科挙 単語

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カキョ

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科挙とは、合格したらかっきょいーと褒められる官吏採用試験である。
隋から清までの中国で実施されていた。また、それに倣い、朝鮮ベトナムなどの中国周辺の東アジアでも実施されていた。

当たり前だが、漢文試験である。

詳しく知りたければ、ウィキペディア該当ページexit宮崎市定exit氏の書籍を読んだほうが手っ取りい。

概要

優秀な人物を広く全から集めるための制度。

隋以前には、人材は貴族など既存の権力者階級からしか輩出されず、科挙以前にあった人材を募る制度も、その内実は有力者からの推薦というものであり、どうしても既存の有力者の息がかかった者に限られていた。

科挙の導入により、推薦重視から試験結果重視への移行が図られ、既存の貴族とは別の新しい勢力がることになる。

科挙制度

科挙にはいくつもの段階があった。何度も試験を重ねることで受験者を絞っていき、最終的には皇帝自らが試験を行い合格者を決める時代もあった。

試験は数日に渡って行われ、受験者が食べ物を持ち込んで泊り込むのも普通であった。食べ物その他も持ち込めるため、必然的にカンニングのための具も持ち込みやすく、その検も厳しいものであった。しかし、検を潜り抜けるための工夫もなされており、裏地にテキストがびっしり書き込まれた衣服なども発見されている。身分や氏名を偽っての替え玉受験も多かったといわれている。

ちなみに、事実上の試験と言えるのは会試(二次試験)までで、代以降に追加された殿試については原則として全員合格で、席次によって配属先や役職などを決定した。

これは、殿試とは、落とすための試験ではなく、天子(皇帝)自らが試験を行い、受験者と皇帝の間に強力な従関係を形成するという形をとっている為である。まあもっとも、皇帝本人が試験会場に出たことはの最初くらいで、明以降は内閣大学士という専門の人に委ねられたわけだが……。

科挙制度の限界

広く人材をめるために始まった科挙制度だが、実際にはさまざまな問題点があった。

初期の科挙では既存の貴族勢力が未だ跋扈しており、科挙制度で登用された官僚が十分に力を発揮できなかった。

代になると科挙合格者の力が強くなっていったが、同時に同郷の者同士などで集団を作るようになり、新しい権力集団となっていった。科挙を受験するためには先に科挙に合格している者の保が必要になっていたことも、この集団が力をつける理由になっていた。

また、科挙を受けるための勉強には、当時は重な本などの資料をえる必要があり、勉強に専念する受験者を支える財力、さらには身分を保してくれる先輩に対して支払わなければいけない謝礼など、とにかくコストがかかるものであったため、実際に科挙を受けることができたのは有力者の師だけだったといえる。そして後代になれば有力者というのは、つまり科挙に合格して力を得た者であり、結局は科挙合格者が権力者として力を増していくことに繋がるのである。

もっとも、先祖代々科挙に合格してきた系であろうとも次代が科挙に通れなければそこで終わるという可性もあり、その点では前時代の貴族とは違った権力者であるといえる。

科挙制度の終焉

科挙の合格基準として、四書五経を暗記していることは必須であった。いわば理想的な儒教を理解していることがめられたわけだが、時代が下って清の末期になると西洋列強の進出により西洋の新たな文物が入ってきたこと、西洋との競争が盛んになったこともあって、官僚められるものはそれまでの伝統的儒教から、西洋の知識へと移行していった。こうして、隋代以降、千数年に渡って長く続いてきた科挙制度は近代になって終焉を迎えたのである。

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