鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄』を読む

 鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄』(朝日新聞出版)を読む。朝日紙新聞出版のPR誌『一冊の本』に連載していたもの。徹底して小林秀雄批判をしている本。鹿島は亡くなった丸谷才一と親しく、丸谷の小林批判を引き継いでいる印象もあるが、鹿島の方が論理的かつ体系的に批判している。
 「ドーダ」というのは虚栄であり、ドーダ、俺はこんなにすごいんだ、といばることを言っていて、小林は「ドーダのデパート」であると断定している。わざとわかりにくい単語や文章を並べ、論理も紛糾させることで読者を煙にまいている。そう言われると小林秀雄に当てはまることが多い。
 初期の論文「アシルと亀の子」でも、ギリシア神話のアキレウス(ローマ神話のアキレス)をアシルとフランス語読みして煙にまいている。ゼノンのパラドックス「アキレスと亀」のことなのに。
 小林秀雄といえば、ランボーの『地獄の季節』の翻訳者であることが名高い。私も若年の頃読んで深く影響を受けた。その翻訳に対して誤訳であることや不正確なことを指摘する。特に篠沢秀夫の小林秀雄批判を引用して、

「小林訳及びその修正訳である鈴木信太郎・小林秀雄訳の最大の問題点は、原文の語りの口調の変化を認識していないことにあるのが感じられた。逆に言えば、『地獄での一季節』の最大の特徴は語り口がひらりひらりと変わる点にある。またボシュエの説教を思わせる信仰の炎のように語るかと思うと、卑語をまじえて教会を嘲笑う。小屋掛けの見世物の呼び込みの口調でたたみかけているうちに、ありがたそうな神父様の口真似に変わり、自嘲し、真剣に絶望し。また希望に燃え、甘え、わがままを言う。つまりキリスト教は肉となり心に食い入った存在であり、それと戦うのは内なる自分と争うに等しいのだ。その心の揺れが極端から極端へ走る言語表現の転換に現われている」

 それがフランス語をやっとマスターした当時の小林には理解できなかったのだという。だから小林は、「俺は俺は」と、一本調子に訳してしまっているのだと。
 鹿島は小林の訳よりも中原中也の訳文の方を高く評価している。そのことを宇佐美斉を引いて、

「一人称の主語代名詞を、小林のように『俺』一辺倒で押し通すのではなく、『私』『小生』『俺』などと、場面と状況に応じて訳し分けているところにも、中原の自在な対応が見てとれよう」

 小林秀雄と長谷川泰子の関係の分析はおもしろかった。小林は長谷川を中原中也から奪っている。しかし小林と長谷川の関係もうまくゆかなくて、ある日小林は長谷川のもとから逃げ出している。鹿島は泰子が真正M女だといい、小林がS男になれなかったのが別れる原因だったと、驚くべきことを説得力を持って展開している。
 雑誌連載のせいか、構成があっちこっち跳んでいるような印象を受ける。ただ鹿島の小林批判は真っ当なものだと思う。もう一度どこかで書き下ろしで同じテーマを書いてくれるといいのに。