被害者及び死刑


宮崎哲弥藤井誠二『少年をいかに罰するか』講談社講談社+α文庫、2007年

 過去の少年法をめぐる議論は、法務省や検察、弁護士、矯正施設など制度として少年犯罪に関わる立場の人間が、年齢引き下げなどで少年犯罪が減るかどうかという社会効果の観点からしか議論をしてこなかった。当時の新聞の投書も、その「効果」について自分はあると思う、ないと思うという二者択一的なものばかりです。社会的に「効果が期待できない論」が支持されたのだと思います。
 今回も少年法改正に反対した人々――弁護士や学者などの専門家――の論理はほとんど当時と変わっていなくて、厳罰化は効果があるとか、ないとかをずっと言ってきた。ところが、犯罪被害者やその遺族の人々が訴えてきたのはそういうことではなく、、せめて自分たちにも加害者側と同等の権利や情報がほしい、適正で公平な手続きをしてほしいということなのです。少年法の不公平さや不適正さを問題にしてきたのです。
 つまり、言っていることがまったくかみ合わないわけで、効果論でうねりを押し戻そうというのははじめから意味がなかった。与党は効果論を持ち出していましたから、それに反論する必要はあったのですが、本流はちがうところにあったといえると思います。[119−120頁、藤井の発言]

この指摘は、統計上は犯罪が増加したとも凶悪化したとも言い難いと指摘したとしても、必ずしも厳罰化を求める声や体感治安の悪化に対する歯止めにはならない、という過去の私の指摘とパラレルに読める*1。犯罪被害者遺族自身が望んでいるところとは必ずしも一致しないとは言え、被害者の権利向上への支持拡大と治安悪化・厳罰化言説とは、その土壌において繋がっている。治安悪化言説への批判や厳罰化効果の過大視への反論はそれとして必要であるとしても、何かそれだけでは足りないものが残ってしまう。土壌のところまで、届かないのである。

公平さや適正さというのは、一つのポイントだろうと思う。被害者の権利向上を訴える立場は、国家が個人に対して当然に認めるべき正当な地位・権利が認められていない、という見方に拠っている。この考え方が、従来の憲法学や刑事法学、あるいはリベラル左派や「人権派」弁護士などの考え方と摩擦する。摩擦するのだが、それは決して保守的な考え方ではなく、むしろ人権という観念を推し進めた進歩的なものである。ここには自由主義‐個人の権利‐国家権力の役割をめぐる逆説的と言うのか、ねじれたと言うのか、曲がりくねったような立ち位置の割り振りが見出せるが、煩瑣になるので、詳しくはいずれ別の形で議論することにしよう。

なお、本書では治安悪化言説への詳細な批判が行われるとともに、そうした言説が盛り上がる要因についても若干の検討が為されている。宮崎は現代の少年犯罪に「質的変化」を見出すかについて、概ね慎重な見方を採っているが、藤井は犯罪の動機や背景に対する「理解可能性」が失われてきており、それは少年が社会から「離脱」した結果ではないか、という宮台真司に近い見方を示している。もっとも、少年の内面が実際に変化しているかどうかを争わなければ、かつては「理解」の対象と見做されてきた少年が、ある時期から理解不能な「モンスター」と見做されるようになったという指摘は芹沢一也も繰り返し行っている。芹沢はそうした変化の立役者が宮台にほかならないと見做しているのだが、少年の内面が実際に変化したにせよ、言説が変化しただけであるにせよ、それらが変化した理由をより遡って考える必要があることを否定する余地は無い。


他に気になったものとして、宮崎の発言から取り上げたい部分がある。まず、自らが死刑反対派であると述べながらも、「死刑廃止論者は権力の走狗だ」との池田清彦の言に同調しつつ、宮崎はこう続ける。

 まったくその通りで、犯人を殺したいと思っている被害者やその代理人たる被害者遺族にとって、死刑廃止国家は「その野蛮な感情をコントロールせよ」「加害者を許せ」と命じる権力主体に他ならないんだよ。そういう意味では菊田幸一氏や安田好弘氏なんか、完全に権力の補完装置に出しているといえる。
(中略)
 整理しておくと、こういうことね。
 権力というのは元々「死なせる権力」に他ならなかった。命を奪い得る、殺し得るという機能によって人々を規律し、統制する。これを政治権力と呼んできたのです。
 死刑はその最も象徴的な事例で、国家は一罪人を合法的に殺害することができるわけです。他の誰一人として法に抵触することなく、人を彩めることはできない。たとえ、被害者遺族であっても。これが近代社会の原則です。つまり合法的に人命を奪い得る可能性こそが、近代的な国家権力の本体だったのね。
 ところが、この権力観は時代遅れになりつつある。むしろ「生かす権力」の作用が大きくなってきているということを、歴史思想家のミシェル・フーコーが看破した。彼は「死なせる権力」に対し、「生かす権力」、「生―権力」という権力概念を提示しました。
(中略)
 要するに、死の恐怖によって人々を従わしめていた古い権力から、健康な生を予め規格化し、それへの欲望を煽ることで管理やコントロールを強めていく新しい権力へと重心をシフトさせているというわけ。
 池田清彦氏の死刑廃止論批判もおよそこの視角に添ったものです。私が我慢ならないのは、多くの死刑廃止論者がこういう権力側のシフトにまったく鈍感だということ。
 その鈍感さこそが、犯罪被害者を徒に体制の側、権力サイドに追いやってしまっているのに、そこにぜんぜん気づいていない点。これが救い難い。[21‐23頁]

実際には、フーコーは以下のように述べている。

 私は別のレベルで、死刑を例にとることもできただろう。死刑は長い間、戦争と並んで、剣の権利のもう一つの形態であった。それは、君主の意志、その法、その人格に危害を加えるものに対する君主の対応をなしていた。死刑場で死ぬ者は、戦争で死ぬ者とは正反対に、ますます少なくなっている。しかし後者が増え前者が減ったのは、まさに同じ理由によるのだ。権力が己が機能を生命の経営・管理とした時から、死刑の適用をますます困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由と権力の存在の論理とである。権力の主要な役割が、生命を保証し、支え、補強し、増殖させ、またそれを秩序立てることにあるとしたなら、どうして己が至上の大権を死の執行において行使することができようか。このような権力にとって死刑の執行は、同時に限界でありスキャンダルであり矛盾である。そこから、死刑を維持するためには、犯罪そのものの大きさではなく、犯人の異常さ、その矯正不可能であること、社会の安寧といったもののほうを強調しなければならなくなるのだ。他者にとって一種の生物学的危険であるような人間だからこそ、合法的に殺し得るのである。[ミシェル・フーコー『知への意志』渡辺守章訳、新潮社、1986年、174-175頁、強調引用者]

宮崎の発言だけを読むと、生‐権力へのシフトが進めば必然的に死刑が廃止されるとフーコーが考えているように理解してしまいかねないが、そうではなく、要は、死刑が維持されるとしても、その機能は変質すると言っている。

それから、多くの死刑廃止論に一種の鈍感さが伴っているという指摘には首肯できるところもあるが、権力が以上のようにシフトしているからといって死刑廃止を訴えることが「権力の走狗」になることかと言えば、疑問である。左翼であろうが「人権派」であろうが、国家権力にある一定の機能を期待していることは、その他の立場と変わりが無い。死刑廃止を訴えているからと言って、国家権力を否定していることにはならない。テレビ番組の中で某ジャーナリストが、死刑廃止を訴えているくせに国家の裁判を利用しようとするのは矛盾だとの旨を述べているのを見たことがあるが、これは暴論である。死刑廃止論は国家廃止論ではない。在る法に従うことと在る法を改善しようとすることは矛盾しないし、死刑廃止を訴える言論人やら弁護士やらが国家の法に頼ることは言行不一致ではない。彼らは国家権力の機能の在り方を変えようとしているに過ぎないからである。翻って、死刑廃止国家が被害者に感情の統制を命じる権力を行使するとしても、死刑廃止論者が「権力の走狗」とまで呼ばれる筋合いは無い。何らかの局面で国家権力の機能を肯定し、支持し、利用し、促進するような態度を採ることが「走狗」たることであるのなら、国家廃止論者を除く死刑廃止論者はもとより「権力の走狗」である*2


宮崎は以上の議論と絡んで、以下のようにも述べている。すなわち、国家は社会契約によって人々から復讐の権利を含む自然権を移譲されることで刑罰という暴力を独占する権利を得ているが、国家が抽象的な「法益」なるものの保護に徹し、具体的な被害者やその遺族の利益を保護し、移譲された復讐権を代行していないのであれば、復讐権を個々人に返還して自力救済が認められなければならない。それゆえに、被害者および被害者遺族に対して、国家に報復という権利を代行して実現することを求める「人権」を保障することが重要になってくる、と(29−31頁)。

しかし、ここで疑問なのは、国家はそもそも「復讐権」を代行実現する義務を負っているのか、ということである。宮崎は殺人罪の保護法益である「人の生命」が非常に抽象的で具体的な「その人」の利益を直接に示しているわけではないことを指摘しているが、法がその内部で具体的な個々人を名指ししてその利益を保護すると宣言することができるのだろうか。社会契約説を採って国家の役割が自然権の代行実現にあるとしても、それが具体的な個々の紛争における復讐の代行を含むと考えるのは、多分妥当していないだろう。宮崎は、本村洋との出会いによって「被害者に人権は認められない」という従来の立場を変容させざるを得なくなったと述べているが、おそらくはそのために、ここでの宮崎の論理は滅裂しているように見える。

ちなみに、ロックは以下のように述べている。

 このようにして、自然状態においては、各人が他人に対する権力を得るようになる。けれどもそれは、その掌中に属する罪人を処分するに当って、自分の激しい感情や法外なでたらめに依ってするというような絶対的恣意的な権力なのではない。それはただ冷静な理性と良心とが、罪人の違反に釣合うものとして指示する程度のものを、いいかえれば賠償、抑制として役立つであろう範囲のものを、その者に酬いるだけの権力に過ぎない。なぜなら、賠償と抑制というこれら二つだけが、一人の人間が他人に対して、われわれの刑罰と呼ぶ害悪を、合法的に加え得る理由なのであるから。自然法を犯すことによって、犯則者は、神が人間の相互的安全のために、彼らの行為に加えたところの制限である理性と一般的衡平の規則以外の、別の規則に従って生きることを自ら宣言する。このようにして人々を傷害と暴行から保護すべき紐帯は、彼によって軽侮破壊されるのであるから、彼は人類にとって危険なものとなるのである。これは、全人類および、自然法によって設けられたその平和と安全とに対する、侵害である。したがって各人は、人類全体を維持するためのその権利によって、彼らにとって有害なものを制止し、必要な場合には破壊することができる。かくして、何人であれこの法を犯した者に対して、その行為を悔悟させ、これによってその者、およびこれに倣ってその他の者が同様の悪を為すのをやめさせるような罰を加え得るのである。こういう場合に、またこういう根拠によって、各人は、犯罪者を処罰し、かつ自然法の執行者となる権利を有するのである。[ロック『市民政府論』鵜飼信成訳、岩波書店岩波文庫、1968年、14‐15頁、傍点を省略]

国家はこうした自然権を回収して成立するわけだが、自然法の段階で既に「人類にとって」という観念が持ち出される。果たしてこれは抽象的な法益たる「人の生命」とどう違うのか。具体的な個々人の利益に基づいた復讐権なるものは、そもそも想定されていたのだろうか*3。ロックが社会契約説の全てではないが、私は疑問に思う。そういうところから被害者の人権を持ち出すのは無理があるのだ。


少年をいかに罰するか (講談社+α文庫)

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完訳 統治二論 (岩波文庫)

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*1:http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070626/1182863059

*2:お互い「権力の走狗」とか何とか、そういう言い方、いい加減に止めにしないか。つまらんから。

*3:個人から国家へと自然権が移譲されたことと、国家によって自力救済が禁止されて合法的な暴力が独占されたこととが結合されて理解された結果、個人的な復讐権も国家に移譲されたという考えが出てきたのかもしれない。だが、復讐権は移譲されたのではなく、端的に禁止されたのではないか?。この点につき不勉強な私はご教示を賜りたい。