自動車研究家“山本シンヤ”が聞いた「MORIZOがニュル24時間へ挑む理由」
第3回:モリゾウの運転の師匠・トップガン成瀬弘氏の存在
2025年9月5日 00:00
モリゾウは事あるごとに、このオトコの話をする。成瀬弘(なるせ・ひろむ)、トヨタ自動車に在籍する約300名の評価ドライバーのトップガンであり、豊田章男氏の運転の師匠である。
2010年6月23日、自身の知見とノウハウをすべて注いで開発したスーパースポーツ「レクサスLFA」の限定50台のスペシャルバージョン「ニュルブルクリンクパッケージ」のテスト中に、ドイツ・ニュルブルクリンク近くの公道にて交通事故で亡くなった。
告別式では豊田氏が弔辞を読み上げたが、冒頭はこのような話をしていた。
「成瀬さんと私の関係は、単なる上司・部下といった関係ではなく、時には親父と息子、時には師匠と弟子、時には幼いころからの親友、そしてそのどれもが、お互い大好きなクルマを介しての付き合いでした。かけがえのない宝物……」
実は豊田氏は、この場でこのニュルでの活動の解散宣言を行なったが、その後「やりたいと思う奴だけでいい、ついてきてほしい」と語るとメンバーは戻ってきた。そして、今ではトヨタのもっといいクルマ作り、そして人材育成のど真ん中に来ているのは言うまでもないだろう。
あれから15年が経過するが、今も成瀬氏が育てた弟子たちがその精神を継承する。豊田氏と成瀬氏が2007年に発足させた「“元祖”GAZOO Racing」は、今やGRカンパニーとしてトヨタの他のカンパニーと肩を並べる存在になっているし、彼が生前語っていた「大事なことは言葉やデータでクルマ作りを議論するのではなく、実際にモノを置いて、手で触れ、目で議論すること」、「人を鍛え、クルマを鍛えよ」は社内にも深く浸透している。
ただ、年を追うごとにトヨタ社内にも成瀬氏を知らない世代が増えている。筆者は成瀬氏とさまざまなシーンで顔を合わせ、自社の製品ですら厳しい意見をいとわない「成瀬節」を何度も聞いてきた1人である。
実はモリゾウを知るためには、成瀬氏をもっと知る必要がある。ここでは、そんな成瀬氏のヒストリーを振り返ってみたい。
成瀬氏は1963年にトヨタ自動車に入社。車両検査部に臨時工という異例の採用だったと聞いたが、幼いころからクルマに触れてきたこともあり、異例の速さで頭角を現し、当時モータースポーツの車両開発、レース活動を担う「第七技術部」に所属、レーシングカー「トヨタ7」のチーフメカニックを担当した。
トヨタが排ガス規制対応を理由に1974年にレース活動を中止する直前の1973年、スイスのトヨタディーラーがセリカ1600GTでニュルブルクリンクでの耐久レースに参戦する際、日本側からのメカニックとして渡欧。この時、成瀬氏は生涯をかけて走り込むことになるニュルと出会った。ここで成瀬氏は「道がクルマを作る」と直感したそうだ。
その後、1980年代に初代MR2の評価を皮切りに、トヨタのニュルブルクリンクでの開発がスタート。それ以降、トヨタのスポーツモデルはニュル詣でを行なうようになった。成瀬氏のニュルでの走行経験年数と周回距離は日本人トップクラスで、その実力は海外メーカーも認めるほどだったと聞く。風のウワサでは当時のトヨタのラリーチーム(TTE)からドライバーとしてのオファーが来たとか!?
量産車開発ではセリカ、カローラ・レビン/スプリンター・トレノ、MR2、スープラ、アルテッツァ、MR-Sなどのスポーツ系モデルには、なんらかの形で関わっているが、レクサスLFAだけは、成瀬氏1人に評価が委ねられた。
また、成瀬氏=スポーツモデルと言うイメージも強いが、初代セルシオや2代目プリウスなどの評価も担当していて、成瀬氏は「僕の中ではレーシングカーもトラックも同じクルマで、すべては材料で決まる。僕はその材料を100%活かせるようにするだけ」と語っていた。
しかし、当時のトヨタはいいクルマより売れるクルマ、造りやすいクルマが重視され、成瀬氏の理想の走りの実現は難しかった。試作車に実現していた乗り味が量産車では再現できないジレンマから、自社のクルマでも歯に衣着せないジャッジを下し、仲のいい自動車メディアに「俺が言っても聞かんから、外の声として思っていることを言ってくれ」とぼやくことも……。さらに試作車で作り上げた“理想”のノーマルの乗り味を再現するパーツをTRD(現TCD)に託す……という“荒業”を使ったこともあった。
このように現場で鍛えた叩き上げのスキルから、評価ドライバーの頂点である「トップガン」と呼ばれるようになった。また、ニュルをはじめとする“現場”を見てきた経験から、世界で通用するメーカー、世界に通用するクルマになるには、「もっと人とクルマを鍛える必要がある」と考え、自らが先頭に立って人材育成も実施。それはトヨタ社内だけでなく関連会社やわれわれ自動車メディアも対象だった。
そして豊田氏の運転訓練に至ったあの言葉につながる。
「あなたみたいな運転のことも分からない人に、クルマのことをああだ、こうだと言われたくない。最低でもクルマの運転は身につけてください」
「われわれ評価ドライバーをはじめとして、現場は命をかけてクルマを作っていることを知ってほしい」。
ここだけが注目されがちだが、実はこの話にはちゃんと続きがある。
「月に一度でもいい、もしその気があるなら、僕が運転を教えるよ」
口下手だけど面倒見のいい、成瀬氏らしいやり取りだった。
実は筆者は成瀬氏が亡くなる2か月前に3時間を超えるロングインタビューを行なっている。ニュルでのテストを終え成田に到着した成瀬氏が、帰宅途中に自動車メディア6誌がタッグを組んだイベントをやっていたお台場のメガウェブ(2021年に閉館)に立ち寄ってくれた際、最初の15分くらいはXaCAR編集長の城市邦夫氏と紅茶を飲みながら3人で近況などの話をしていたが、城市氏はイベントの来客対応のため、「山本クン、後はよろしくね」とあっさり退席。そこから2人っきりとなったが、筆者はここぞとばかりに昔の話を根掘り葉掘り聞いた。いつもは口数が少ない成瀬氏がこの時はいつになく饒舌だったのを覚えている。