回答(3件)

横浜高校戦では四球に苦しんで敗れてしまったことです

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やはりどうしても、玉野光南戦で当時の大会最速記録を出したことになるでしょうか。 ただ自己の体調管理が出来ていなかったことが残念で(そのため準々決勝で横浜高校に敗退)本人の責任というよりも特別待遇をしすぎた日南学園野球部の指導方針に疑問を感じました。 その後も日南学園は甲子園に出ると脆さを見せ、近年では甲子園に出て来ること自体が少なくなりましたが、その発端は寺原隼人の時代にあったのではないかと思い出してしまいます。