中原中也とダダイズム 11 神の秩序

(承前)  中也の京都時代を取り上げる人々は、何よりも先ずダダイズムに関して述べようとし、富永太郎との交友について多くの言葉を費やす。なるほど中原にとってダダイズムとの出会いは感激的な事件であったし、破格の語法も彼の詩歌と深い関わりを持っている。だが、私には彼が友人に語ったという「ダダの手法など以前から知っていた。高橋の詩はひとつ…

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石の上にも三年?

ホームページを閉じ、ブログを始めて一年が過ぎた。ほぼ、毎日、何かしらの文章を書いていたのだが、別段、年寄りに「書かねばならない」事柄など、そうそう有るものではない。 HPで書き残した事も、あるようで、ないような、そんな毎日だ。 先日からは、かつて日々格闘しながら書き進めた評論を、一人でも多くの人に読んでもらいたい思いから、転載するこ…

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中原中也とダダイズム 10 外界との軋轢

(承前)  立命館中学に転入した当時の中原が内蔵していた一種独特の被害者意識も、元を正せば彼自身の行為に起因するものであることを、彼は十分承知していたはずである。落第は文学を志す彼にとってみれば当然の結果であり、自明のはずだった。それが現実となってから一転したのは中原の思考形式の成せる業といえよう。文学に耽り「原級」の査定を受けた…

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