科学的なるものの概念
この記事は、「正しさは社会を良くするか」「無様なのはアンタだ」「「ニセモノ」ラベリングの意義と限界」の問題意識の一部を発展させて執筆したものです。
科学とは何か
「科学とは何か」(A)と問われる時、そこには常に、「科学とは何であるべきか」(B)という問いがはらまれている。私が問いAに答えて「科学とは〜である」と定義した瞬間に、その定義からはみ出すものは非科学=科学ならざるものとされ、決して科学と名指されるべきではないことになる。ここでは、問いAに答えることは、「科学と名指されるべきものはこのような条件を満たすものでなければならない」といった規範的限定を伴う規範的立場の表明を意味する。したがって、問いAが問いBから完全に独立して成り立つ事態は、およそ想定し難い。
BではないAを問うための一つの方法として、現実社会において「科学」という語彙がどのような意味で用いられているのかを分析した上で、様々な使用例から最大公約数的な「科学」の意味を取り出す仕方が考えられる。もっとも、現実に「科学」という語彙がXという意味で用いられていることが「科学とはXである」ことを必然的に意味するわけではなく、この定義に対する規範的な異議申し立て(「科学という言葉をそのような意味で用いるべきではない」)は有り得るから、この方法を採ってAに答える場合にも、「科学とはXを意味するべきである」という規範的主張としての性格が完全に消え去るわけではない。
ただし、「科学」という語彙が現実にどのような意味で用いられており、どのような機能を果たしているのかを把握するという限定された目的のためならば、「科学とはXである」と定義することに伴う規範的色彩は希薄になる。すなわち、そこで「科学とはXである」という定義を行うことは、「現実把握のために、さしあたり以下では「科学」という語彙をこのような意味で使用する」といった規約的定義を行うという「宣言」であるにすぎない。こうした定義は規約的なものであるから、「科学という言葉をそのような意味で用いるべきではない」といった規範的な異議申し立ては一般的に無効となる。もちろん、規約的定義に対しても「現実の把握のためにはそのような定義は妥当ではない」といった種類の批判は可能だが、これは規範的な異議申し立てとはひとまず異なるレベルに属する批判である。
そこで、限定された目的に供する規約的定義としてではあるが、問いAに対応する定義を私なりに提出しておこう。
科学とは、私たちが何らかの形で関わる世界の在り方を、何らかの方法によって解明し、論理的に説明しようとする営みである。
「何らかの形で関わる」とは、私たちが見たり、聞いたり、話したり、嗅いだり、触れたり、感じたり、考えたり、想像したりできればよいのであって、その対象が実際に存在しているか否かは問題ではない。「世界」とは、ありとあらゆる事物と現象の全てを指す。「解明」とは、そうした事象の性質・機能・原理・法則・関係などを明らかにすることであり、その方法として主に観察や実験、反省的思弁などが用いられるが、「何らかの方法によって」とあるように、その他の方法も用いられ得る。「論理的に説明」とは、何らかの根拠に基づいた思考の筋道が示され得るような方法によって、自己ないし他者が理解可能な形で現実を認識ないし伝達することを意味する。それは、世界の在り方について抱かれる「なぜ〜か?」という疑問を解くために有用な理屈を提示することであり、その説明が「真の」現実、あるいは「現実そのもの」と一致しているか否かは、問題ではない。
以上の定義によれば、かなり広範な営為が科学として把握されることになる。例えば、「去年、雨乞いをしたら雨が降ったから、雨乞いをすれば雨が降る」といった粗雑な帰納に基づく推測も、「神がおわすならば、われらは救われるはずだ」といった宗教的な前提に基づく演繹も、一定の根拠に基づいて論理的な説明を試みようとしている以上、多少なりとも科学としての性格を有していると言える。私たちはこれらと同程度か、もう少しだけ精緻な論理的説明を日常的に行っているから、私たち自身の日常生活の中に、科学的な営みは溢れ返っていることになる。科学的性格の濃淡は、当該の根拠およびそれに基づく説明に従うならば、現実をどれだけ合理的・整合的に理解することができるようになるか、という相対的な尺度によって測られるのである。哲学・倫理学・思想史研究・歴史学・文学・神学など、通常は科学として把握されることが相対的に少ない諸学問も、研究対象を精査した上で、最も合理的と思われる結論ないし解釈を提示して、その論理的な弁証を試みようとする点で、科学の外に出ることはない。
しかし、このような包括的に過ぎるようにも思える定義を用いるならば、科学ではないものを探す方が難しくなるのではないか、という疑問が抱かれるかもしれない。例えば、単なる勘に基づいた判断も科学的営為なのであろうか。確かに、勘は一種の根拠として捉えられるかもしれないが、勘から直接導かれる判断には、世界の在り方を解明・説明しようとする独自の論理体系が伴われておらず、その点で科学的性格を欠いている。また、特定事象に対する規範的判断および規範的主張は、世界の解明や説明から離れて実践に踏み込んだ営みであるので、科学とは言い難い。このように考える場合、倫理学が科学に含まれ得るか疑問が生じる。それは、最終的には科学からは離れると考えてよいだろう。だが、世界の特定の部分について発せられる「なぜ〜(べき)か?」という疑問を解くための論理的説明を試みるという点で、少なくともその過程において、あるいは中途まで、科学的性格を有すると言い得る。
科学と非科学の区別
さて、ここまでの私の説明に納得した人がどれだけいるだろうか。上記のような包括的な定義で満足する人は多くない。そうした人々は、「科学」という語彙の意味について、更なる限定化を求め、問いBの領域へと踏み込むのである。
問いBはしかし、いささか漠然としているので、そこで期待されているであろう答えが導けるような具体化を試みるならば、以下のように再構成可能であると思われる。「科学とは何を目的とするのか。そして、その目的を達成するために、どのような方法を採るべきなのか」(C)。
そこで、BやCに答えようとする者は、様々な基準を持ち出して、科学が科学であるための条件を限定化しようとする。持ち出される基準は再現可能性や反証可能性、可塑性、問題解決能力など多様であるが、実際のところ、そうした基準に絶対的なものは無く、科学と非科学とを明確に区別することは困難であるとされる*1。つまり、科学としての性質は程度の問題であって、科学と非科学の間には広いグレーゾーンが存在しているのであるから、両者を截然と区別するような境界線を引くことはできないのだと言う。
しかし同時に、「科学と非科学の間に区別を設けることができないと考えるべきではない」とも言われる。そうした主張は、次のような論法で行われる*2。
前提1:「ハゲでない人から髪を1本抜いてもハゲにならない」と、前提2:「髪が10000本ある人はハゲではない」を認めるならば、髪が10000本ある人から髪を1本ずつ抜いていった場合を考えることによって、「髪が0本の人でもハゲではない」という結論が導けるが、これはおかしい。ハゲの人とハゲでない人の違いは程度問題かもしれないが、両者の間には厳然とした違いが存在するはずである。そこで、前提1:「ある人から髪を1本抜いてもその人がハゲかどうかについての信念の度合いはほとんど変わらない」と、前提2:「髪が10000本ある人はハゲであるという信念の度合いは極めて低い」を設定して考えてみるならば、問題が解決できる。すなわち、髪が10000本ある人から髪を1本抜いたところで、彼がハゲであるかについての信念の度合いは「ほとんど」変わらないとしても、わずかの変化が積もり積もって、髪が0本になるまでには彼がハゲであるという信念の度合いが100%近くになっていることは十分考えられる。
同じことが科学と非科学の関係についても言えるだろう。つまり、科学と非科学の間に明確な境界線を引くことはできないにしても、幾つかの基準をチェックリスト的に用いることによって、どれくらい科学的であるかという程度を測ることはできる。そして、どの基準からもほとんど科学的性格が見出せないようなものは、明らかに非科学であると見做すことができる。したがって、科学と非科学の間にグレーゾーンが存在するからといって、両者を区別することはできないと考えることは間違いであり、両者の間には厳然とした違いが存在するのである。
科学/疑似科学と名指す欲望
以上のような論法には、説得力がある。私が用いた規約的定義の場合にも、定義=限定を行っている以上、そこから明らかに外れるものは「非科学」と名指されざるを得ない。何が明らかに外れるのかということを判断する基準が確定していないとしても、「科学」の定義から明らかに外れるものは「非科学」である、という想定は必然的に受け入れなければならない。その点で、科学と非科学の間に明確な境界線を引くことが困難であるとしても、両者の区別を放棄するべきではないという立場は、それ自体として妥当である。
しかしながら、私がここで考えてみたいのは、こうした立場を採る人々が「非科学」として「科学」から区別しようとしているものを、「疑似科学」や「ニセ科学」といった名前で呼び、それらが「科学」を「僭称」することを批判しているという事態についてである*3。
疑似科学やニセ科学として名指されるための条件は、「科学ならざるものでありながら、科学を自称するか、科学であるかのような装いをする」(Y)ことに求められるだろうと思う。伊勢田哲治や菊池誠は、こうした疑似科学ないしニセ科学の実例として、創造科学や占星術、ある種の代替医療、血液型性格判断、マイナスイオン家電、ゲルマニウム製品、ゲーム脳などを挙げている。だが、上で述べたような彼らの立場からすれば、疑似科学ないしニセ科学と名指されるような理論においても、ある程度の科学的性格が見出されることは有り得る。一般的には、それらは科学的性格が希薄であるとは言えても、科学的性格を全く有していないと言えるような場合はそれほど多くないようである。例えば創造科学について伊勢田は、「ほとんど科学と呼べない」とは述べていても、それが「非科学である」とか「科学ではない」などとは断言していない*4。
しかしながら、疑似科学ないしニセ科学をY(科学を僭称する非科学)のように定義したとするならば、希薄ながらもある程度の科学的性格を有しているものや、「ほとんど科学とは呼べない」かもしれないが、わずかながらも科学的な部分を備えているものなどを、疑似科学ないしニセ科学と名指すことは、厳密に言えば不正確であろう。もちろん、疑似科学ないしニセ科学を「科学的性格が著しく希薄であり、科学的であると見做し得る部分を極めて限定的にしか備えていないにもかかわらず、科学的性格を誇張するか、科学的と見做し得る程度が相当に高いかのような装いをする」(Z)ものなどと定義する場合には、それらはグレーゾーンを含んだ範囲を意味する用語として、「非科学」とは区別される。だが、伊勢田や菊池においては、どちらかと言えば、ZよりもYのような定義が堅持されているように見える。若干の不正確さを伴わせてまで、科学的性格が希薄ではあるが非科学であるかどうか不明確な理論を、非科学であることを想起させるような疑似科学ないしニセ科学といった語彙によって名指そうとするのはなぜなのか。
ハゲの例から考え直そう。そもそも、ハゲと非ハゲを区別しなければならない必然性は存在しない。頭髪の多少を観念するならば頭髪が全く無い状態も観念せざるを得ないが、そうした相対的な程度の違いを記述するためには、頭髪が多い/少ない/無いといった相対的な表現方法を用いれば足りる。したがって、頭髪が無い状態だけを指して特別の言葉を用いる必然性は無い。そこで頭髪が無い状態を指してハゲと呼ぶようになるのは、そのような特別の言葉を用いた限定的な指示を行いたいという欲望が存在するからである。
もし、ハゲという語彙が本来、頭髪が全く無い状態のみを意味したのであれば、頭髪が少ない状態を指してハゲと呼ぶのは不正確であるが、現在ではハゲという語彙はそのような意味で使用されている。それはおそらく、少なくとも現在では、ハゲという語彙によって名指すことを欲望されているのは、頭髪が無い状態から薄い状態までを含めた広い範囲であるということだろう。すると、ハゲという語彙の使用を支える欲望とは、頭髪が薄い状態を頭髪が無い状態に引き付けて解釈したいという欲望なのではなかろうか。
科学についても、基本的には科学的性格が濃いか薄いか、強いか弱いか、という相対的な表現が存在すれば十分であり、科学的性格が全く認められないものも有り得るであろうが、そうしたものだけを取り上げて名指すことにさしたる必要性は存在しない。しかし、ひとまず「非科学」という言葉が存在する。そして、「非科学的」という言葉が、おそらくは科学的性格が全く見出せないわけではないような理論に対しても使われることがある。それは、科学的性格が希薄であるものを、科学的性格を有しないものに引き付けて解釈したいという欲望に基づく行為なのではないか。
おそらく、疑似科学とかニセ科学などといった呼称は、そのような欲望をより直接に投影したものであろう。創造科学その他の科学的性格が希薄な理論を批判する際には、基本的には、「科学的性格が希薄であるにもかかわらず、科学的性格を不当な程に誇張している」と批判すれば足りるはずであるが、それを敢えて疑似科学ないしニセ科学と名指そうとすることが、特定の欲望ないし目的意識を体現している。
そうした欲望ないし目的意識の中心は、いわゆる疑似科学やニセ科学による科学の「僭称」がもたらす社会的不利益を極小化しようとするものであると思われ、それ自体として私も部分的に共有したいと思うものである。疑似科学とかニセ科学などといった名指しがなされ、科学的性格が希薄な理論が科学的性格を有していないものに引き付けて解釈される時、そこには前述の不正確さが伴うが、そうした不正確さは実践的な目的意識の前では瑣末な理論的齟齬であるにすぎないと見做されるのかもしれない*5。
しかしながら、私はそうした不正確さがはらみかねない危険性の方に目が行く。科学的性格が希薄ながらも全く存在しないわけではない理論が、疑似科学ないしニセ科学と名指され、ほぼ非科学と同義に解釈されることが一般化するならば、相対的であるはずの科学的性格の差異が絶対化され、科学と非科学の本質的な差異と見做されるようになってしまうのではないか。それは丁度、頭髪の相対的多少に基づくにすぎないはずのハゲという語彙が、何かそうした絶対的・本質的な人間的特徴を持つ集団が存在するかのような印象を伴わせて使われることがあるように。
おそらく、疑似科学ないしニセ科学という名指しによって、そうした本質主義的な想定を強化するような機能が生まれる事態は、いわゆる疑似科学ないしニセ科学による科学の「僭称」を批判する人々の目的意識から著しく遠い帰結である。だが、疑似科学ないしニセ科学という名指しを支える欲望には、そういった帰結を呼び込みかねない芽が全く存在しないわけではない。その芽とは、明確には指示することができないとしても、どこかに「真の科学」が存在するはず/べきであり、同時に決して科学と呼ぶべきでないものが確実に存在するという想定である。それは問いBに踏み込んだ以上、避けることのできない想定であるが、一つの規範的な立場でしかない。「科学」とは一つの概念であるから、その定義は一様ではないし、本質的に科学であるものや本質的に科学でないものなど存在しない。それにもかかわらず私たちは「科学とは何か/何であるべきか」と問うた瞬間から、科学なるものと科学ならざるものを分けて考えてしまい、そしてそうした区別は、しばしば本質主義的な区別に傾きやすいのである。
もちろん、Bを問うことが、必ず本質主義に傾くわけではない。しかし、疑似科学とかニセ科学といった用語は、「これは科学だ」「これは科学ではない」といった明確な断定に傾きやすい私たちの本質主義的な欲望を刺激し、そうした欲望によって利用されかねないという危険性を伴っている。それゆえ、科学的性格が希薄な理論を特に名指したいならば、疑似科学とかニセ科学といった非科学を想起させるような語彙を用いるのではなく、より正確な別の表現を用いるべきである。私には巧い代替案が思い浮かばないが、例えば「未成熟な科学」などのような相対的差異を前提とした呼称が望ましいと思う。
科学を科学の外部に基礎づける
最後に、科学とその外部との関係について考えてみよう。「科学の成果をしつけや道徳の論拠として用いるべきではない」などと言われることがあるが、これは間違っている。事実から価値を導くことはできないとしても、事実を提示することによって、価値にかかわる説得の論拠にすることはできる。例えば、人の命は一つしかないから命を大切にしなさいとか、人生は一回きりだから後悔が無いように生きなさいなどと言われることがあるが、これらは特定の事実を特定の道徳の論拠に用いている。人間が一度死んでも生き返ることが可能であれば、こうした道徳的言明の説得力は変化し得るが、だからといってこうした論法が妥当でないということにはならないであろう。ある道徳を正しいものとして受け入れるかどうかは、各人が自らの頭で考えることであるが、その過程で科学の成果を参考にすることは有り得るのである。
したがって、科学はその外部で行われる規範的な議論とも深くかかわっている。科学の目的を何に求めるべきかは規範的な問いに属するが、ここではひとまず最大公約数的な理解に基づく規約的な仕方で、それを「世界の在り方についてのより合理的・整合的な理解をもたらすこと」に求めておこう。これは科学そのものの、つまり科学に内在的な目的であり、科学的営為の成否は、まずこの目的を達成した程度によって測られることになる。これを(1)真理性のテストと呼んでおこう。
科学の成否はひとまず(1)によって測られるが、通常はそれだけでは済まない。科学は次に、それがいかなる利益に資そうとしているかという志向性によっても評価される。それは、a.自己の利益、b.特定の他者の利益、c.特定の集団や社会の利益、d.人間一般の利益、e.人間より広い範囲の存在の利益、いずれの目的に従うのかはともかく、科学それ自体の外部に位置する何らかの目的に役立つことを目指す限りにおいて、社会的に有意味であると見做される。学問とは、科学的な研究を体系的・専門的に行う営みであるが、純粋に科学内在的な目的のみに従い、真理性を高めることを追求するような学問研究者は、通常は専門家と言うよりも好事家に分類される。ふつう専門家とは社会的に有意味な専門性を備えた者を言うが、好事家も専門家であることには違いが無いから、社会的に有意味な専門的研究を行う者を「社会的専門家」、自身の知識欲や好奇心のみに従って専門的な研究を行う者を「好事的専門家」と呼んでおこう。社会的に有意味な科学と好事的な科学とを分けたり、前者の内部における志向性の優劣を評価したりすることを、ここでは(2)志向性のテストと呼ぶ。
さらに、本来の志向性にかかわらず、それがもたらす実際の帰結によって科学的営為を評価することを(3)帰結のテストと呼ぼう。主観的には好事的であるにすぎない専門的研究も結果的に莫大な社会的利益をもたらすことが有り得るし、世のため人のためを思ってなされた専門的研究が、とてつもない害悪をもたらすことも有り得る。科学は、その成果の提示ないし活用によって現実に働きかけるが、その働きかけの帰結に従って、科学にとっての外部的観点から評価されることになる。(3)によって否定的な評価を下された科学的営為は、ふつう成功したとは言わない。あるいは、科学に内在的な目的にとっては成功しても、科学にとっての外部的観点からは失敗したと見做されたことになる。このフィードバックによって、科学は自らを反省し、修正を試みるのである。
ふつう専門家と呼ばれる場合に、単なる知識欲と好奇心のみに従って研究を行う好事家が想定されないのは、専門性には社会的意義と責任が求められるべきであると考えられているからである。そうした意義と責任は、(2)および(3)のテストに基づいて測られたり求められたりする。社会が専門家に学問=専門的な科学的研究を許すのは、それが社会的な意義を持ち、その帰結に責任を負う限りにおいてである。その意味で、科学/学問/専門性とは、自らの外部の価値に基礎付けられなければならない。自らの外部の価値に無頓着な科学は、ただ趣味に属するのみであり、社会的な支持を得ることを望み難い。
科学/学問/専門性がその外部に基礎付けられなければならないということは、それが自らの外部に存在する認識や価値を批判してはならないということを意味しない。科学はむしろ、自らの外部に存在するものを積極的に批判することによって、現実への働きかけを絶えず行うべきである。科学は自らが生み出した成果によって既存の社会を破壊することもできるし、必ずしもそれを控えるべきではない。だが、同時にそうした営為も(2)や(3)によって評価され、時に批判される。それは専門性を支える社会の側からの専門性への批判であり、そうした批判に臨んで科学/学問/専門性は反省と修正を迫られる。そうした相互批判が建設的に機能するような構造を形成・維持することが重要なのであって、専門性に学ばない社会と、現実の社会に学ばない専門性とは、共に唾棄されるべきなのである。
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*1:伊勢田哲治[2003]『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会。
*2:伊勢田[2003]、9頁、259‐260頁。
*3:伊勢田[2003]。菊池誠「視点・論点 まん延するニセ科学」(http://d.hatena.ne.jp/f_iryo1/20061221/shiten)。菊池誠「「科学とニセ科学」レジュメ(ver.2)」(http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/pseudo_resume.html)。
*4:伊勢田[2003]、261頁。
*5:もちろん、そうした不正確さなど存在しないという立場が主流なのかもしれない。それは、疑似科学ないしニセ科学の定義としてZに近いものが採用されるからかもしれないし、そもそも非科学とはそれを非科学であると見做す「信念の度合い」が100%に近いことによって非科学なのであり、必ずしも100%でなくても非科学であると見做して問題ないと考えられるからかもしれない。しかし後者の場合、それは「厳然とした違い」によって科学と非科学を区別できたことになるのだろうか。