2025-01

2015・7・1(水)フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 ブーレーズの「ノタシオン」から5曲(第1、7、4、3、2番)、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》」(ソリストは郷古廉)、ハイドンの「十字架上の最後の7つの言葉」。わが国のオーケストラの定期としてはかなり「先鋭的」なプログラムだ。

 膨大な編成の「ノタシオン」から、次第に楽器編成が小さくなって行き、ハイドンでは8型2管という室内オケの規模になる、という配列も面白い。
 このプログラムを聴いていると、管弦楽作品の内容の充実度というのは楽器編成の大小には全く関係ないのだということが痛感できるが━━いや、そんなことを言っては、見事な演奏をしたロトと読響(コンサートマスターは長原幸太)に申し訳ない。

 とにかく、「ノタシオン」を、これだけカラフルな音色で、ブーレーズの管弦楽法が鮮やかな形で蘇る演奏で聴けたのは久しぶりのことだった。
 ベルクの協奏曲では、郷古廉のいつもながらの颯爽としたソロに惹きつけられる。この22歳の若者の演奏を聴いていると、「恐れを知らぬジークフリート」という言葉をふと連想してしまうのだが、もちろん彼は力任せに無頓着に弾いているわけではない。だが私は、この屈託ない、確信に満ちた瑞々しい息吹にあふれるソロに、微妙な感情の襞が織り込まれるようになった時、どんな立派な演奏になることだろうか、という期待を感じるのである。

 ハイドンの「十字架上の最後の7つの言葉」も、これほど重厚で凄味のある演奏で聴けたのは、もしかしたら初めてかもしれない。「序奏」など、まるでグルックのオペラ・セリアの一部を聴いているような趣だったし、最後の「地震」も、怒りの感情を噴出させるような演奏だった。
 そしてこの陰影に富んだ演奏の中にも、弦や管の響きには、先日のベルリオーズにおけると同様、まるでフランスのオーケストラが響かせるような、一種のブリリアントな音色が漂っている。読響がこのようなスタイルの演奏を、嬉々として繰り広げているさまも、素晴らしく感じられた。ロトと読響の相性は、最高と思われる。

 卓越した演奏だったにもかかわらず、入りが今一つだったというのは、プログラムの渋いイメージによるものだろう。残念だったが、拍手の熱烈さは、熱心な聴衆が集まっていたことを証明するものだった。

 ちょうど新日本フィルを指揮するため来日しているハーディングが聴きに来ていて、読響の事務局のスタッフと親密に話をしていた。彼は新日本フィルを指揮する時には、最近はすっかり「まっとうな」スタイルに徹してしまったが、もしこの読響を指揮したら、オケの柔軟な演奏対応力を利用して、欧州でやっているような大胆なスタイルを試みるのではないか、という気もする。

コメント

松村禎三「沈黙」@新国立劇場の流れで、つい何となく聴いてきました。(1階16列中央)

金曜日に古典四重奏団「ショスタコーヴィチ全曲第2回」、日曜日には「沈黙」と凄いものが続いた所為か、折角のハイドンが聴けるというのにどことなく私の集中力が弱く、印象が薄く感じた定期でした。もちろん「七つの言葉」をオケの定期で聴けるなんて前代未聞のことでしたから、感激して聴いたことは事実ですし、きわめて刺激的な「七つの言葉」でありましたが。

まずブレーズの巨大編成に仰天。でも威圧感が無いのが不思議なほど響きが洗練されている。ブレーズの書法のマジックに完敗です。次のベルクは私の出鼻を挫くかのような中身も集中度も乏しい響きで始まりました。残念だったのは、この曲でソロが何を言いたいのか定まらなかったこと。少なくともそれを表現する術を持っていないことでした。この印象は以前、彼が弾いたブルッフ(上岡敏之指揮日本フィル@杉並公会堂&オペラシティ)や、チャイコフスキー(川瀬賢太郎指揮神奈川フィル@ミューザ川崎)でも感じたことです。プロの東条先生と全く逆の印象ですから、私の評価など当てにはなりませんが。ただ、女性と比べて日本人男性ヴァイオリニストの人材はお世辞にも豊富とは言えないことは確かです。

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