2018年 縄文展@国立博物館に行って考えた妄想ひとりごと

2005年8月6日に三内丸山遺跡に行きまして、この目的のわからない巨大建造物を見てきました。
すっかり失念していましたが、三内丸山の展示館には縄文人がどんなだったか人形や、
衣類をつくった鹿の骨の針とかが展示されていたようです。ちゃんとお裁縫してたのね。
連日盛況で黒山の人だかりの縄文展@国立博物館に行ってきた。
縄文と言えば、三内丸山遺跡に2回ほど行ったことがあって、遮光器土偶と火焔式土器が好き。
最近NHKの縄文展関連番組を見たり『縄文人に相談だ』(望月昭英著)も読んだりして
にわか知識を仕入れてはいるが、基本的に縄文時代については浅薄な知識しか持ち合わせていないわたくし。
しかし『サピエンス全史』『銃・病原菌・鉄』『ネアンデルタール人と日本人』とかを読み、
なんとなく8000年前に農耕が始まってネアンデルタール人は金髪だったのよね。くらいは知っている。
このようなに薄っぺらい知識を引っさげ、縄文時代に突入してみた。
さて、日本史上では縄文時代とか弥生時代とかと切り分けられているが、
縄文時代とは「縄文式土器が出てるから縄文時代」くらいのざっくりした分け方で
こっからここまで縄文時代とかこの地域には縄文人が住んでたとかが明確にわかっているわけではない。
さらに失念しがちなのだが、縄文時代には10000年というものすごい幅がある。
初期と末期では土器も土偶も全く似ていないし、火焔型土器や遮光器土偶など
過剰な装飾が主流になるのは主に3000年~2000年前なのである。
ところで縄文展の展示に書いてあったこの3000年~2000年前という説明書きの数字は
紀元前なのか、現在の西暦2020年を足した数字なのかどうなんだろう。
よくわかんないけどとりあえず紀元前ってことで話をすすめます。
3000年~2000年前と見てきたように書かれていて悠久の時に想像を巡らせる、
なんちて言うと聞こえはいいが、実は1000年も幅がある。今から1000年前っつったら平安時代で
1000年とはそこから平成の現在までという幅であり、ってことは、なんでもアリというか、
土偶も火焔型土器のことも、ほぼわかっていないことこそが縄文のおもしろいところである。
何もわかってないからとりあえず何を考察、というか妄想してもいいのだ。
ので、いくつか妄想してみました。
1.書かない人々
縄文展では海外の同時代の土器が展示されており、どれも機能性をメインに作られている。
弥生時代の土器も同じだ。「煮炊きの道具とか日常的に使うものは機能性が大事よね」と誰もが思うし、
なにか装飾したい場合は「絵を書く」「柄を書く」という「書くこと」でなされることが多い。
しかし、縄文の人々は抽象的で難解な模様を「土を貼り付ける」ことで表現する。
写実的な柄は後期になってようやく現れるが、矢とか魚の骨の模様がたどたどしく
小学生の工作のように土器に貼りつけられていた。
ここで生まれる素朴な疑問。なぜ書かない。

三内丸山に住んでいた縄文人の人々は栗を栽培していたそうである。
すぐ近くに海があるため、海産物もたくさん食べていて栄養状態は良かったようだ。
縄文人=原始人に近い野蛮な人々という印象が覆ったのはこの栗栽培によるものだ。
気候が変わって寒くなり栗が取れなくなったため、集落を放棄してみんなどこかに行ってしまった。
集落の中央には大きな会議場のような建物があり、皆で集まって何かをしていたと考えられている。
書くほうがどう考えても絶対にカンタンなはずなのに。技術・染料がなかったんだろうか。
で、「縄文人 絵」で検索してみたら以下の記事がヒットした。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200609130352.html
縄文時代の人物線刻画見つかる 青森・近野遺跡(asahi.comより)
縄文人の絵って出土してないんだって。
立体はすんばらしいセンスでつくってるのに絵が苦手だったのかなあ。不思議だ。
2.過剰な装飾に入れ込んだ理由
火焔型土器やその他の立派な土偶がつくられたのは、3000年~2000年前である。
縄文の人々は狩猟採集段階であると考えられており、人々は狩猟と木の実や貝などを採集し
日々のごはんをつくっていた。三内丸山でも栗を栽培してたりして食生活は豊かだった。
狩猟採集生活は余暇が多く人々には余裕があり、栄養状態も農耕以降より良かった、と
『サピエンス全史』や『銃・病原菌・鉄』にも書かれている。
彼らは小さなムラ単位で生活し、生産部門と非生産部門はまだハッキリとは分かれていないから
みんなで狩猟して採集してみんなでごはんを食べたらとくにやることはなく、
みんなが等しく暇だった。つまり、何かを作り、それを過剰に装飾する暇がアホほどあった。
火焔型土器はこんなふうに生まれたんじゃないかと想像してみる。
2000年から3000年前のある集落で、土器をつくってた若い縄文人が器の四方に角を4本立て、
あれこれコテコテと装飾してたらおもしろくなり、どんどんやったらけっこうイケてて、
それを隣ムラの人が見て、アタシもやろーとかでどんどん過剰になっていった。って感じ。
わたくしには、あの装飾には祈りの形とかよりも子どもがウキウキしながら作った的な楽しさが感じられる。
機能性について全く配慮しなかった理由は、ヒトというか時代の成熟度が低かったからではないか。
未成熟だと機能性は後回しになりがちである。
わたくしも人として全然成熟していない娘のころ、まだ残暑が厳しい折に長袖のセーターを着るとか、
3月に半袖シャツを着るとか、季節を先取り(し過ぎる)のがすげーカッチョいいと考えていた。
若い=機能性とかよりもカッチョいいのが好き。機能性を大事にするのは年寄りである。
「ヒト」としての勢いと若さと未熟さと暇が、あのゴテゴテした美しい装飾を作り上げた。
とわたくしはここに断言したいと思います(キリッ

食べものがある間は定住し、なくなったら移動する土地に縛られない生活。
農耕が始まり土地に縛り付けられるようになるとそれが領土になるため、土地を巡って争いが起き、
農民があくせく働いて貯蔵した穀物を手っ取り早く収奪されたりしたりと戦争も始まるわけだから、
狩猟採集段階って資源が限られてるぶん意外と平和なんじゃないかって気がするなあ。
3.豊かな胸と大きなお尻の土偶は出産のお守り
豊かな胸と大きな腰回りをしている土偶は豊産の象徴と考えられている。
わたくしは祭祀の道具だと思っていたが、初期の土偶にいつも握りしめていられる大きさの、
頭も腰もない小さな乳房だけのものを見て「お守り」だったのではないかと考えを改めた。
初期の土偶には、持ち歩けるもの、常にそばに置いておける大きさのものが多いからだ。
縄文時代でも、大きな腰回りをして大きな胸を持った女が元気な子どもを生むことが多かっただろう。
そういった姿をしているものをお守りとして手元に置いておきたくなる気持ちはわかる。
時代が下って立派な土偶がつくられるようになって以降は、これらの土偶は産屋に置いてあり(だから自立している)、
出産時の妊婦を見守っていたのかもしれない。また、握りやすい形をしているのは、
出産時に握りしめられていたからかも。あるいは産婆なり母親なりが持っていたのかも。
縄文人の平均寿命は30歳前後と考えられていたが、以下の説では意外と長生きという話である。
縄文人、意外と長生き 65歳以上が3割 聖マリアンナ医科大(asahi.comより)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011130129.html
女たちは何人くらい子どもを生んでいたのだろう。出産で死ぬことも多かったはずだから、
豊かな腰回りの人形に、自分と生まれる子どもの無事を祈ったのかもしれない。
狩りをしなくても木の実を拾わなくても、お店で食べものが買えて飢えることはまず無い現在、
感染症も治療できるし、乳児死亡率は低くなんだか知らないけど世界一の長寿国とかになって
清潔で便利な世の中に住んではいるわたくしたち。
でも、幸福かと聞かれたらそうではないと考える人が多いのはなぜ。
おなかがすいたら狩りをしてごはんを食べてその他の時間にはワクワクするものを作って
日が暮れたら寝て今日のことだけ考えていれば済む生活。でも病気になったら必ず死にます的な生活。
それでもなんとなく、ちょっといいんでは? なんちて今思っているわたくしです。
いつかもう一度三内丸山遺跡に行ってちゃんと展示物を見たくなりました。
縄文展、良かったです。
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