細川真之 単語

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ホソカワサネユキ

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細川真之(?1582)とは、戦国時代の武将である。
なお、『細川記』、『細川軍記』という後世の軍記(『綿考録』のことではない)に、永11年に27歳で死んだとする、明らかに誤りの伝承から生年が文10年(1541年)とされるが、正年間に生きているのでこれは誤り。父親が死んだのが文22年(1553年)なので、遅くてもこれ以前。

概要

波守護・細川讃州の最後の当父親を殺された後も三好氏に推戴されていたが、成長するにつれ本家細川昭元と同様自立のを選び、三好長治を滅ぼし独立した。

とはいえ、本能寺の変後の混乱で滅びることとなった。

なお、小少将都市伝説三好長治あたりが義理の兄弟扱いされることもあるが、基本的にはほぼ『昔物語』だの『州古戦記』だのの設定に尾ひれがつきまくったものなので、ほぼ創作が確定している。

ここまでのあらすじ

波守護を務めた細川讃州は、細川の分とはいっても最有力の自立的な存在であった。この細川讃州の中の祖ともいうべき存在が、細川成之である。波と一色落後の三河を領有した細川成之は両畠山氏の戦いや伊予出兵にかかわり応仁の乱でも活躍する。東軍の実質的な参謀立った存在だったが、細川政之を後見して以来、波の情勢が悪化したため、下していったようだ。

次男の細川は、備中細川氏を始め継いだが、結局細川讃州督を相続した。その息子が管領を細川澄之細川高国と争った、細川澄元である。

とはいえ、両細川氏の乱で臣の三好氏の権勢が増した結果、実は16世紀前半になるといまいちよくわからない存在に成り下がっていた。細川之持が本当にいたかどうかも、実はまだよくわかっていない。

そして転機となったのが、三好実休による細川である。文22年(1553年)6月三好長慶細川晴元の不和と連動して殺されてしまったのだ。

なお、この細川であるが、によって、従来と異なり細川晴元である可性が摘されている。山下知之などが支持しており、若干定説となりかかっているため、ここで触れておく。

最期の当主・細川真之

以後、三好氏は君を殺したとはいえ、その息子である細川真之を推戴し続けた。ただし、ぶっちゃけ言うと15年ほど動向が全くわからない。

細川両家記』によると、永10年(1567年)、三好氏は三好本宗支援のため足利義栄などと連動して畿内に出した。当然三好長治、細川真之のどちらも来ているのだが、2人とも幼少であり、篠原長房が差配していると言っても過言ではなかった。

ただし、三好本宗永禄の変の後松永久秀とともに三好から離脱し、三好三人衆三好氏は織田信長の上に合わせて撤退することとなる。ところが、金ヶ崎の戦いの後、安宅太郎らの離反の脅威性を取り除く意味もあって、畿内に再出し、またしても、三好長治・細川真之は連れてこられたのである。

以後も、三好義継松永久秀の再度の寝返りにも呼応する等、三好三人衆篠原長房の勢力は、三好氏を盛大に畿内情勢に介入させ続けた。ところが、元4年(1573年)5月三好長治篠原長房子を滅ぼす。文書にはこの時最初の細川真之の書状が発行されており、三好長治細川中の反篠原長房勢力を与同させ、細川真之を名上の上位権力として正当性を得、篠原長房討伐の正当性を得たのであった。

阿波三好氏からの自立

こうして細川真之とそれを推戴する三好長治構造が形成された。かくして彼らは織田信長らと戦っていくが、三好康長の降によって大打撃を与えられてしまう。

この時期に、三村外交を行っていたのが、細川真之である。おそらく導権は三好長治にあったと思うが、細川真之も次第に独自の権力体と化しつつあった。

かくして、正4年(1576年)、細川真之と三好長治が対立し、細川真之が出奔。最終的に三好長治自害に追い込まれている。これはかつては『昔物語』といった軍記でしか語られることはなかったが、「十月五日付小早川隆景書状」によって、波が屋形(細川真之)と対立する勢力で二分されていた状況であったことが裏付けられた。なお、小早川隆景としてはどっちかが味方になってくれたらなあ、的なことを書いているので、織田信長が裏にいたわけではないようだ。

この原因は何かというと、細川真之に三好長治が一定の政治活動を行わせてしまったこと、また三好氏の内部に澤氏、一宮氏といった三好長治と対立し、対抗として細川真之に結集した勢力が出てきたことにある。

文書に残された日和佐肥前守に領地宛行状を出しているなど、細川真之は一定の権力体としてふるまった。なお、この日和佐肥前守とは後に長宗我部元親波侵攻に呼応した存在であり、細川真之はおそらく後に長宗我部元親に呼応する類の南部の領達に書状を与えていったようだ。

なお、三好長治の死であるが、正5年(1577年)正月本願寺顕如書状案に乗っているため、軍記と同様この時期に自害したのは間違いないようだ。

ところが、『昔物語』によると、この状況を見た本願寺が三好氏を味方にとどめようと、篠原丸(篠原長房の子)と雑賀衆を送り込み、一宮成相・澤頼俊に追い返される事件が起き、さらに権勢を得た一宮澤が矢野駿河守らに殺される事件が起きる。ここで三好氏は勝瑞・反勝瑞に分かれたともされるが、軍記の設定なので、事実かは不明である。

細川真之の自立

三好長治の死後、一時的に三好氏は断絶する。ここで元吉合戦に関連して注されているのが、「七月九日小早川隆景書状」である。三好長治の死後の三好氏は、屋形(細川真之)、両篠原篠原自遁・篠原)、矢駿矢野駿河守)によって差配されていたともいわれる。しかし、山下知之は、そもそも前年にあんなことをした細川真之が一体的な存在となるのか、一悉く味方になったという記述をするために持ち出されただけではないかと、留保している。

なお、元吉合戦とは、香川氏を中心にした讃岐毛利氏勢力に反発した長尾氏・羽床氏の対立に惹起され、三好氏は当初は毛利氏側として融和路線をしたが、盛大に介入に失敗。反毛利氏として支援することになった三好氏側の讃岐勢力と毛利氏が戦ったというもので、実はどっちが攻めでどっちが守りだったのかすらいまだによくわかっていない戦いである。

とはいえ、この結果、三好氏は毛利氏、およびその背後にいる足利義昭と提携し、事態の収束を執り行おうとした。そこで連れてこられたのが十河存保であり、三好氏は再度反織田信長方に収まってしまう。一方で、織田信長としては、新たな提携相手として、長宗我部元親を見定めたようだ。

ぶっちゃけ、ここからしばらく細川真之の動向はわからない。ここで十河存保によって三好氏は再されるが、長宗我部元親の侵攻が、ようやく始まりだす。実は長宗我部元親は当初は毛利足利義昭方にいたのだが、三好式部少三好康長を介して、織田信長に帰属したようである。

一方で、本願寺顕如織田信長の戦いが終わると、抗戦を唱える本願寺教如と雑賀衆・三好氏が結びついた結果、長宗我部元親臣・中島重房が斎藤利三・石波をなんとかするので雑賀衆をお願いします、的な書状を送っている、

ここで、正8年(1580年)、「十二月四日付香宗我部親泰書状」で、またしても御屋形様、そう細川真之が出てくる。細川真之は、長宗我部元親率いる反三好氏方にいたのである。

ここで、細川真之は勝瑞をすでに退去しており、おそらく桑野あたりにいたとされる。長宗我部元親も細川真之の政治的利用価値を見出し、両者は提携していたのである。「文書」の氏之とは細川真之の事であるが、取次として新開掃部助、四宮兵衛尉といった南部の領が見られる。細川真之は長宗我部元親方として、内で勢力強化に励んでいたようだ。

その最期

ただし、一宮氏、新開氏、四宮氏、日和佐氏、木屋平氏といった、長宗我部元親方の波勢力の書状を見ていくと、細川真之は無視できない存在ではあるが、中核にいたわけではないようだ。長宗我部元親としても、おそらくそのくらいのさじ加減の相手として、彼と協力していた、と思われる。

ところが、三好氏が次第に織田信長方に和を打診し、織田信長長宗我部元親の動きを制限させようとする。そして、羽柴秀吉による淡路制圧も起き、神戸信孝丹羽長秀らによる四国切り取りすら、打診されていった。

そして、正10年(1582年)10月、『三好記』という軍記に彼の死が載せられる。この時期といえば本能寺の変後の混乱で、長宗我部元親波侵攻がすでに活発しており、利用価値の薄れた彼は、在地にいらないと判断されたのかもしれない。なお、長宗我部元親が裏にいたのかどうかは、全くわからない。

かくして、中富の戦いで盛大に負けた十河存保篠原自遁が抵抗し、これに羽柴秀吉が介入している最中、ひっそりと細川讃州は滅んだのであった。

とはいえ、一次史料で裏付けができていないため、まだ今後話が変わる可性があることは、最後に触れておこう。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける細川真之の力一覧。

大志で久しぶりに登場。一時期は智力が一桁とかいうひどいことになっていた。なお十河存保に殺されたことになぜかなっていた。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 21 政治 23 魅力 31 野望 32
武将風雲録(S1) 戦闘 38 政治 25 魅力 59 野望 20 教養 52
覇王 采配 59 戦闘 38 智謀 12 政治 35 野望 20
天翔記 戦才 76(C) 智才 30(C) 政才 106(B) 魅力 69 野望 33
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 19 戦闘 33 智謀 7 政治 26
世記 采配 13 智謀 5 政治 20 野望 37
蒼天録 統率 14 知略 28 政治 22
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 武勇 知略 政治
創造 統率 武勇 知略 政治
大志 統率 34 武勇 35 知略 35 内政 40 外政 33

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