近代的法主体は近代法を解体するのか
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社出版局
- 発売日: 2007/12/01
- メディア: 雑誌
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藤井誠二・芹沢一也「「殺された側の論理」と「犯罪不安社会」のゆくえ」『論座』2008年1月号(第152号)
重要な論点がクリアに出ているとともに、重要な対立点も強く浮き上がっている。その上で更に突っ込んだ議論を期待したいのだが、そのためには此処に誰を介入させればよいのだろうか。はて。
さて、関連で、以下論文を興味深く読んだ。
和田仁孝「「個人化」と法システムのゆらぎ」『社会学評論』第54巻第4号、2004年
近代の「法主体化」プロジェクトは、実はそれが克服の対象としていた前近代的な共同性を残す社会的諸制度によって支えられていたのであり、プロジェクトの進行によって前近代的共同性が破壊される(「個人化」が進む)と、かつて法システムの外部で処理されてきたようなニーズが、そもそも日常感覚からして「部分的な応答性しか有していない」法システムの内部に持ち込まれるようになるために、「過剰な」期待への全面的な応答を迫られた近代法システムが自らの限界を露呈し、安定性を欠いていく…、という筋であり、非常に興味深かった。
近代というプロジェクトの進行がプロジェクトそのものの足場を掘り崩していくという逆説は、自由主義と民主主義の社会への広範な浸透が何をもたらすかという問題と完全に重なる。現代における人々の権利意識の拡張が「自前の法解釈をその都度構築するような便宜主義的なものにほかならない」とまで言えるかどうかはやや疑問だが*1、(民事・刑事を問わず)被害者の「感情」を訴訟過程に持ち込むことへの寛容・支持が急速に拡大している事態を「個人化」の流れの中に位置付けて捉えることは説得的、かつ、とても重要な認識である。
*参考:
自由と管理―パノプティコンと現代社会
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070206/p1