esperantoとconvention


2007/07/04(水) 19:58:43 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-350.html

田中克彦『エスペラント』(岩波書店:岩波新書、2007年)


田中克彦の著作は読まなければならないと思いつつ未だに読めていないが、新刊が出たので最初の一冊とさせてもらった。人工言語エスペラントの歩みに寄り添いつつ、神によって与えられた/自然的に生成してきた民族言語の在り様を描き出していく過程に、興味深い話があちこち散りばめられている。もの凄く安易に語学を勉強せねばという気持ちになったのだけれど、私も一犯一語のペースで習得できないかな。そのためには何かしらで捕まらないと(それもそこそこ長めに)。


ソ連では最終的に弾圧されたのに対して、中国は現在に至るまでエスペラント大国であるという対照も興味深かったが、ハイエクだったらエスペラントをどのように評価したのだろうかということが一番頭を占めた。言語は貨幣と並んで自生的秩序の代表例とされてきたので、人工言語たるエスペラントへのハイエクの評価は気になるところ。どっかで言及していないのだろうか。


ほとんどの言語は自生的に形成されてきたものだろうが、しかし一方で、確立された言語の規範は更なる流動を妨げる機能を果たす。本書でも、英語の動詞における不規則変化(catch-caught-caughtなど)に従わない子どもの英語(catch-catched-catchedと言いがちらしい)が矯正されるケースが取り上げられているが、日本語でも「間違った日本語」を正そうとする傾向は根強い。自生的に形成されてきたものが自生的に変化していくことを押し留めようとするのは、いかにも不自然だ。他方、人工的に設計されたエスペラントも、一旦体系が確立されれば、その使用と普及の過程で様々な変化や派生を伴っていく。言語として確立した後も一貫して厳格な規範の下に現実の使用を規律していこうとしたならば問題が多い設計主義だったかもしれないが、もはや設計者の手を離れた以上、人工言語だからと敬遠される筋合いは無いように思う。


ハイエクに先駆けて言語を自生的な秩序の例として挙げたのはヒュームだが、ヒュームのconvention論に従えば、そういった秩序が生成してくるのは、conventionに参加する人々の利益への共通感覚である。だから結局、それが都合が良い(そうでないと都合が悪い)ということならば、言語はいくらでも変化していくものなのだろう。存在していても誰も利益を感じないような語彙や言語は次々に消えていくのだろう。私はそれで何も構わないと思っている。


参考資料として、ヒュームがconventionについて述べている部分の訳文を載せておく。David Hume,A Treatise of Human Nature,Oxford University Press,2000,pp.314-315からで、大槻春彦訳『人性論(四)』(岩波書店:岩波文庫、1952年)63‐64頁のほか、稲葉振一郎『「資本」論』(筑摩書房:ちくま新書、2005年)64‐65頁の訳文も参考にした(強調は原文)。


このconventionは、約束promiseという性質ではない。と言うのも、後に見るように、約束そのものでさえ、人間のconventionから生じるからである。conventionとはあくまで、共通利益についての一般的感覚にすぎない。社会の全てのメンバーが、この感覚をお互いに示し合うことにより、人々は一定の規則に基づいて自らの行動を制約するように導かれるのである。私が見るところ、他人が私に対して、私が彼に対するのと同じような行いをすると仮定するなら、彼の財物を彼に所持させたままにしておくことは、私の利益になるだろう。彼の方でも、自らの行動を制限することについて、同じような利益を感じ取る。こうした共通の利益感覚が相互に示され、双方に知られると、適切な決断と振る舞いが生み出される。これは、たとえ約束が介在していなくとも、我々の間のconventionないし合意agreementと呼ぶに全く十分であろう。なぜなら、我々一人一人の行動は、他人の行動を参照してなされるものであり、他人の側で何事かが行われるはずであるという想定の下に行われるからである。ボートのオールを漕ぐ二人の男は、お互いに約束を取り交わしたことが全く無くても、合意ないしconventionによってそうするのである。同様に、占有の安定についての規則も人間のconventionに由来する。それは徐々に立ち上がってきて、ゆっくりと発展し、我々がそれから逸脱することの不都合を繰り返し経験することにより、効力を獲得する。他方、この経験は、利益についての感覚が全ての同胞に共通となっていることを我々により一層確信させ、我々の行動の将来にわたる規則性についての信頼を与える。そして、このような期待の上にのみ、我々の節度と節制は成り立つのである。それは言語が、何の約束も無しに、人間のconventionによって徐々に確立されるのと同じように。それは金や銀が、交換の共通の尺度となり、それらの価値の百倍にあたるものに対する十分な代償として評価されるのと同じように。


エスペラント―異端の言語 (岩波新書)

エスペラント―異端の言語 (岩波新書)

A Treatise of Human Nature: Being an Attempt to Introduce the Experimental Method of Reasoning into Moral Subjects (Oxford Philosophical Texts)

A Treatise of Human Nature: Being an Attempt to Introduce the Experimental Method of Reasoning into Moral Subjects (Oxford Philosophical Texts)

デイヴィド・ヒューム 人性論〈4〉―第3篇 道徳に就いて (岩波文庫)

デイヴィド・ヒューム 人性論〈4〉―第3篇 道徳に就いて (岩波文庫)

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

コメント

はじめまして
エスペラント』の書評が書かれていたので読ませていただきました。刻々と流動し変化して行く言語という観点に共感しました。
日本人のエスペラントポルトガル人のエスペラント、など同じエスペラントでも少しづつ違いがあり、それでも「文法16条を遵守していれば通じる」というようなところがエスペラントにはあります。


>ソ連では最終的に弾圧されたのに対して、中国は現在に至るまでエスペラント大国であるという対照
中国では中ソ対立以降、国家がロシア語からエスペラントに乗り換えたそうです。
2007/07/08(日) 20:51:52 | URL | こうたろう #n08XGfOg [ 編集]


こうたろうさん、はじめまして。自然的に生まれてきた言語も、人工的に設計された言語も、長い時間の流れの中に置いてみれば、それほど大きな違いは無いと考えられるのではないかと思って書きましたが、エスペランティストの方から共感を頂けて嬉しいです。
2007/07/09(月) 19:39:01 | URL | きはむ #- [ 編集]