2022年 02月 16日
【詩集】 母と、) |
台所の蟻
波はやはりそこまで
届いていた いつの間にか
夏になっていて
台所に蟻が姿を見せる
水や熱湯で
流せるものをすべて流した あの日より
食べものはあるのに
蟻は別の場所へと消えてゆく
丘で死んでいた魚の臭いも
たくさんの蠅も
もう覚えていない
洗濯をし 二人で
朝食をしたため
雨戸を閉め
部屋を紫色にしてわたしは
夜まで眠る
それから起きて冷たい
体のまま仕事へ行き
光を見るまで汚れものを洗う
まるで秋のようなある朝
今日は蟻は出ないよ、と
母は話す
T駅
背を向けて君は
静かに眠っていた 泊まる場所が
見つからなくて 電車とタクシーを乗り継ぎ
国道沿いの安宿に着いた 月だけが君と
街を照らし サッカー場にはもう
靴音もなく蟻もいない みんな
可愛い うさぎになって
小さな声で唱ってみる
右耳は聞こえないから
起こすことはないだろう
明くる朝は早すぎて
まだどの店も開いていない 片付けられた
居酒屋の紫の暖簾
調味料の看板
今日は特急が止まらない
君住む町へ続く電車と
道端の草
タンポポ
ハルジオン
ショカツサイ
ハナニラ
カラスノエンドウ
ヤッカダイガク
オランダミミナグサ
イチバンチョウデイト
オフサイドラインアウト
ペナルティ
アンマク
カイエンノベル
シバノジョオウ
ヒラツカノパン(*)
コーヒー
ドーナッツ
歩きながら
わたしたちも
いつしか
(あの頃の、
わかいふたりに
スタジアムの
ハンバーガーショップから
音楽が聞こえてきた
(*かつて仙台にあったパンと洋菓子店の名。東北薬科大勤務だった父母は、二人で映画を見てひらつかでドーナツ食べて100円だか200円だったそうだ)
竹の花
そちら側しか見える物がない
いつも右ばかりを向いて横たわっている
わたしはほそい 金属片の
音色の鈴を 母の
目の前に もともと左は
聞こえないから
枕でふさがれた耳には
届かない 紫の紐が揺れているのが
ぼんやりとわかっただろうか 白い
建物を出ると
曇天でやや蒸し暑い
石楠花やポーチュラカの花が
駅までの道に咲いている
電車に乗っている間にも
庭の草花は刻々と育ち
木立が縁側に陰をつくる
途中でハンバーガーを食べ
英語の名の柑橘を買い
タクシーで
紫陽花が枝を伸ばす家に帰った
あなたは緑の手を持っていた
夏には庭の竹に花が咲いた
MITROPA
市場近くの駅で降りる たくさんの
魚を売っているのに なぜか蠅がいない
いつもの
ハッピーバースデーを唄いながら
ではなく鰯と
鈴を手にして
友が近づいてきた 古い
管理人のいるエレベーターに乗り込むのに
靴の音しかしなかった
ワインは注文してあった
年代物のジュリエナス わたしは
鰯をおろしていて いつ
それが出されたのかわからない
友は写真家だから
かつてホテルで
裸を撮られた 陸に揚がった
魚のように
川沿いの
この部屋はつねに汽船の音がする
小鳥が訪れるベランダの
熟したオリーブの実が揺れる
皿は竹の子のマリネと
兔のブレゼ なぜ
わたしにその鈴をくれたのかは
尋ねることができなかった
食後にフォーレの
レクイエムをかけてもらった
耳がどうしてもそれを拒んだ
食卓
思い出す食卓がある
水泳ぎした昼寝のあとのチャーハン
アジシオを入れたきゅうりとちくわの和え物
昨夜も今日も魚の鍋だった
グラタンやステーキがまだごちそうで
豚肉の脂身を我慢して呑み込んだ
今では庭で少しの野菜が採れる
いつも新鮮な豆やトマトが
ブルゴーニュの赤もあって
今日はゲランドの塩とペンジャの胡椒で
つなぎ無しのハンバーグを作る
紫のキャベツを付け合わせて
なのにわたしは
さみしい場所に来てしまった
とてもさみしい場所まで来てしまった
あの日々、食卓にいた
すべての母から
置き去りにされて
(6時50分、
おおきな音がして 辺り一面
しろくなった 波が
押し寄せて 傾いたきり
首は戻らないだろう (*服は
水に濡れると とても
重いのです
ゆっくりと
野道をゆけば
いつのまにか
子どもたちがあふれて
すべての花を
摘んでいる 小鳥はもう紫の
雲へ吸い込まれ
踏まれた兔と
春の目覚め 汐が
満ちる前の
これが
あなたの
ひきおこしたことならば
わたしは行きます
流れの中の
もっと深いところへ その
紐だけをつかんで
*2016年 クリスチャン・ボルタンスキー展『アニミタス──さざめく亡霊たち』(東京都庭園美術館)より
鈴が鳴る
おててつないで もう
小鳥のことはわすれましょう 何を
話しましょうか 冬のあいだは
歩く練習をしていました コルクの臭いを
嗅いでいたのです
《土手の幹 だいぶ
芽吹いた君の手と》 ほそい
紫の紐をたぐって
わたしはこのまま夜の先へ
あなたはまだ
生きていて紙を前に
筆をとる 子どもは傍らで
今でも花を食んでいます どうか
そこに波が
届きませんように
光がつよく
差しませんように
ここはわたしが生まれる
場所なのですから
歌でも
唄いましょうか
春の風にあおられて
きょうも
鈴が鳴る
*《》内は徳永未来の回文
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by stcl
| 2022-02-16 18:01
| 詩/collaboration