細川高国(ほそかわ・たかくに 1484 ~ 1531)とは、室町幕府管領、守護大名である。出家後の号より「細川道永」(~どうえい)とも
魔法半将軍細川政元の三人の養子のひとり。ライバル・細川澄元との血で血を洗う抗争を制して、細川家の家督と管領のポジションをゲットした。将軍・足利義稙との対立を制し、栄華を誇る。
かつて倒したライバル澄元の遺児・細川晴元とも抗争が始まるが、その最中、ある人物の讒言によって家中は内部分裂し、泥沼の攻防の末に敗北を喫し切腹した。
信長の誕生(1534年)以前の人物であるため少々知名度は低いが、戦国時代初期における天下に最も近い男である。
細川氏の有力分家のひとつ・細川野州家に生まれる。父は細川政春。
この頃の宗家・細川京兆家の当主である細川政元は、クーデターで将軍・足利義稙を追放して実権を握ったという野心家であると同時に周囲がドン引きするレベルの奇人でもあった。本気で魔法使いになる事を目指しており、その修行の一環として女性との交わりを一切禁じていたために当然子供がおらず、養子をとっていた。
明応の政変当時は名門公家である五摂家のひとつ・九条家から細川澄之が養子入りするも、細川氏の血を引かない跡継ぎ候補に数々の分家から不満が続出(そりゃそうだ)。そこで、分家・阿波細川家から細川澄元が新たに養子入りして後継者に指名されていた。
さて、高国の立ち位置であるが、政元が澄之を養子に迎えることを打診した1年前の延徳2年(1490年)の「大乗院寺社雑事記」に「細川政春の7歳の息子が政元に養子入りした」という記述がある。
高国は「3人目の養子」として認識されることもあるが、正確には「最初の養子」と言うべきだろう。
父・政春の兄弟である勝之は細川勝元の後継者として養子に迎えられた経緯があり、京兆家と野州家の縁は元より深かった。
ただし、養子候補が澄之→澄元と移る中で高国の養子縁組も勝之同様に解消されたものと見られる。
実は高国の姉は管領・畠山政長の嫡男の尚順の婿であり、高国の養子縁組の時期はまだ畠山尾州家と京兆家は協調関係にあり、結びつきを強める意図があったのではないかと推測される。
いずれにせよ、この人間関係は後の高国の栄達に繋がっていくのである。
一応、後継者は澄元という事になっていたが、元より京兆家と讃州家の関係が微妙だったことも手伝い、細川家臣団の分裂を招いてしまった。1507年、細川政元は風呂場で魔法の修業をしているところを暗殺されてしまう。下手人は澄之派の人物だった。
かくして細川澄之が新当主に擁立されるが、このやり方に澄元と高国は当然猛抗議。高国とその舅にあたる典厩家・細川政賢は挙兵してわずか1ヶ月で澄之を自害に追い込むことに成功した。これで本来の路線通り、細川澄元が後継者として家督を継ぐ。この時点での高国は、まだあくまで澄元を支持・補佐するという立場に徹していた。
と、そこにやって来たのが、かつて政元に京都を追放された元将軍・足利義稙だった。彼は各地を流れ流れた末に、周防の大内氏の庇護下に入っていたが、政元死亡のニュースを聞いて、大内義興率いる大軍勢とともに上洛してきたのである。
しかし、死んだ政元が擁立した将軍・足利義澄は未だ現役。どうしたものかと考えた澄元は、ひとまず義稙方との交渉役として高国と淡路守護家の細川尚春を派遣することにした。高国らは姉婿である畠山尚順を説得して味方につけることに成功する。
尚順は明応の政変以来、義稙の強力な与党として京兆家に抵抗を続け、これより少し前はライバルである畠山総州家の義英と和睦していたが、再び決裂してそれぞれの居城に戻り対峙していたところだった。
こうして同盟関係が成立した澄元は尚順を支援して、一人反義澄方となった義英を討伐するため大軍を送り居城を攻め落とす。
しかし、「不問物語」によると、指揮官の一人である赤沢長経という人物が、尚順の勢力拡大を危惧して義英を密かに居城から逃し、更に「高国・尚順は共謀して澄元に叛くつもりだ」と讒言する。
これに前後して澄元の和睦案は大内義興に突っぱねられてしまい、義稙与党との尚順の同盟も早くも破綻。更に澄元に疑われるようになった高国は伊勢参宮と称して出奔することになる。
加えて澄元陣営は大きな問題を抱えていた。彼の讃州家時代からの家臣・三好之長・高畠与三らは元よりその振る舞いを本来の京兆家の家臣から忌み嫌われており、澄元や祖父の細川成之も彼ら阿波衆の横暴を押し留めようとなんとか対処していた。
しかし、遂に京兆家家臣の不満は爆発。「澄元に依存はないが、三好・高畠はクソ」(不問物語)と記されるほどであり、京にいられなくなった澄元は三好・赤沢らと共に出奔した。
澄元が追い出された以上、代わりの後継者を擁立する必要がある訳だが、それが何故高国になったのかというのは「不問物語」に詳しい。
当初は澄之討伐にも功があり、また代々京兆家の補佐役を務めている細川典厩家の政賢、ないしその子である澄賢に継がせるべし推されていたのだが、上野玄蕃家の細川元治が異論を出す。
曰く
①先代の典厩家細川政国は野州家出身であり、また政賢は和泉下守護家出身であり、実は京兆家と血縁は遠い。
②野州家のほうが京兆家より血縁は近く、高国は幼少期に政元の養子になったことがある。
③器用があり、今回の澄之討伐の功もある。
④畠山尚順が姉婿のため、その領地である河内・紀伊を始め、摂津・丹波も維持しやすい。
といったもので、これに一同納得して高国を推戴したようだ。
なお、政賢はその後足利義稙の上洛後も引き続き高国陣営に所属していたものの、突然澄元陣営に転じている。
家督を継げなかったことに遺恨があったのか、また元より義稙とは確執があり義澄の御台所を保護する立場も左右したのか、真相は不明である。
そして高国は畠山尚順と共に上洛する足利義稙を迎え入れ、後ろ盾を失った義澄は没落。
この後の争いは「義稙&高国」対「義澄&澄元」というタッグマッチの図式になり、これを「両細川の乱」と呼ぶ。この争いはおおむね高国チームの優位に進み、その後も澄元チームの反撃を何度か受けるも、1511年に足利義澄が病死した事と、その直後の船岡山合戦で大勝利した事が決め手となって、澄元は実家の阿波へと落ち延びていった。
後に能登守護の畠山義元・義総親子も上洛して義稙陣営に加わり、義稙将軍の下で大内・細川・両畠山の四大名が在京して支える体制が確立した。
まあこの頃は危険なバランスを保ちつつも上手くやっていたのだが、義興が長らく領国を留守にしていたため、安芸武田・毛利などが不穏な動きを見せ始める。これを理由に1518年、義興が西国に帰っていった事で、火種は再び燃え上がる。
この状況を見て、かつてのライバル・細川澄元が再起を図って挙兵する。「お前じゃ俺を倒せねぇ」と自信満々に迎撃に向かう高国であったが、実は高国、戦にはめっぽう弱く大内の助けも得られなかったためにボロ負けする。慌てて京に戻って義稙に「逃げるんだよォ!」と呼びかけるも、義稙、これを無視。
ひとり近江に逃亡した高国が見たのは、自分を切り捨てて澄元を迎え入れる義稙の姿であった。
この怒りが更なるパワーを呼び覚ましたのかは知らないが、たった3ヶ月で反撃に転じて三好之長を捕えて自害させることに成功する。
澄元陣営はこの時澄元が病に倒れ、しばしば戦死の噂も流れるほどで(やがて病死)、また例によって人望のない之長に反発する阿波国衆もいたことであっけない敗北に至ったという事情もある。
高国はひとまず義稙の行動は見なかったことにし、再び義稙を支える大名として振る舞うが、1521年には将軍・義稙が京を出奔、高国討伐を呼びかけ旧澄元陣営や、この時謀反に遭い没落していた畠山尚順と提携。
この事態に高国は代わりに亡き足利義澄の遺児である足利義晴(当時11歳)を将軍に祭り上げることに成功した。これにより義稙陣営は勢いを失い、さしたる行動もないまま尚順も義稙も間もなく病死し、遂に高国の単独政権が成り立った。
1524年、出家して「道永」と号する。同時に家督を息子・細川稙国に譲り大御所政治を敷くなど盤石の体制を整えようとしていた。が、その年の末に稙国が18歳の若さで病死してしまう。本人としてもかなりショックな出来事であったが、これで歯車が狂ったか、ここから高国の凋落が始まっていく。
単独で幕府を支配すると言えば聞こえはいいが、高国には高国なりの苦労があった。
かつての在京四大名のうち大内義興は帰国の後は旧義稙・澄元陣営として敵に回り、畠山義元も帰国しておりすでに亡く、畿内では畠山尚順の子・稙長が引き続き高国の味方として在国する程度だった。
1521年の足利義晴邸の新造営に際しては、高国本人が能登の畠山義総に父の例に倣って上洛して総奉行を務めることを要請しており、それが断念すると畠山稙長に上洛を要請するなどと、「単独政権」は必ずしも高国の望む所ではなかった可能性もある。
また細川家のうち讃州家・典厩家・淡路守護家・和泉守護家等の大半が澄元陣営に属して敵対しており、高国側では野州家から典厩家・和泉守護家・備中守護家に一門を送り込んで対抗する。
しかしそれで単純に戦力が膨れ上がるわけでもなく、高国が戦になると脆いのはそのことも災いしていた。
これに対応するため高国は京兆家の家中を編制し直し、元の重臣層に加えて本来の野州家の家臣や、新たに台頭した近習層などをバランス良く配置することに腐心していた。
また、自分の従兄弟で典厩家を継いだ細川尹賢や、従来より高国派だった赤松重臣の浦上村宗などの高国与党を大名邸御成(将軍が大名の屋敷を訪れること)などの栄誉を与えることで引き上げを図っている。
四大名時代にも上手く立ち回った高国のバランス感覚はここでも発揮され、義稙治世下で約10年、義晴治世下で約5年もの間、畿内に概ね安定期を演出していた。
しかし、それでも自壊の時というのはやってくるものである。
当時の細川配下の中で、特に栄達していたのは近習的立場の波多野氏(ちなみに本来は石見吉見氏の出身であり丹波国人ではない)、波多野元清・香西元盛・柳本賢治の三兄弟であった。
これを快く思わなかったのが、典厩家の細川尹賢である。彼も高国の代わりにしばしば総大将を務めた功績があり、文化的素養も高く、子の次郎(後の氏綱)は高国の後継者の有力候補だった。
「細川両家記」によるとある時彼は香西元盛が文盲であることに付け込んで、「香西元盛は敵に内通している」と罪をでっち上げる。
一旦はそれを信じた高国であるものの、思い直して元盛に釈明させた上で判断するという対応を取ったが、罪の露見を恐れた尹賢は先んじて元盛を死に追い込んでしまった。
当然ながら波多野氏はこの事件に激怒。高国の求心力は一気に下がってしまう。その中で立ち上がったのが、亡き澄元の子・細川晴元であった。晴元は重臣・三好元長(之長の孫、三好四兄弟の父)と共に、義稙の養子・足利義維(義澄のもう一人の子)を擁立して本格的に挙兵する。「義晴&高国」対「義維&晴元」という形で再びタッグマッチの開幕である。高国は救援を要請するが、応えてくれたのは若狭武田氏くらいだった。
1527年、桂川原の戦いで三好政長兄弟や波多野兄弟に高国チームは惨敗し、逃亡。晴元チームは堺に事実上の政治拠点を作ってしまった(堺公方と呼ばれる)。高国は朝倉氏や北畠氏の力を借りて、なんとか京に戻ろうと四苦八苦するハメになる。最早往年の権勢は消え失せてしまった。
そんな中で心強い協力者となったのが備前の浦上村宗であった。彼は元々赤松氏に仕える守護代の身であったが、主君・赤松義村を暗殺して、播磨・備前・美作守護の赤松家を牛耳っていた人物である。村宗の助けを借りて、1530年にようやく高国は京に戻ることが出来た。
それでも堺の三好元長の攻撃は止まず、戦いは一進一退の様相を見せており、高国には更なる援軍が必要だった。そこで村宗の傀儡主君である赤松政祐(のちの赤松晴政)に命じて、赤松氏の軍勢を動員させることに成功する。
…が、これは罠だった。政祐は父・義村を殺された恨みを忘れておらず、村宗を亡き者にする機会を狙い続けていたのだ。そしてこれを好機と見て、晴元チームに密かに内通していた。
そんなことはいざ知らず、戦いに臨む高国たちだったが、後詰の赤松軍が突然寝返って背後から奇襲をかけた為に総崩れとなる。乱戦の中で浦上村宗は討死。その他高国側の有力武将たちも多くが討死するなど壊滅的大打撃を受けてしまう。この合戦を 「大物崩れ」(だいもつくずれ)と呼ぶ。
死屍累々の中をなんとか逃げる高国だったが、追手が迫ってきたため近くの染物屋に逃げ込んで、甕の中に隠れてやり過ごそうとした。これに対して晴元チームの三好一秀(元長の弟)は子供達を集めて「この辺に悪いハゲが逃げてきて、一人でかくれんぼしてるんだ。もし見つけてくれたら、この美味しそうな瓜を全部キミたちにあげるよ」と物で釣る作戦を実行。子供たちのおやつパワーと人海戦術の前に、ああ哀れ
「たかくにくん、みーつけた」
……という「足利季世記」などの後世の軍記のエピソードが有名かもしれないが、当時の「二水記」という記録によると少し事情が違う。
潜伏していた高国は三好一秀に発見されるが、付き従う家臣は一人もいない有様だった。
観念した高国は一秀と一日一夜の酒宴を酌み交わした後、腹を十文字に掻き切り、一秀の介錯を受け最期を遂げたという。1531年7月、享年48だった。
敵である三好一秀もその最期に涙したらしく、高国が親しい人間に宛てた辞世の句を方々に届けたのも一秀だった。
1507年に政元が殺害されてから延々続いてきた両細川の乱も、ここでようやく幕を閉じることになる。
なお、その後追い詰められて自害した細川尹賢だが、「尹賢は晴元方に寝返って殺された」という認識があるが、
これは2つに分かれて晴元方に所属していた政賢の系統の「細川典厩(晴賢)」を尹賢に比定したことによる誤解である。
高国政権崩壊の原因を作った戦犯であるが、少なくとも高国を裏切ってはいないことを名誉のために述べておく。
尹賢の子・細川氏綱は高国の養子となっており、後々に三好長慶が細川晴元に反旗を翻す際に祭り上げられている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 68 | 知略 | 69 | 政治 | 75 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
掲示板
18 ななしのよっしん
2021/09/12(日) 21:54:08 ID: IIarPZBWTm
19 ななしのよっしん
2023/08/15(火) 05:47:27 ID: GgkYZmXyds
大内義興が居たのは政権前半までなので、義興のオマケみたいな理解は流石に不当
本人が戦に弱い印象はあるけど、にも関わらず約20年(義興帰国以降でも10年)政権を維持できたのは立派な功績でしょ
しかし戦下手なこと以上に、嫡男に先立たれたのが痛すぎる
稙国が健在なら、負けたとしても晴元のように巻き返せたかもしれない
後の三好義興・織田信忠・豊臣秀次のように、壮年の後継者を失うのは厳しいのだろうな
20 ななしのよっしん
2023/08/17(木) 18:17:21 ID: GgkYZmXyds
連レスだけど
高国が勝つには、川勝寺口の戦いで朝倉宗滴の大軍を得たときに和睦交渉に入らず即決戦すべきだった……というのは同時代人からも指摘されてる
この時の和睦案は亡き稙国の代わりに六郎(晴元)が高国の養子になる案だったと言われていて、三好元長も前向きだったとか
稙国が存命なら、と思った最大のポイントはここで、後継者不在の弱みが和睦案につながったように思う
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/11(土) 15:00
最終更新:2025/01/11(土) 15:00
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