伊能忠敬(いのう・ただたか 1745~1818)とは、江戸時代の商人、測量士である。
全国各地を巡り、正確な日本地図を作り上げた、歴史の教科書には必ず載っているであろう重要人物。彼が測量して作り上げた地図(通称・伊能図)は誤差僅か0.2%という極めて正確な物である。
元々は商人であり、50歳で隠居してから本格的に測量や天文学を学び始め、56歳から測量の旅を開始、74歳で亡くなるまで地図作成に携わった高性能じいちゃんでもある。
上総国のひと・神保貞恒の末っ子として誕生。幼名は三治郎。幼き頃についてはほとんど伝わっていない。一方、神保家の遠い縁戚にあたる、下総国佐原で酒造や貸金を営んでいた伊能家は当主が若くして死去し、妻と1歳の娘が遺されていた。やがてその娘・ミチが成人すると婿養子を迎える事となり、三治郎に白羽の矢が立った。こうして1762年、18歳で伊能家に婿入りすると同時に「忠敬」の名を与えられ、伊能三郎右衛門忠敬と名乗る。
当時の佐原は利根川水運を使った交通の要所として栄えており、天領(幕府直轄の領地)であったため武士がおらず、住民の自治によって治められていた。その中でも特に力を持っていたのが伊能家と永沢家だった。だが、伊能家は10年以上も当主不在の時期が続いていたためすっかり弱体化しており、新当主・忠敬の手腕が問われることになった。そのため若くして名主後見の座につくことになる。
忠敬は永沢家と共に佐原の町をよく治め、様々な騒動を解決していき、伊能家の商売も再び盛んとなった。1778年、佐原は天領から旗本・津田家の領地となった。この時、新領主への挨拶に出向くが、永沢家の当主が苗字帯刀を認められていた一方で忠敬は認められていなかったため、扱いに大きな差をつけられて屈辱を味わうことになる。1781年に名主が死去したため、後見から正式な名主となった。
1783年、妻・ミチが病のために死去する。この年は浅間山が噴火して天明の大飢饉が起こっており、津田家に年貢の免除を訴えて受け入れられた。ただ津田家の財政はあまりよろしくなく、伊能家や永沢家からたびたび借金をするようになる。この為、自然と忠敬の発言力は大きいものとなり、苗字帯刀を許される。そして名主から村主後見へと役目が変わった。村主後見とは名主の監視役で、永沢家もその職についていた。長年の努力が実り、伊能家はようやく再び永沢家と並び立つ存在になったのである。
天明の大飢饉は続き、1785年、米が値上がりすると踏んだ忠敬は米を大量購入する。ところがその目論見は外れて米相場は下がり、赤字となってしまう。損が少ないうちに売り払うべきという周囲の意見を無視して、忠敬は敢えて米を売らなかった。するとその年、利根川が大洪水を起こして佐原の農民は大きな被害を受けてしまう。ここで忠敬は米や金銭を住民に分け与えて、数年に渡って住民救済に努力した。それが功を奏し、天明の打ちこわしが発生しても佐原は何事も起こらなかった。その後、残った米は売り払って利益を上げ、町の統治者としても商人としても成功を収めた。ちなみに佐原はたびたび洪水被害を受ける土地であり、その後の変わり果てた田畑を再測量する必要があり、後の測量事業に影響を与えたとみられている。
1790年に後妻を迎え入れるが、息子も成人していたので隠居を考え始める。だが領主の津田家はちょうど代替わりしたばかりだったため、経験豊富な忠敬の存在を必要としており、隠居願いは断られてしまう。この頃から暦に興味を持ち始め、天体観測などを行うようになった。1794年、ようやく隠居の許可が下り、息子・景敬に家督を譲った。ところが、またも妻に先立たれてしまうという不幸もあった。
当時の伊能家の財産は、現代の金額に換算すると30億円に匹敵するものであったと言われている。すごい。
1795年、隠居した忠敬50歳は、江戸に上ると深川に居を構えた。そして民間の天文学者として高く評価されていた高橋至時(たかはし・よしとき)に弟子入りする。至時は忠敬より20歳近く年下である。至時の門下となった忠敬は暦や天文学を熱心に学んだ。また、漢詩人の大崎栄(おおさき・えい)を妻に迎えている。栄は文学のほか算術などにも明るい才女で、忠敬の天体観測などを補佐したと言われる。
一方、1790年代は極東へ勢力を広げようとするロシア帝国の存在が脅威となりつつあり、蝦夷地の正確な地理掌握が早急な事案とされていた。また、至時と忠敬は地球の正確な大きさ(すなわち子午線の長さ)を調べるには江戸から蝦夷くらいまでの距離を測る必要があると考えていた。こうした利害の一致から、高橋至時は幕府に蝦夷地の測量を行う事、およびそれを技術に加えて財力もある忠敬に実施させることを願い出た。
1800年4月、遂に幕府から「測量試み」の命令が下された。この時忠敬56歳。試みという辺りからして、いち商人出身の忠敬はあまり期待されていなかったようだ。一行は徒歩で奥州街道を測量しつつ進み、箱館に渡ると襟裳、釧路、根室まで測量して帰還した。
この成果は幕閣の予想以上のものであり高い評価を得た。その為1800年の暮れには早くも第二次測量の話があがり、翌年実施に移る。今回は伊豆半島以東の測量が行われ、下田から三島、銚子、宮古、下北半島、陸奥国三厩まで測量して帰還した。また子午線の調査も引き続き行っており、緯度1度=28.2里と算出している。
翌1802年、第三次測量の命が下る。この頃になると幕府の忠敬への信頼は篤くなっており、若干ながら人足や馬が支給されている。前回終点の三厩から新潟へと日本海側を南下。当初の計画ではそのまま越前まで行って、帰りに尾張~駿河を調査して本州東部の地図を完成させる予定であったが、越後までの観測で断念、江戸へ戻った。
翌1803年、第四次測量が行われる。残る東本州と佐渡を計測し江戸へ帰還した。またこの頃、師の高橋至時が西洋の天文書を解読した結果、忠敬が導き出した子午線の長さが正しいと分かり二人は喜び合った。が、至時は翌1804年に41歳で早くしてこの世を去った。
1804年、忠敬は10人扶持で幕臣に取り立てられる。翌1805年、第五次測量が行われる。これまでの測量は忠敬が自費で行っていたが、これ以降は幕府直々の任務となった。また前回は測量に非協力的な藩があって問題が起こったが、今回は幕府からこの事業に協力するように指示が出された。この時忠敬60歳。伊勢~大坂の紀伊半島を計測したが、想像以上に海岸線が入り組んでいたため測定は難航する。琵琶湖を計測したあとは下関まで瀬戸内海の島々を含めて測量する。ここでも瀬戸内の海岸線の複雑さで測量は難航した。また忠敬が一時病気に倒れたため、松江まで計測したところで離脱。部隊だけで隠岐に渡って測量を行った。忠敬は無事回復して松江に戻ってきた部隊と合流する。そのまま日本海側を若狭まで測量して江戸へと戻り、2年近くに渡る長旅を終えた。
1808年、第六次測量として四国の計測を行う。淡路島を計測して四国に渡り、徳島から時計回りで測量して帰還した。
1809年、第七次測量が命ぜられ九州へと向かう。翌1810年、小倉から時計回りで測量を行った。しかし甑島や天草の測量に手間がかかり、種子島と屋久島の測量は行わずに翌年江戸へと戻った。この旅の間に間宮林蔵と出会っており、間宮はのちに忠敬が成し得なかった蝦夷地北西部の測量を行う事になる。
1811年、第八次測量として、前回できなかった種子島・屋久島・壱岐・対馬・五島列島などを計測する。1814年に江戸に帰還するという長旅になったが、この間に息子・伊能景敬が父に先立ち亡くなった。
1814年、大量の地図を作成していた事で深川の家が手狭になったので八丁堀へと引っ越す。翌1815年、第九次測量として伊豆諸島の計測が行われることになったが、忠敬は既に71歳の高齢の身であったため、この回は弟子や役人たちだけで測量が行われた。これと並行して、第十次測量として江戸の各街道のスタート地点と日本橋との間を測量することになり、忠敬はこちらに参加した。
これで日本の大部分の測量が終わり、そのデータから地図を作成する作業に入った。1817年には間宮林蔵が蝦夷地の測量結果を持ってきている。そして弟子たちに地図作成の指示を行っていたが、1818年になると病床に伏せるようになり、4月にこの世を去った。74歳であった。
忠敬の死の時点では未だ地図は完成していなかった。その為、忠敬が死去したことは伏せられ、至時の子・高橋景保を中心に作業が進められた。そして3年後の1821年に「大日本沿海輿地全図」と名付けられて地図は完成し、忠敬の死も明らかにされた。伊能家は景敬の息子・伊能忠誨が継いでいたが、21歳の若さで亡くなり忠敬の血筋は断絶した。このため名主・商家としての伊能家宗家は衰え、勢力は分家へと移っていった。
伊能図は誤差0.2%という驚異の精度であり、特に緯度に関してはほぼ誤差がない。一方経度では誤差が生じており、天体観測が不十分だった為、忠敬が地球は完全な球形だと思っていた為、などと言われている。他、秋田県にある象潟(きさかた)はかつては潟湖(ラグーン)だったが、1804年の象潟地震で湖底が隆起して現在は平野となっている。伊能図ではその地震の直前である1802年の第三次測量で得られたデータが用いられており、かつての姿を遺した貴重な記録となっている。
最後の妻である栄は、忠敬が測量の旅に出て長期間家を空けるようになると、佐原の伊能家に身を寄せた。そしてくしくも夫と同じ1818年に死去している。
後年、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本を離れる際、高橋景保が国外持ち出し禁止とされていた伊能図を贈ったため、景保は逮捕され獄死している。これがシーボルト事件である。なにしろ当時の世界情勢ではこれほど正確な地図は国家機密ものなので当然と言える。景保は死後に斬首刑とされ、保存されていた遺体を斬首されている。しかしこうしてヨーロッパに渡った伊能図は、日本人の測量技術の高さを異国に十分に知らしめた。
その後、関東大震災など2度の火災により伊能図は焼失してしまった。とされていたが、2001年に全214枚のうち207枚の写しがアメリカに残っていたことが判明、その後の調査で残る7枚も日本国内で発見された。
生誕地の九十九里浜、商人としての前半生を過ごした香取市佐原、旅の前に毎回参拝していた富岡八幡宮などには忠敬の像が建てられている。
掲示板
9 名無しさんお腹いっぱい
2024/09/16(月) 10:15:37 ID: cOlJ28v+Se
>>7
確かに、向学心や学問好きといった面もあるんだけど、婿入りした先の扱いやそれに関するストレス等もあったと思うんだよね。
妻が亡くなった時は
「これで好きな事が出来る」って内心ホッとしたりしたんじゃないかな。
因みに扱いの一例を挙げると
食事をしてた時に妻から
「何でお前が一緒にメシ食べてんだ!てめーは入婿なんだから一緒にメシなんてねーわ!他所で食え」と言われる。
仕方ないの忠敬は使用人の所でメシを食うか
今で言う廊下でメシを食べる
10 ななしのよっしん
2024/12/23(月) 09:51:09 ID: NU/MVUrYPl
凄い人は何をしても凄いの典型だな
11 ななしのよっしん
2025/01/03(金) 13:44:09 ID: RRupu8MU/8
伊能忠敬の地図がすさまじく性格だったのは、宇宙人からデータを貰ってたからというオチのギャグマンガ日和のオチめっちゃ笑った
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/13(月) 21:00
最終更新:2025/01/13(月) 21:00
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