いのちの授業への違和感
2006年 06月 14日
NHKの朝の番組 生活ほっとモーニング(?),いのちの学習というテーマで
ある中学校の養護教諭の授業をとりあげていた。
彼女は,乳がんになって手術をうけてから,いのちの授業をやりはじめた。
友達を大切にすることって何か,生きるってどういうことか考えさせたいと彼女は言う。
小児麻痺で体の動きが不自由な書家を招いて字を書いてもらうとか,
元ハンセン病の人のところを訪れて,話を聞くとか,
あるいは彼女自身が,乳がんと向き合う話をするとか,
そんなことを総合学習の時間にやっていた。
けれど乳がんが再発して,今はまた休職中。
お見舞いにやってきた生徒に励まされて,仕事に戻ることを決意した
と,そこまでが番組の内容。
司会者やゲストは,大事なことを教わって生徒達は幸せだと口々にいう。
わたしは違和感を感じてしまった。
調子が悪かったとき,わたしもいのちのことを授業でとりあげていた。
ホスピスの仕事に向かう人のビデオを見せたり
ホロコーストで死んでいく人の手記を読んでもらったり・・・
でも,その授業でわたしは真剣になり,授業を聞かない生徒のことを怒っていた。
今考えると,こそばゆい。
考えを押し付けているという生徒の声を無視していたかもしれないから。
これは道徳の授業じゃないかという声を無視していたから。
思想や信条の自由を語りながらも,教員が熱心さのあまり,生徒の心にはいって
いこうとしてしまう一種の怖さを今,とても強く感じる。
いき方を考えさせたいからといって,ある事例を挙げて解説するというのは,
心の問題のおしつけと紙一重だ。
ここには,教員自身が正義を語らないという緊張感がいると
今のわたしは思う。
感じてもらうことが大事といいつつ,そこに力点が置かれてしまうと
判断がおろそかになる。
わたしの仕事は,考える人・判断できる人を育てることにある。
「よき人」をつくることではない。
わたしにとってもこれからの授業の課題だ。
内心や思想の自由をどう守っていくかが,今こそ大事なのだから。
ある中学校の養護教諭の授業をとりあげていた。
彼女は,乳がんになって手術をうけてから,いのちの授業をやりはじめた。
友達を大切にすることって何か,生きるってどういうことか考えさせたいと彼女は言う。
小児麻痺で体の動きが不自由な書家を招いて字を書いてもらうとか,
元ハンセン病の人のところを訪れて,話を聞くとか,
あるいは彼女自身が,乳がんと向き合う話をするとか,
そんなことを総合学習の時間にやっていた。
けれど乳がんが再発して,今はまた休職中。
お見舞いにやってきた生徒に励まされて,仕事に戻ることを決意した
と,そこまでが番組の内容。
司会者やゲストは,大事なことを教わって生徒達は幸せだと口々にいう。
わたしは違和感を感じてしまった。
調子が悪かったとき,わたしもいのちのことを授業でとりあげていた。
ホスピスの仕事に向かう人のビデオを見せたり
ホロコーストで死んでいく人の手記を読んでもらったり・・・
でも,その授業でわたしは真剣になり,授業を聞かない生徒のことを怒っていた。
今考えると,こそばゆい。
考えを押し付けているという生徒の声を無視していたかもしれないから。
これは道徳の授業じゃないかという声を無視していたから。
思想や信条の自由を語りながらも,教員が熱心さのあまり,生徒の心にはいって
いこうとしてしまう一種の怖さを今,とても強く感じる。
いき方を考えさせたいからといって,ある事例を挙げて解説するというのは,
心の問題のおしつけと紙一重だ。
ここには,教員自身が正義を語らないという緊張感がいると
今のわたしは思う。
感じてもらうことが大事といいつつ,そこに力点が置かれてしまうと
判断がおろそかになる。
わたしの仕事は,考える人・判断できる人を育てることにある。
「よき人」をつくることではない。
わたしにとってもこれからの授業の課題だ。
内心や思想の自由をどう守っていくかが,今こそ大事なのだから。
by KATEK
| 2006-06-14 21:54