2009・5・3(日)旅行日記最終日
ヘルツォーク演出 ワーグナー:「ローエングリン」プレミエ
フランクフルト歌劇場(シャウスピールハウス)
今日の「ローエングリン」も、これがプレミエだ。
ベルトラン・ド・ビリーの指揮、イェンス・ダニエル・ヘルツォークの演出、装置と衣装はマティス・ナイトハルト、ドラマトゥルギーはノルベルト・アベルツ。
先日ベルリンで観たヘルハイム演出ほどではないが、なかなか跳ね上がった舞台である。
かつてコンヴィチュニーはこのオペラの舞台を学校の教室に設定したが、ヘルツォークのこれは、かなり昔の、場末の映画館が舞台だ。
前奏曲の途中から紗幕越しに、こちらを向いて映画を観ているような人々の姿が浮かび上がり、最前列に「エルザ」と「ゴットフリート少年」が座っている。この2人は姉弟というより、野暮ったいお母さんエルザとそのやんちゃな息子、といった感じ。
「国王」一行がやって来て映画館の客席2階で演説しているのにエルザが気を取られている間に、ゴットフリート少年はプログラム売り子(これはオルトルートの変装か?)に連れられ、遊びに行ってしまう。
気がついたエルザが必死で探し回るが見つからず、その間にビジネスマン的テルラムントの非難告発により彼女はリンチに遭いかけるが、「国王」に制止される。
ローエングリンは客の中から野人のような半裸の格好で現われ、すこぶる自信無げに応援を買って出て来て、逆にエルザに励まされる――といった具合。
かように、すこぶる滅茶苦茶で、矛盾だらけの読み替えストーリーである。ただ、この滅茶苦茶さを一旦乗り越えてしまうと、意外にそれなりに辻褄が合うように出来ているのに感心する。
ローエングリンとテルラムントの決闘は、テーブルを挟んで向かい合って座った2人が(最初は腕相撲でもやるのかと思った)、1挺のピストルを交互に頭に擬して引き鉄を引くという、「ロシアン・ルーレット」を開始。薬莢のどれか一つに実弾がこめられており、その番に当たった方は命がないことになる。
ローエングリンは落ち着き払って3回の空砲を当てるが、テルラムントは恐れ戦き、3度目にはついにガタガタ震えて降参するという趣向。ここはやたら面白い。
ただ、結局これは、単に「映画館で起こった事件」なのではなく、彼らは結局「映画」を観ていたにすぎない、ということになるらしい。
というのは、第1幕と第3幕で「白鳥」が現われる瞬間には、彼らは必ず映画の観客としての演技に戻るのである。
彼らの演技が終始曖昧であるのが不自然で、それは演技が下手なわけでもあるまいに――と訝っていたのだが、どうもそれとの関連があるらしい。
全曲の大詰めでは、「ゴットフリート少年」が涼しい顔でもとの席に戻って来る。エルザは「あんた、今までどこに行ってたの?」と言わんばかりの表情。
かくしてこのオペラは、その最初のシーンと同じ光景で終る。
問題は、この「映画の中の物語」と、一同の「幻想」(?)との交錯がはっきりしないところにある。すべてが同一の次元の中で描かれて行くので、時々不可解な場面に出会うことになるのだが・・・・。
とはいえ、これ以上その深い意味を考えたくなるほどのプロダクションでもないような気もするので、このあたりにしておこう。
ベルトラン・ド・ビリーの指揮が、予想外に良かった。彼の指揮で強い印象を得た演奏は、実はこれまではほとんどなかったのだが、今日は速めのテンポで緊張感を失わず、しかも劇的なニュアンスの濃密な音楽を創っていた。第3幕でのカット個所は少なく、あの「ドイツは未来永劫、敵に侵略されることはありません」の部分も省略せずに演奏していた。
総じて、この曲におけるド・ビリーのアプローチは成功しているだろう――全曲大詰めでのテンポが速すぎて音楽の壮大な性格を失わせたのを除けばだが。
彼に寄せる観客や楽員の拍手は、絶大であった。
おばさんエルザは、エルザ・ファン・デン・へーファーが歌っていた。充分な声で力がある。
悪役オルトルートはジャンヌ=ミシェル・シャルボネ。強靭な声と強烈な歌い回しで、この日の舞台では随一の迫力だろう。
ミヒャエル・ケーニヒは、昨年日本で「消えた男の日記」に出た時と同様、モリゾーみたいにむさ苦しい姿で、聖杯守護の騎士とは縁遠い「町の男」だ。最後の最後に、別れの歌で声がバテたのは惜しい。
むしろテルラムントを歌ったロバート・ヘイワードが知的なビジネスマンという演技で、決闘では意気地なく負けたものの、その後のローエングリンへの口舌攻撃ではむしろ優位に立つという、いろいろな表現力にも秀でていた。
国王役には、予定されていたグレゴリイ・フランクに代わって急遽ビャルニ・トール・クリスティンソンが出演。出だしはハラハラさせられたが、間もなく低音の迫力を発揮して行った。
演技はともかく、音楽的に非常に優れていたのは合唱。来住さんから聞いたところによると、昨年エリック・ニールセンが合唱指揮者に就任して以来、飛躍的に水準が高くなっているとのこと。
プレミエのため、ヘルツォークら演出チームには、ブラボーとブーイングが交錯して投げかけられた。彼としては、してやったりという表情。
このくらい明確な賛否両論の反応が出なければ、観客が真剣にこの上演に向き合ったことの証明にはなるまい。5時開演、9時40分終演。
今回の旅行は、これで終り。フランクフルトやウィーンの空港では、インフルエンザなんかどこ吹く風(風邪?)という雰囲気。マスクをしている人など、どこにもいない。成田に帰ったとたんに、これは大変だ!という気分になる。
今日の「ローエングリン」も、これがプレミエだ。
ベルトラン・ド・ビリーの指揮、イェンス・ダニエル・ヘルツォークの演出、装置と衣装はマティス・ナイトハルト、ドラマトゥルギーはノルベルト・アベルツ。
先日ベルリンで観たヘルハイム演出ほどではないが、なかなか跳ね上がった舞台である。
かつてコンヴィチュニーはこのオペラの舞台を学校の教室に設定したが、ヘルツォークのこれは、かなり昔の、場末の映画館が舞台だ。
前奏曲の途中から紗幕越しに、こちらを向いて映画を観ているような人々の姿が浮かび上がり、最前列に「エルザ」と「ゴットフリート少年」が座っている。この2人は姉弟というより、野暮ったいお母さんエルザとそのやんちゃな息子、といった感じ。
「国王」一行がやって来て映画館の客席2階で演説しているのにエルザが気を取られている間に、ゴットフリート少年はプログラム売り子(これはオルトルートの変装か?)に連れられ、遊びに行ってしまう。
気がついたエルザが必死で探し回るが見つからず、その間にビジネスマン的テルラムントの非難告発により彼女はリンチに遭いかけるが、「国王」に制止される。
ローエングリンは客の中から野人のような半裸の格好で現われ、すこぶる自信無げに応援を買って出て来て、逆にエルザに励まされる――といった具合。
かように、すこぶる滅茶苦茶で、矛盾だらけの読み替えストーリーである。ただ、この滅茶苦茶さを一旦乗り越えてしまうと、意外にそれなりに辻褄が合うように出来ているのに感心する。
ローエングリンとテルラムントの決闘は、テーブルを挟んで向かい合って座った2人が(最初は腕相撲でもやるのかと思った)、1挺のピストルを交互に頭に擬して引き鉄を引くという、「ロシアン・ルーレット」を開始。薬莢のどれか一つに実弾がこめられており、その番に当たった方は命がないことになる。
ローエングリンは落ち着き払って3回の空砲を当てるが、テルラムントは恐れ戦き、3度目にはついにガタガタ震えて降参するという趣向。ここはやたら面白い。
ただ、結局これは、単に「映画館で起こった事件」なのではなく、彼らは結局「映画」を観ていたにすぎない、ということになるらしい。
というのは、第1幕と第3幕で「白鳥」が現われる瞬間には、彼らは必ず映画の観客としての演技に戻るのである。
彼らの演技が終始曖昧であるのが不自然で、それは演技が下手なわけでもあるまいに――と訝っていたのだが、どうもそれとの関連があるらしい。
全曲の大詰めでは、「ゴットフリート少年」が涼しい顔でもとの席に戻って来る。エルザは「あんた、今までどこに行ってたの?」と言わんばかりの表情。
かくしてこのオペラは、その最初のシーンと同じ光景で終る。
問題は、この「映画の中の物語」と、一同の「幻想」(?)との交錯がはっきりしないところにある。すべてが同一の次元の中で描かれて行くので、時々不可解な場面に出会うことになるのだが・・・・。
とはいえ、これ以上その深い意味を考えたくなるほどのプロダクションでもないような気もするので、このあたりにしておこう。
ベルトラン・ド・ビリーの指揮が、予想外に良かった。彼の指揮で強い印象を得た演奏は、実はこれまではほとんどなかったのだが、今日は速めのテンポで緊張感を失わず、しかも劇的なニュアンスの濃密な音楽を創っていた。第3幕でのカット個所は少なく、あの「ドイツは未来永劫、敵に侵略されることはありません」の部分も省略せずに演奏していた。
総じて、この曲におけるド・ビリーのアプローチは成功しているだろう――全曲大詰めでのテンポが速すぎて音楽の壮大な性格を失わせたのを除けばだが。
彼に寄せる観客や楽員の拍手は、絶大であった。
おばさんエルザは、エルザ・ファン・デン・へーファーが歌っていた。充分な声で力がある。
悪役オルトルートはジャンヌ=ミシェル・シャルボネ。強靭な声と強烈な歌い回しで、この日の舞台では随一の迫力だろう。
ミヒャエル・ケーニヒは、昨年日本で「消えた男の日記」に出た時と同様、モリゾーみたいにむさ苦しい姿で、聖杯守護の騎士とは縁遠い「町の男」だ。最後の最後に、別れの歌で声がバテたのは惜しい。
むしろテルラムントを歌ったロバート・ヘイワードが知的なビジネスマンという演技で、決闘では意気地なく負けたものの、その後のローエングリンへの口舌攻撃ではむしろ優位に立つという、いろいろな表現力にも秀でていた。
国王役には、予定されていたグレゴリイ・フランクに代わって急遽ビャルニ・トール・クリスティンソンが出演。出だしはハラハラさせられたが、間もなく低音の迫力を発揮して行った。
演技はともかく、音楽的に非常に優れていたのは合唱。来住さんから聞いたところによると、昨年エリック・ニールセンが合唱指揮者に就任して以来、飛躍的に水準が高くなっているとのこと。
プレミエのため、ヘルツォークら演出チームには、ブラボーとブーイングが交錯して投げかけられた。彼としては、してやったりという表情。
このくらい明確な賛否両論の反応が出なければ、観客が真剣にこの上演に向き合ったことの証明にはなるまい。5時開演、9時40分終演。
今回の旅行は、これで終り。フランクフルトやウィーンの空港では、インフルエンザなんかどこ吹く風(風邪?)という雰囲気。マスクをしている人など、どこにもいない。成田に帰ったとたんに、これは大変だ!という気分になる。
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