自動車研究家“山本シンヤ”が聞いた「MORIZOがニュル24時間へ挑む理由」
第1回:プロローグ~ニュルブルクリンク24時間レースとの出会い~
2025年8月22日 00:00
筆者(山本シンヤ)がドイツのニュルブルクリンク(以下、ニュル)の取材に初めて行ったのは2005年。この年はファルケンが日産・スカイラインGT-R(GT-Rでの最後の参戦)、プローバがスバル・インプレッサWRX STI(スバル車で初参戦)、レクサス・RX400h(ハイブリッドでは初参戦)、自動車誌REVSPEEDがスズキ・スイフトスポーツで、レーシングドライバー中谷明彦氏が率いる中谷塾がトヨタ・ヴィッツで参戦するなど、多くの日本人チームが日本車でエントリーしていた。
当時、僕はパーツメーカー開発から日本車スポーツモデルを中心に扱う自動車雑誌「XaCAR(ザッカー)」の編集者に転職して2年目だったが、そんな若造にもかかわらず、城市邦夫編集長から「現地に行って、全部取材してきて!」とチャンスを与えてくれたことがきっかけだった。
とはいえ、それまでニュルと言えば、ガンさんこと黒澤元治氏のNSX-Rタイムアタックなどを収めたビデオマガジン「ベストモータリング」や、プレイステーションのリアルドライビングシミュレーター「グランツーリスモ(4以降)」など、画面上では理解していたつもりだったが、やはりのリアルニュルは段違い。
街と街をまたぐコースの長さや、300m近い高低差に加えてエスケープほぼゼロという過酷すぎるコースを、本格レーシングカーから市販車+α(当時はミニバンやアンダーパワーのクルマ、さらに古いクルマも参戦できた)まで、総勢230台が一堂に走りながら24時間を戦うという、とてつもないスケールの大きさに驚いた。
レース後、ツーリスト枠(一般の人が料金を払って走れる枠)でコースを初めて走ってみたが、道のうねり、ブラインドコーナー、ジャンピングスポット、縁石などなど、あのグランツーリスモで走った通りだった。バーチャルで走り込んでいた甲斐もあり、比較的スムーズに走れたと自負しているが、もう1周、もう1周とおかわりをして結果15周も走り、一緒に行ったカメラマンも呆れるほどだった(たかが15周とはいえ20.8km×15周=312kmです!)。
また、驚いたのはレースだけではない! そのまわりには「村ができた」と言ってもいいくらいのモーターホームやテントの山(聞くと観戦者数は20万人越え)。その多くがレース前からここで生活しながら、飲んで・食べて・騒ぎ……と、その場にいることを楽しんでいる。日本人的な感覚では、レース観戦というより1年に1度の“大きなお祭り”に来ている感覚に近い気がした。筆者も何度かコースサイドに撮影に行ったが、「飲んで、食べて」といったお誘いは毎回、場所によっては「ここから撮影しなよ」とお手製のやぐらに登らせてもらったことも……。
このようにニュルのリアルを知ってしまったことで、その魅力に憑りつかれてしまった僕は、欧州への取材のたびに何かと理由をつけてニュル詣でを続けた。そのため、フランクフルト空港からニュルへはナビを使わず行けるし、ニュル近郊の周辺道路はもちろん、近隣レストランまで覚えてしまったほど。時にはレストランで食事を取っていると、日本車メーカーの開発チームとバッタリ出くわすことも度々あった。現場ならではのさまざまな話は誌面作りにおいて、とても参考になったのを覚えている(笑)。
なぜ、城市氏は手間もお金も掛かるニュル行きをOKしてくれたのか? それはニュルに対して強いこだわりを持っていたからだが、そのきっかけを作ったのは、トヨタのマスターテストドライバー・成瀬弘(なるせ ひろむ)氏だった。
実は成瀬氏と城市氏は古くから深い親交があり、会うたびに成瀬氏のいろいろな“愚痴”や“相談”を聞いていたそうだ。「開発は僕が言っても聞かんから、城市さんの誌面でズバッと言ってほしい」「自動車ジャーナリストは運転が下手だから、僕の所に連れてきてくれれば教えるよ」などなどに加え「城市さん、ニュルにおいでよ」と。
1990年代初頭、城市氏がCARTOP編集長だったころの人気企画は「筑波テスト」だった。当時はここでのラップタイムが各モデルの性能の指標となり、クルマ好きはそれを見て一喜一憂していた。それに対して成瀬氏はこのように語っている。
「日本のサーキットでは、クルマの性能の10あるうちの1つが見える程度ですが、ニュルは10すべてが見えるので、ごまかしがきかない。だからニュルブル(成瀬氏はニュルをこう呼ぶ)で鍛えたクルマは強いんです」と。
恐らく、成瀬氏は城市氏に世界を知ってほしかったのだろう。その後、城市氏はその誘いに乗り、日本の各メーカーのニューモデルをニュルへ持ち込みテストを行なった。当時は日本でニュルの存在がほぼ知られていなかったため、「記事はそれほど注目されなかったなぁ」と笑いながら教えてくれたが、この時が「初めてのニュル」という自動車メーカーもあり、その後の開発に何らかの影響を与えたとも言われている。
その後、2007年にトヨタ……いやトヨタでありながらトヨタを名乗れなかった“元祖”GAZOO Racingがニュル24時間に参戦することになった。当時の僕はそんな事情は全く分からず、「あのトヨタもニュルに出るんだ!!」「何で売っていないアルテッツァなんだろう?」と思っていたのだが、僕の上司の城市編集長は「山本クン、これはトヨタが変わるかもしれないよ」とポツリ……。この時の僕は、まだその意味が分からなかった。