2012年8月22日 (水)

残暑お見舞い申し上げます

「夏とはこんなに暑いものか!?」とは毎年感じることだけど、今年も余りの暑さにかなりへばっている。

職場で「(あれこれとすることがいっぱいあって)しんどいなぁ~」と思わずつぶやく私に、「えっ!○○さんでもしんどいと思うことがあるのですか!」と若い同僚に言われ驚く。
(そりゃぁ、あなたの親ほどの年齢なのに、しんどくないはずはなかろう?)
まぁ、職場で疲労を隠せるほどの元気は残っているということか・・・?

その(かろうじて残っている)元気を支えている要因に食欲があると思う。
毎夏減退し体重も落ちるのに、今年はどういうわけか何でもおいしく食べられるし、体重も少しばかり増えた(これは困ったこと)。

我が家の夏の食卓に欠かせないのはスイカとゴーヤ。
お盆に帰ってきた末っ子に、「何が食べたい?」と聞くと即座に「ゴーヤチャンプル」と返ってきた。
成長期、和洋さまざまおいしいものを食べさせてきたと思うが、ゴーヤチャンプルのリクエストとは意外で、「この子も大人になった」と改めて感じさせられた。

というわけでゴーヤメニューを3種アップ。
まずはから揚げ。レモンではなく柚子酢(と塩)を少し振るのが好み。
から揚げ

リクエストで作ったゴーヤチャンプル。
ゴーヤチャンプル

常備している塩麹の浅漬け。胡瓜と長芋、ゴーヤとの取り合わせが歯触り良くおいしい。
塩麹漬け

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2012年7月25日 (水)

『七十歳死亡法案、可決』

好奇心にそそられ買ってしまった小説。垣谷 美雨著『七十歳死亡法案、可決』

『七十歳死亡法案、可決』内容(「BOOK」データベースより)
2020年、高齢者が国民の3割を超え、社会保障費は過去最高を更新。破綻寸前の日本政府は「七十歳死亡法」を強行採決する。2年後に施行を控え、宝田東洋子(55)は「やっと自由になれる」と喜びを感じながらも、自らの人生の残り時間に焦燥感を隠せずにいた。我侭放題の義母(84)の介護に追われた15年間、懸命に家族に尽くしてきた。なのに妻任せの能天気な夫(58)、働かない引きこもりの息子(29)、実家に寄りつかない娘(30)とみな勝手ばかり。「家族なんてろくなもんじゃない」、東洋子の心に黒いさざ波が立ち始めて…。すぐそこに迫る現実を生々しく描く。注目作家、渾身の書き下ろし小説。
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この本のことを知ったときにまず浮かんだのは愛読書、『楢山節考』深澤七郎著。
現代版『楢山節考』をいかに描いたのかを、確かめずにはおられなかった。

『楢山節考』に登場する、まもなく70歳になる「おりんばあさん」は、死を(それが村の因習による強制的なものであっても)自然の習いとして凛として受け入れる。
私にとって「よく生き、良く死ぬ」のある意味お手本ともなっている。

さて、『七十歳死亡法案、可決』。今や70歳での死亡は「若死に」の感がある。
この年齢で自分や家族の死を受け入れられる人がいるだろうか?
85歳とか90歳での設定であれば、もう少し感情移入できたかもしれない。
(もちろん法で死を強制されることは絶対認められないけれど)

それぞれ現代を象徴するようなキャラクターの言動も、どこかしっくりこない。
心深く入ってはこないが、ストーリー展開を追う楽しさはあり一気に読んだ。
しかし・・・ハッピイエンド好きの私でさえ、余りに「でき過ぎ」の話ではあった。

ネタバレは避けたいが、つまるところ現代版『楢山節考』ではなかった、ということだけは書いておこう。

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2012年7月18日 (水)

あとからあとから人波切れず

さようなら原発10万人集会「さようなら原発10万人集会」、行って来ました。
猛暑を覚悟の東京行き。リュックの中には凍らした500ccの水が3本。着替えのTシャツ、そしてプラカード。水は飲用と、首に巻いた冷却マフラーを浸すため。

不案内の東京ながら何とか11時頃には会場に到着し、第4案内カーから道路を隔てた木陰に座り込んだ。
前にある幅の広い道路はメイン会場への通り道になるので、私の前を途切れることなく人々が通る。
中高年の男女あり、若いカップルあり、子どもを交えたファミリーあり、ベビーカーを押すママあり・・・。
プラカード類を手にする人も結構いたものの、その人たちから受ける印象は、時たま休日に訪れる堺の大泉緑地公園で出会う人たちと同じ。

今日のお休みは、プールや他の公園、あるいは家での読書などで過ごすのはやめて「さようなら原発10万人集会」に来られたのだろうな、と感じられるごくフツーの人たち。

そのごくフツーの人たちがゾロゾロゾロゾロとメイン会場へと向かう。
12時になっても、1時になっても、1時半になってもその人並みは切れない。

第4案内カーからスピーカーを通して聞こえてくる、反原発団体や原発現地からのメッセージも興味深いのだけれど、私の視線はずっと前を通り過ぎていくこのフツーの人たちにくぎ付け。
「抗議行動!」といった非日常ではなく、「原発はいらない」という気持ちから当たり前の日常として集会の一員となっている(と感じられる)無数の人たち。
その人の群れを見ながら、ヒタヒタと胸に満ちてくるものがある。
当たり前のように、「自分は原発はいらない」と意思表示する人たちがこんなにいるって、もしかしてスゴイことでは!?

もはや日常なのだから、彼、彼女たちはまた次の意思表明の機会にも、そしてまた次の機会にも参加するだろう。
政府としてもいつまでも無視することはできないだろうから、反原発、脱原発が実を結ぶのはそんなに遠いことではないかもしれない!?

私は単身参加だったけど、集会でもデモ行進でもお隣の人たちと話がはずんだ。
福島出身で現在アメリカ在住の方は、「9月にアメリカに帰ると何も参加できないから」と言われていた。
群馬の若い女性は、デモの時「シュプレヒコールの先導」にチャレンジされ、その初々しさがとても素敵だった。
群馬の女性や、静岡、埼玉、名古屋の方たちとは解散後にお茶をご一緒し、これまた楽しい時間だった。

そんなかんやで17万人の内のひとりであったことも含めて、とてもHappyな1日だったのでした。

画像は集会での私。隣の人が頼みもしないのに?撮ってくれた。

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2012年7月11日 (水)

プラカードはこれで

「さようなら原発10万人集会」において、10万人の内のひとり、いや100,001人目となるべく、この16日は東京に行く。
動きが鈍い自分がそう思い駆けつけるのだから、もしかしたら参加者はどんどん膨らみ私は150,001人目とか200,001人目とかになるかも・・・?

自分もどこかで意思表示を!とは思いつつ、近場の「関電本社前抗議行動」は、夜まで仕事の曜日に当たるので行けない。
ふと目についたのが、「さようなら原発10万人集会」。
この日なら参加できる!と即、決めてしまった。

おかげで、またもや東京へのとんぼ帰り。
「東京暮らし」へのあこがれは淡いものだけど、じっくり観光(文化、芸術鑑賞も含めて)してみたいという気持ちは大いにある。1度は、はとバスだって乗ってみたい。
ところが、どういうわけか私の東京行きはいつも目的直行直帰。
東京に住む友にさえ、東京では会えたこともない(-_-;)

No Nukesとはいえ、似たような状況の人たちもいっぱい16日には集まるのだろう。
東京という地に縁は浅くとも、思いが同じの人たちとの縁は結びたい。

こんな帽子をかぶり、このプラカードを持っている人を見つけたら、それは私です。
声をかけてくださいね(*^。^*)

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2012年7月 8日 (日)

4時間の至福

旅芸人の記録ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の訃報が1月に伝わった時は衝撃だった。
死というものは、人を選ばず突然訪れることがある。
そのことはわかっていても、いつもいつも中々受け入れにくい。

日本で公開されたアンゲロプロス作品は、ほとんど観ている。
おかげで「ギリシャ」でイメージされるのは、霧にけむる寒色の情景、あるいは小雨にぬかるむ土道、そしてエレニ・カラインドルーの抒情的な音楽だったりする。

新作を観ることはもはや叶わないものの、必ず行われるであろう「追悼上映」を楽しみにしていた。ところが映画館でもテレビでもちっともその気配がない・・・。

そして半年。大阪での「突然の追悼上映」の案内を見つけた。
何とか時間を調整しての鑑賞は、代表作『旅芸人の記録』

『旅芸人の記録』Wikiより
旅芸人の一行が19世紀の牧歌劇「羊飼いのゴルフォ」を上演しながら、アトレウス家の古代神話を基にギリシャを旅し、1939年から1952年の歴史と政治史が旅芸人の視点から語られる。「現代ギリシャ史と風景を横断する旅」をテーマとし、ギリシア神話に依拠した、叙情詩的、叙事詩的な作品である。

夜6時半からほぼ4時間にわたる長編であり、過去に幾度か鑑賞もしているので「眠気が襲うかも?」との予想は全く当たらなかった。
正に至福の4時間。
すっぽりとアンゲロプロス監督の世界にはまり込み、現実世界のことはすべて遠のいた。
感情移入ではなく、「寄り添う」という感じ。
かつて幾度か観たときにそのような感覚はなかったので、自分が年を重ねたことも関係しているのだろう。

アンゲロプロスが作り出す人物、情景、音楽、ストーリー。
そして、歴史とそれらが織りなすハーモニー。
ここに身を置き、心を寄り添わせることの心地よさ。

76歳で逝かなければならなかったアンゲロプロスはさぞ無念であったろうが、改めて心からの感謝を捧げたい。すばらしい作品をありがとう!

余談をひとつ
このポスター、「譲ってほしい!」と映画館でお願いしたけど、「古いもので上映終了すれば返還しなければいけない」と断られた。残念。

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2012年7月 4日 (水)

原発はいらない

友達だったら距離をおく。
恋人だったら「さようなら」
夫だったら離婚。
親だったら限りなく恥ずかしい。
子どもだったら限りなく情けない。
そのどれでもないのが幸い。
それでもテレビに映る顔を見、声を聞くだけで不愉快になる。

「総理に届け!」とほとばしらせている、心からの願い、訴えの声、声、声を「音」と受け止める感性。
彼にとっては、総理官邸を取り巻く幾万もの人々は、おそらくただの「烏合の衆」で、「守るべき国民」ではないのだろう。

その「烏合の衆」は、まぎれもなく「国民」であることを気付かせる。
その「国民」たちすべてが原発のない暮らしを要求していて、その要求を受け止めるのが自分の仕事であることを理解させる。
仕事をまっとうできないのなら職を退いてもらう。

その為に何度でも何度でも繰り返し声を上げ続ける。

その思いは強いのに、定例の金曜日は夜まで仕事で、地元の大阪関電本社にさえ駆けつけることができない。

それでも、16日の「さようなら原発10万人集会」に参加できるめどはたった。

6月に参加したペシャワール会現地代表の中村哲医師の講演会で、中村哲氏は原発関連の質問を受け「(自分は古い言葉しか知らないが)原発を推進する人たちは(国を滅ぼす)国賊」と明言された。
「国賊」という表現はピンとこないけど、日々の暮らしを滅ぼし、命を滅ぼし、土地を滅ぼし、国を滅ぼすのが原発だということはよくわかる。

金曜日に動けない分、16日にはおもいっきり大きな声を上げたい。
プラカードはどんなものにしよう?

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2012年1月 1日 (日)

恐るべし1歳児

皆さま、どのような新年をお迎えでしょうか。
2012年は、穏やかで一人でも多くの人が希望を感じられる年になりますようにと強く願います。

ほったらかしのブログに久々の記述。年の始めだからというわけではなく、どうやら4か月ぶりに更新されたkojiさんに刺激されたようで、とりとめない日常のことだけど書きたくなった。

今年もドイツから娘とその小さい子二人がやってきている。
原発事故発生後は「もう(少なくとも小さい子たちは)再び日本に帰ることはない」と娘は言っていたし、私の方もリスクのある地に招くつもりはなかった。

むろん"収束"の安心感などないけれど、"小康状態"と判断したのだろう、今回も帰ってきてくれた。
それでも食材の産地には敏感で、放射能汚染を恐れていることがよくわかる。
たった1ヵ月大阪に滞在するだけで、小さい子をもつ親として神経をとがらせている。
福島やその近隣で子育てをしている親の不安や焦燥、怒りはいかばかりだろうか・・・

iPadを相手に


さて、年末から小さい子2人(プラス息子の子)にひっかき回されっぱなしの日常を過している。
1年に1回きり(それもいつまで続くことか・・・)なので、あえてひっかり回されようと覚悟を決めている、ということなのだけど。

1歳の子の鳴き声の大きさにも驚かされるが、さらに身を見張るのが時に見せる一人遊び。もちろんおもちゃを手にする時もあるのだけど、大好きなのがiPhoneやiPad。
「タップ」や「フリック」もお手のもので、小さい指をサァーと横に動かしトントンとたたいてアプリも表示させるし、お気に入りの音楽も鳴らす(レディー・ガガが好きらしい)
まだあやしい片言しか話さず、歩き方もおぼつかない月齢だというのに!
娘がiPhoneを入手したのは10月だから、2か月足らずでの習得ということになる。

恐るべしは今どきの1歳児?
はたまた、1歳児でも感覚的に操作できちゃうマシーンを世に広めたスティーブ・ジョブズ氏?
iPhoneは1番のお気に入り
お気に入りのレディ・ガガを聞きながら・・・

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2011年8月 4日 (木)

馬のボロは落下物

木曜日は仕事が休みで、唯一乗馬クラブに行くことができる曜日。
レッスンは馬を馬小屋から馬場まで引いて行くことから始まる。
(もう少しレベルが上ると、その前に馬の手入れがあるらしい)

今日も時折り風が吹き抜けるとはいえ、ギンギラの陽射し。
ヘルメットの下から汗がしたたり落ちる暑さだけど、ちっとも気にならない。
クラブにたどり着くまで炎天下での30分自転車走行の後では、「こがないでも動いてくれる」馬の背は快適その物だもの。

45分のレッスンは、「わかりかけたかな」と思うと、もう終わり。
その次のレッスンはまた「わからない」からスタートして、「わかりかけたかな」で、やっぱり終り。
そんなわけで、ちっとも腕は上らない。

レッスンが終わった後は、インストラクターや同じレッスンを受けた人たちとのミーティングがある。
「どんな質問でもいいですよ」となじみになったインストラクターが言うので、以前から気になっていたことを聞いてみた。

馬に上手に乗れるようになったら、(車の代わりに)馬で道を走りたい、とかなり本気で思っている。
できる人から、自分にできることで少し昔の生活に戻っていくことで、脱原発も実現するような気がするし。
もっとも実際は、経済的なハードルが高すぎて、私が馬を所有することはないだろうから、「(車の代わりに)馬で道を走ることを人に薦める」をめざしているのかな?

何はともあれ、馬は「軽車両」扱いで、公道を走ることができることは確認した。

でも、その「馬力の利用」に関して、不明な点がある。
馬のボロ(糞)や尿は、半端な量ではなく、もちろん時や場所を選ばない。
では公道でそれをやってしまうと、どうなる?

「上達する為のポイント」など技術的な質問ばかり出るミーティングで、この類の質問をするのは私だけだけど、そのインストラクターはいやがらずたいてい明快な回答をくれる。

今回の質問に関しては、
馬は軽車両扱いだから、ボロや尿はいわゆる「落下物」。
運転者が責任をもって始末すればそれでよしだろう、とのこと。
なるほど!落下物か・・・。

だけどボロはともかく、あの莫大な量の尿の始末はたいへんだろうなぁ。
騎馬警察なんかには、専門の「処理」班がいるのかな?
もっと突っ込んで聞いてみたかったけど、さすがにそれはちょっと遠慮。
他のレッスンメイトには、全然興味ないことみたいだったし、ね。

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2011年7月31日 (日)

夏の絶品大人デザート

夏にはめっぽう弱い。
エアコンがまだ余り普及していなかった若い頃は、食事も満足に摂れず毎夏2、3キロくらい体重を落とした。
今では、何とか夏を乗り切ることができるのは、何よりエアコンのおかげ、と思っている。

今年の夏(というよりこれからずっと。だってもう原発はこりごりだもの)は、万民に「節電」の覚悟がいる。
エアコン頼みの私と言えども、まだ高齢でもないし使用は最小限にとどめている。
そのせいか(あるいは加齢のよるもの?)、どうも眠りが浅く食欲も乏しい。

食事は摂るけれど、おいしいと感じられるものがほとんどない。
大好きだった季節の果物にも、なかなか手が伸びない。
(ビールも欲しくないのだから、かなり重症かも・・・?)

ところが昨日何気に作ってみたものを、食べてみると、これが実においしい!
2口3口と運ぶたび、バテた身体に、そっと力を吹き込んでくれる気さえする。
それがこれ、ロートグリュッツェ。
ロートグリュッツェ

ドイツ料理店で、デザートに食べたことがある。
さまざまな種類のベリーを赤ワインで甘く煮て、アイスクリームが添えられていた。

たまたま、生ブラックベリーが手に入り、自分で作ってみることを思いついた。
ネットのレシピを参考にしながら(かなり自己流も加えて)
・生ブラックベリーや冷凍ミックスベリーを水少しと多めの砂糖で煮る(12分くらい)
・そこに赤ワインとミカンジュース(100%)を同量(1カップくらい)加え、水溶きコーンスターチで少しとろみをつける。
・バニラアイスクリームを添えて「いただきます!」

アイスクリームは特に好きではない私だけど、これは「夏の絶品大人デザート」として推したい。

生ブラックベリーを画像に納めておかなかったのが残念。
真っ黒のつぶつぶだったのが、火を入れると赤くなった。

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2011年7月21日 (木)

きょうは馬の日

初めて馬のことを書いたとき、もりゆさんからコメントをいただき「馬は美しい」とあった。
唐突に乗馬を始めて3ヶ月、技術的な進歩はほとんどないけれど、ちょっぴり気持ちの余裕は出てきたみたい。
もりゆさんが言われるように、本当に「馬は美しい」ことがわかってきたもの。

7月にしては、今日は最高の乗馬日和。
ギラギラとした陽射しはなく、そよぐ風は涼しく、足場は固くも柔らか過ぎることもない。

サークル状の馬場、グループレッスンの仲間全員が騎乗するのを馬の背で待つ間、前にいる馬の美しさに見とれた。
堂々とした体格の姿かたち、光を帯びたかのように輝く毛並み、凛とした美しさと気品。

一方、馬上の「人」に視線を移してみると、姿勢は正しているものの、その姿からは「弛緩」が漂う。
馬の張りつめた筋肉と気品、人のたるんだ贅肉と精神は余りに好対照。
これはもちろん、前の人のことではなくその姿に自分を見てのこと。

「人馬一体の醍醐味を味わう為には、自分がこれではダメ、だな」と感じる。
乗りこなす技量だけじゃなくて、一体の「美しさ」が欲しいもの。

引き締まった身体と引き締まった精神で、馬といっしょに駆ける!

いつか、そんな日が来ることを楽しみに、何度トライしてもいつも半端で止めちゃっている、ジョギング(アンド トレーニング)に再チャレンジしようと、またまた考えている。
馬のためなら、今度は続くかな?

そうそう、馬に見とれているときに、「ミスター・エド」のことも思い出した。
小さいときにテレビで見たアメリカのテレビドラマで「馬がしゃべる、そんなパカな♪」というテーマソングも覚えている。
コメディだったと思うけど、馬はどんなことをしゃべっていたのだろう?
もう1回見てみたいな。

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