でそれまでとは様相の異なる重症肺炎の患者が多数発生し、これに早い段階から気づいて研究や治療にあたった医師や研究者がいたわけです。そういった人たちが情報発信していたのを、中国政府はどうしたか。彼らの情報発信を止めさせ、遂には投獄までしてしまったのです。これが初動が遅れた原因であり、世界のパンデミックの始まりでした。

政府にとって都合のいい人・悪い人という選別をしていると、こういうことが起こるのです。今回排除された6人はいずれも医療系の人ではないようですが、これをやっていいということになったらそれは全てに及びます。だからこのような前例を作ってはならないのです。

それに、今回の件で政府側にある権限は「任命」です。「任命」は、日本の法律上「指名」などの文言と明らかに区別して使われています。例えば「指名」権限あるものには選ぶ権利があり、「任命」者にはそれがありません。これを変えてしまうと、例えば国民の多数の支持を受けた国会が指名した内閣を、任命者の天皇が拒否し、別の人を「任命」することだってできるのではないか、って話になりかねません。憲法が、法律が滅茶苦茶になりかねません。

これは許してはならないことです。撤回がされることを、そして国の政治を国民より預かる内閣総理大臣として法解釈・法認識が誤っていたことを国民に対し認めることを切に願います。

テーマ : 社会問題
ジャンル : ニュース

リアリティ番組ってやつ、問題はないの?

なんだか、ウェブ上での誹謗中傷が話題となっています。とりあえず、名誉毀損や侮辱といった行為は犯罪となり、また民事においても法的な責任を問われる行為である、というのははっきりとさせておきます。

※なお、この話に便乗して政治家や政府への誹謗中傷は問題にならないのか、なんて言っている方がいらっしゃるようですが、名誉毀損の場合、公益の利害に関する事実にかかるもので、専ら公益を測る目的でされているものに関しては、真実の証明がある場合には罰せられないというのが刑法上明記されています。更に真実性の証明に失敗した場合であっても、真実と誤信したことに相当な理由がある場合には犯罪の故意を欠くため不可罰となる、というのが判例です。民事裁判でもこの考え方が有効です。

※というか、政府に対して文句を言っちゃいけないなんてどこの中国ですか。そうやって新型肺炎を最初に警告した医師や研究者を投獄したせいで、初動に失敗したのが今のアレでしょうが。

その上で、思うんですけれど。今回の悲劇は別のところにも原因があるんじゃないかなあと。



リアリティ番組ってやつです。

木村花さんが出演していた「テラスハウス」なる番組はまさにリアリティ番組の代表格だと思いますが。このリアリティ番組ってやつ、思うんですが、放送倫理的に大丈夫なんでしょうか?現在の放送倫理の内規・自主規制の規定上問題がないとしたら、その問題がないとされることが問題なんじゃないですか?

フィクションをノンフィクションと宣わって放送するのはアウトなんですよね?ではリアリティ番組はノンフィクションなんですか?

これがノンフィクションでないであろうと思われる理由はふたつあります。まず積極的にノンフィクションとは言っていないこと(台本なしとは言っているようですが、ノンフィクションと明記しているわけではないですよね)。ノンフィクションならノンフィクションと言うでしょう。フィクション・ノンフィクション云々の話じゃない、リアリティ番組だ!という強弁が聞こえてきそうですが、ノンフィクションじゃないのならフィクションですよね。

もうひとつ。もしこれが筋書きのない番組なら、ものすごく退屈なものにもなりかねないということです。何のトラブルも起こらない、皆ひとつ屋根の下で仲良く暮らしました、おしまい、なんてことにもなり得ます。そんな番組、誰が見るんですか?まあよっぽど疲れている人にはそれはそれで何か薬になってくれそうな要素はあるかも知れませんが、一般受けは難しいでしょう。その疲れている人でさえ、1シーズン継続して見るのは厳しいと思います。

だから何らかの波乱の筋書きや演出はあると思うのですよ。それこそ、ヒーロー物にはヴィランが、刑事モノには犯罪及び犯人が、恋愛ものには何らかの障害やライバルがあるように。彼女が共演者に対して強く当たり散らすというシーンが放送されてからネット炎上が本格化したなどと言われていますが、彼女は悪役を演じただけ、の可能性があるわけです。



で、このリアリティ番組というフォーマットは、悪役の演出を演出とは思わせないところにキモがあります。

もちろんそれは演技における「迫真の演技」とはわけが違います。迫真の演技とは、フィクションはフィクションだとわかった上で、見ている人がその見ている時間だけ、ある意味頭を切り替えて、その世界に入り込んでしまうものですが、ドラマや映画の時間が終わればすぐにこっちに戻ってこれるものです。

リアリティ番組はそもそもその頭の切り替え操作をすっ飛ばすものです。そんなのすっ飛ばす方が悪いだろうと。ええ原則そうですね。でも、すっ飛ばさせる演出というか、すっ飛ばしてくれる人をあえてターゲットにした番組なのでしょう?普通に考えてすっ飛ばさないはずのものをどういうわけかすっ飛ばす人がいた、というものとは違います。

そんな番組を作ること、そして放送することに問題はないのですか?それでもなお炎上させるやつが悪いとは思いますが、例え炎上しなかったとしても切り替えをすっ飛ばしてくれるありがたいお客様の脳裏に、その悪役への憎悪は残ってしまうわけで。そういう人をあえて量産しているわけですから、たちが悪いと私は思います。

そして、今現在この番組の関係者でこの件について積極的に発言している人がいませんが、おそらくそれは出演などにあたりこの番組に台本があるということを口外しないという契約でも結んでいるんだろうと感じます。

これに放送倫理的問題はないのでしょうか。問題ないとしたら、問題ないことになること自体に問題はないのでしょうか。

テラスハウスで問題になったのはこの他にあるのか知りませんが、「run for money 逃走中」とかいう鬼ごっこ番組はほぼ毎回何かしら出演者が炎上していましたよね。良くないよこういうの、って思ってましたが、それは俺だけなんですかね。

テーマ : 社会問題
ジャンル : ニュース

同性愛は異常か

同性愛は異常生物だ、というツイートをした市議がいた。今回はこれについて書きたい。ブログのテーマと関係なくて申し訳ない、でもネット上の気になった情報をまとめるのが本来のブログの使い方だとも聞くので…。

まあ、異性愛を正常とすれば、同性愛はその反対で異常、ってことになるのかも知れない。

ただ、例のツイッター市議の異常・正常論の理屈は間違っている。間違った理屈でもって、異常正常を語るのは間違っているし、それでもって自分を正常に、相手を異常に置くのはもはや暴力である。正、不正という言葉にはそれほどの強い力がある。

彼は同性愛者を「生物の根底を変える異常動物」と言った。

でもさ、言わせて欲しい。人間の性に関することは、動物の性から見て正常なことの方が珍しいんじゃないのか?

例えば、人間は自分の意思で子を持たないことを選択することのある動物だ。避妊して性行為をすることもある。あるいは自慰もする。どれも動物的なくくりで見ると珍しいことだ。

たまにこういう奴がいる。同性愛は子孫繁栄に与しない、と。特に全体主義者、個々人の幸福は蔑ろにしてでも国家を強くするべきだという論調の者によく見られる理屈だ。たぶん彼の言いたいこともそういうことだろう。その理屈はその理屈で結構だ、しかし、そうだったら自らの意思で子を持たないことを選択する者、避妊、自慰も等しく糾弾するべきなのでは?あるいは病などで子供が作れない体になってしまう人もいるだろう。そういう人はどうすればいいのか?性が生物の根底なら、これだって生物の根底を変えるものだ。

もうひとつ言ってしまえば、結婚、特に一夫一婦制も動物的に見れば不健全な行為だと思う。色々な人で交わった方が、遺伝的には多様性が出て生存に有利なのではないか。大抵の生物は皆そうしている。鳥の中にはつがいを作るものがあるが、生涯に渡った一夫一婦制というわけではないし、彼らには貞操の義務のようなものはない。つがいはあくまで子育てに都合がいいから、ということのようで、実際にDNAを調べてみると育てられている雛は必ずしもつがいの子というわけでもないと聞く。DNA的な多様性がないと、何かの疫病なんかが流行った時、あっという間に全滅してしまう。それもまた彼の言う破滅ではないのか。

だから、僕は動物的な視点から人間の同性愛を異常と呼ぶのは非常にダブルスタンダード・恣意的だと思う。おそらく本人も論理の破綻はなんとなくわかっているだろう、わかっていなければ馬鹿だ。それを無理やりゴリ押しで正当化し、相手に異常者のレッテルを貼るのは、卑怯だしさっきも言ったとおり暴力的だ。



僕が思うのは、あなたが異性愛者なら同性愛者の気持ちもわかるだろう、ってことだ。あなたがゲイになれ、と言われてもそれは無理だろう。僕にもたぶん無理だ、少なくとも女性を愛することを捨てることはできない。

同性愛宣伝がいけないことだ、という奴がいる。つまり、人を同性愛に引きずり込むような、目覚めさせるような行為をするべきではないと。ロシアとかがそういう政策をとっていた。ツイッター市議のツイートにもメディアがそれを報じるべきではない、というような言葉があったので彼にそういう意図もあったと思う。しかし、ではそういう宣伝に接したらあなたは同性愛者になるのか?ならないだろう?つまりならない人はならないのだ。だからそれは心配するべきことではない。

確かに同性愛者の話を聞くと大抵、これまでの人生の途中あるところで自分が同性愛者であると気づいた、なんて言われる。でもそれは、異性愛者から同性愛者へと転換したという話ではない。異性に対する恋愛感情・性的感情を覚えず、異性愛を標準とする世間一般に自分がゲイと認識する前から違和感を覚えていたという場合がほとんどだ。つまり、無意識レベルですでに同性愛者である人が、自身の性指向に気づくかどうか、だ。

気づかせないのが正しいのか。僕はそうは思わない。自分の性に違和感を覚えながら、でもゲイという物事の存在を知らずあるいはゲイが認められない世界で、世間一般がそうするように異性と結婚でもしてしまったとしようか。それは悲劇でしかない。ゲイの本人は置いておいても、引き合わされた異性愛者がたまったもんじゃないだろう。実は愛していないってんだから。つまり、ゲイがゲイであると認められる社会は、異性愛者の幸せにも繋がる。だからメディアでゲイが取りあげられるのは何も僕は問題だと思わない。自分の性に悩むゲイの人が、ゲイというものの存在を認識し、自分はそうなんだ、それでいいんだと気づく、そのきっかけをメディアがもたらしているのだ。大いに結構じゃないか。



なんていうのかな、さっき全体主義の理屈はそれはそれで結構とは言ったけれど。俺が思うに、だけれど、全体主義ってのは原則と例外、目的と手段を取り違えていると思う。僕が思うに、共同体は大事だ。よく個人主義者は共同体を蔑ろにするものだと思われがちだが、それは誤解だ。共同体を蔑ろにする個人主義者なんてゴルゴ13くらいのものだ。人間は皆共同体に寄り添って生きている。でもその共同体は何のためにあるのか。というか、人間は何が目的で共同体を形成するのか。それは、個々人がよりよく生きるためではないのか?

自己犠牲というものもあるが、自己犠牲は目的ではないはず。自己犠牲は、共同体に所属する他の誰かを幸せにするための手段であるはずだ。それに、他者から、共同体からそれを強要された時点でそれは「自己」犠牲ではない。単なる犠牲である。自己犠牲というのは個人主義においてのみ存在する。

それはともかく、人間は「こうあるべき」というものがあって人間になったわけじゃないと思う。これは性に限ったことはではない。人間社会は不合理と非生産性、そしてそれの再考察の積み重ねで成り立っている。少なくとも動物的行動原理とは違うところで成り立っているところがたくさんある。「吾輩は猫である」ではないが、動物から見れば人間そのものが異常だ。人間は、こうあるべきだとする完璧な模範を持っていない。持っていないからこそここまでの世界を作り上げられたと僕は思う。それをパターナリスティックに上から決めつけ、何かを異常、正常と決めつけるのは間違っている。それぞれが、自分が正しいと思う方向に進めばいい。それが道になると思う。同性愛者は同性愛者であればいいし、異性愛者は異性愛者であればいいと思う。


補足

「正常、異常って何ですか」 海老名市議の差別的ツイッターに同性愛者|カナロコ|神奈川新聞ニュース
このような記事を見つけた。この記事の、ここが気になった。

「同性愛を異常と思う自分は、差別主義者と思われる」という恐怖を覚える

僕はここで同性愛差別に対する反対を表明したけれど、それは「同性愛を異常と思う」人を差別主義者だとレッテルを貼る意図ではない (と同時に、そう思われかねないポイントを修正) 。僕が思うに、だけれど、例えば多くの人が性的にクリティカルなことを突かれれば多少なりとも嫌悪感を催すように、異性愛者が同性愛に嫌悪感を覚えることはいけないことではないと思う。ただ、同性愛者は自分がそうなりたくてそうなったのではない。我々が異性を好きになることに理由があるだろうか。当人に咎のないことを、声高に非難するべきではない。それは肌の色みたいなもので、典型的な差別そのものだ。

それを相手を貶める意図で無茶な理論武装で正当化するのは更に間違っていると思う。差別を正当化する無茶な理論武装っていうのは今までも山のようにあった、やれ女は天地創造の6日間に作られたものでないだの、アダムとイブは白人であり黒人は人ではないだの。こういうのを幸運にも歴史から学べる我々は繰り返すべきじゃない。歴史は野蛮な動物には学べないことだが、我々は文明人だ。

嫌悪感をもつものを受け入れるのは難しいかも知れない。しかし、受け入れると言ってもあなたに同性愛者になれだの、あるいはその性の相手をしろと言うわけではない。我々が異性とは言ってもやりたくない相手とやらなくていいのと同じだ。だから、その存在をそのものを否定・非難するのは間違っていると思う。

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも
ジャンル : 政治・経済

プロフィール

ざっぱー

Author:ざっぱー
(この画像について)

当ブログについて
メール
(このメールアドレスへの特定電子メール (迷惑メール) の送信はお断りします)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク