経済アナリストとしてアメリカについての情報を発信している安田佐和子さんが選ぶ「大統領選挙前に読んでおきたいアメリカの本」、2回目は、著名な政治学者ロバート・D・パットナムによる『上昇(アップスウィング) アメリカは再び<団結>できるのか』。アメリカの社会は「私→われわれ→私」という「逆U字型」の過程を歩んできた。今は再び個人主義の時代になっていると説く。
孤立と団結を繰り返すアメリカ
アメリカ社会は、全体で見れば繁栄を極めています。経済は右肩上がりに成長を続け、技術の発展によって便利なものがあふれ、人々の生活水準は確実に向上しています。では、すべての人が豊かさを実感しているかといえば、決してそうではない。そんな問題提起から始まるのが、『 上昇(アップスウィング) アメリカは再び<団結>できるのか 』(ロバート・D・パットナム、シェイリン・ロムニー・ギャレット著/柴内康文訳/創元社)です。
著者のロバート・D・パットナムは著名な政治学者です。20年ほど前に『 孤独なボウリング 米国コミュニティの崩壊と再生 』(柴内康文訳/柏書房)を著し、社会のさまざまなコミュニティー(社会関係資本)が崩壊して人々が孤独に陥る様を描いて大きな話題になりました。
本書もまた、人々の孤独化や孤立に焦点を当てています。経済成長は巨大企業を生みましたが、同時に富の集中と大きな格差をもたらしました。しかもその格差は固定化され、ひとたび下層階級に入れば搾取されるばかりで、抜け出すことは難しい。結局、人々は社会に絶望し、個人主義に生きるようになった、というわけです。
しかし、これは今に始まったことではありません。今から150年ほど前の1870~90年代のアメリカも、今日の状況と酷似していました。当時は南北戦争が終わり、リンカーンの治世の下で戦後復興が始まり、鉄道網の普及などもあって一気に隆盛していった時代です。同時に巨大企業が台頭し、個人は単なる労働者として扱われるようになりました。
ところが、第1次・第2次世界大戦を経て1960年代になると、バラバラだった個人にコミュニティー意識が芽生えます。それは公民権運動やウーマン・リブを生み、格差は縮小し、公共の場における協力の意識が芽生え、政治においても党派性による極端な分断は解消に向かいます。つまり、人々が連帯することによってアメリカは劇的に変貌しました。これが、本書のタイトル『上昇』の意味です。
ところが、その状態は長続きしませんでした。20世紀後半から21世紀にかけ、人々はまた個人の世界に戻ってしまいました。つまりこの130年間のアメリカ社会は、「私→われわれ→私」という逆U字型のプロセスをたどりました。なぜそうなったのか。その要因を、政治、経済、文化にまつわる多種多様な統計データとともに検証するのが、本書の趣旨です。その上で、人々が改めて団結し、社会を「上昇」(アップスウィング)させることは可能かを問うています。
「共通の敵」の効果
ではなぜ、1960年代に結束が強まったのでしょうか。それは第1次・第2次世界大戦で「共通の敵」を意識したから、というのが本書の見方です。その情熱は戦後の復興でも消えず、国民がさらに団結することで個人の権利の向上を目指す機運が高まり、それが公民権運動やウーマン・リブにつながりました。
ただし、現代を「共通の敵」という観点で見れば、むしろ政治の分極化を生んでいると指摘します。権力やその前任者に対し「ノー」を強く言えることは、ある意味民主主義の体現です。政治家はそれが分かっているから、あえて強い言い方をして耳目を集め、一定の有権者を味方につけようとします。トランプ前大統領はその典型でしょう。前任のオバマ政権の政策を真っ向から否定し、共和党支持者の溜飲を下げさせました。
また、上院におけるフィリバスター(議事妨害:日本で言えば牛歩戦術)の頻発もそうです。与野党の勢力が拮抗(きっこう)しているために止められず、むしろ「ノー」を強く主張する機会になっていると説いています。
現代のコミュニティーはSNS
19世紀後半から20世紀初頭にかけ、資本主義の発達によって所得格差が開き、大富豪が生まれました。一方では労働者が団結し、組合活動などが盛り上がりました。
今日の大富豪の最高位に君臨するのは、テック企業をはじめとしたプラットフォーマーの経営陣です。彼らはSNS(交流サイト)というコミュニティーの提供によって、多くの人たちを結び付けました。普通の個人もインフルエンサーとして活躍できる場が生まれ、その彼ら彼女らをオンラインで応援する個々人も緩くつながるようになりました。
ここで思い出されるのが、前回「 多数の暴政、少数の専制 アメリカが民主主義に執着する理由 」で紹介したトクヴィルの『 アメリカのデモクラシー 』(松本礼二訳/岩波文庫)です。もともとアメリカ人は個人主義の志向が強いのですが、だからこそお互いを補完・協力し合うような緩い連帯(結社)を好む傾向があります。今日のその形態の1つは、SNSだと思います。
私の好きな言葉に、「歴史は繰り返さない、韻(いん)を踏む」があります。不可逆的なテクノロジーの発達によって、生活環境も個人の考え方も変わる一方で、何らかのコミュニティーの一員でいたいという意識は昔も今も共通します。
かつてコミュニティーの中心には宗教がありました。しかし、今の若い世代はSNSがあるので、宗教に依存する必要がありません。1990年代、結婚相手を見つけるのは「友人の紹介」「家族の紹介」「職場の同僚」がトップ3で、「教会」もトップ10圏内に入っていました。しかし今はSNSが断然トップ。教会で出会うことはめったにありませんし、職場の恋愛は禁止されているほどです。今の社会は表面的には個人がバラバラになっているように見えますが、単純にそうとは言い切れません。
テイラー・スウィフトと大統領選挙
SNSでは、インフルエンサーの発言によってトランプ支持かバイデン支持かが分かりやすく分断されています。先の「ノー」の話と同様、より強い言い方に支持が集まり、結果的にアメリカ社会の亀裂がより鮮明になっているように思います。
典型的なのが、2024年2月の来日公演でも話題になったテイラー・スウィフトです。彼女はトランプ大統領の時代から民主党支持を明言し、先の大統領選挙でもファンに向けて投票を呼びかけました。ただし支持率の低いバイデン大統領に対しては、明確な支持を打ち出していません。
では、彼女の言動が今年の大統領選挙の結果に影響を及ぼすかといえば、限定的でしょう。もともと保守とリベラルの支持層はある程度固まっています。毎回、選挙の行方を左右するのは、無党派層の動向です。
彼女のファンはZ世代からミレニアル世代が大半の44歳以下が約7割を占め、リベラル派が55%、無党派層が23%です。つまり、彼女が影響を及ぼせるのは、もともとリベラルと一部の無党派層に限ります。保守の支持層や無党派層もいるでしょうが、音楽と選挙は別、と切り分けている人が多い気がします。無党派層の若者の投票率を少し上げる程度の影響はあるかもしれませんが、その誰もがリベラルになびくわけではないでしょう。
分厚いが読みやすい
『上昇(アップスウィング)』は400ページ以上の大著ですが、脚注や資料のページがかなりあるので、本文はそれほどでもありません。中身も難解ではなく、音楽や文学などの身近な話を織り交ぜながら、アメリカ130年の歴史を骨太につづっています。物語を楽しむ感覚で、案外さらっと読めると思います。
最初にも述べた通り、本書の大きな流れは「私→われわれ→私」の逆U字です。もっとも昨今の「私」はただバラバラになっているのではなく、SNSによって膨大につながっています。その緩い結束がこれからのアメリカ社会にどんな影響を及ぼすか。その試金石として次の大統領選挙に着目するのも面白いと思います。
取材・文/島田栄昭 取材・構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集) 写真/木村輝