憲法9条と抵抗の伝統

10日以上も前になるが、玉川陽平さんとおっしゃる方から5月27日のエントリーにコメントをいただいた。

それに対する答えがなかなか書けなかったのだが、時間が経ちすぎるのもよくないと思うので、ここで断片的な感想を書いておきたい。
ご意見に対して十分な答えになっていないが、玉川さんにはご容赦ねがいたい。「権利としての戦争」など戦争と防衛の4つの区分については、懇切丁寧な説明を書いていただき、たいへん参考になった。
(他に、こちらのエントリーなども9条に関して書きました。)


玉川さんのコメントの趣旨のひとつは、「戦争放棄」や「交戦権」といった漢字の熟語を、定義なしに、イメージとして使って憲法論議をおこなうことの危険を指摘するところにある。たしかに、「戦争放棄」という語句は、憲法の条文にはない。この点は押さえておかなくてはいけないだろう。


非常に興味深いのは、2項に明記されている「交戦権」ということばをめぐる、玉川さんの考察である。「憲法9条は2項が全体の肝である」という意見を聞いたことがあるが、それは、この「交戦権」を認めないという表現に関わっているのかもしれない。
1項と2項では、「国」にあたる英語の単語が異なるという話は、はじめて聞くことだった。
ここで、憲法は日本の憲法なのだから、英文がどうかということより、やはり原文の漢字表現をめぐって考えるべきだ、ということもいえよう。たしかにそうも思うが、どうなんだろう。


法律の条文における、自国語と翻訳との関係という、ややこしい一般的なことはここでは考えない。


日本国憲法は、アメリカ合衆国によって「押し付けられた」、あるいは贈与された(?)憲法である、とよく言われる。だから、英語での表現には(これはつまりGHQの草案の表現という意味だと思うが)、特に重要な意義があるとも考えられる。
だが、ここで玉川さんの書いておられることが、ぼくにはたいへん印象深かったのだ。

9条は、占領軍による要請に基づいたものと思われますが、「義務としての戦争」、「義務としての防衛」、「権利としての防衛」については何も規定されていません。9条作成時に、当時の日本の人々のすべての戦争を放棄したいという気持ちが、2項の漢字表現になったように思いますが、元々日本にある恒久平和の思想と結びついたものとも思われます。


英文で提示された草案を、「国の交戦権は、これを認めない」という、絶対平和主義的な漢字表現に翻訳したことは、当時の日本の人々の気持ちのあらわれであろうと、ぼくも考える。
興味深いのは、それを『元々日本にある恒久平和の思想と結びついたもの』ではないかと、玉川さんが考えておられることだ。
以下は、ぼく自身の思うところである。

絶対平和主義の伝統について

以前、明治20年(1887年)に出版された中江兆民の『三酔人経綸問答』を岩波文庫で読んだとき、登場人物の一人の主張として、正当防衛の権利を国家に認めない絶対平和主義的な主張が展開されているのを読んで、驚いたことがある。
そこでは、次のように書かれていた。

豪傑君、私が心のなかで、わが国の人民が武器ひとつ持たず、弾一発たずさえないで、敵の侵略軍の手で殺されてほしいと望むのは、全国民をいわば生きた道徳に化身させ、将来の社会に模範を垂れさせたいからです。(岩波文庫版 桑原武夫他による現代語訳 61ページ)


もちろん、これがそのまま著者の思想というわけではないが、ただこういう激烈な反戦平和の思想というものが、昔から日本にあったことが、ここに示されているのではないかと思う。これはある意味では、戦争肯定以上に危険な思想だと思うが、ぼくは日本の文化と社会の根底にそういう思想の流れがあって、明治から1945年にかけての日本が戦争を国策としていた時代にはそれが押さえ込まれていたが、敗戦と同時に、それが一瞬吹き出したということがあったのではないかと思う。
それは、戦争を行なう国や権力に対する激しい怒りの表明で、いま「安全」の同義語としてイメージされるような「平和」とは、まったく別の情念みたいな思想だったんじゃないかと思う。
それが憲法9条の、あの考えようによっては破壊的とさえいえる絶対平和主義的な表現につながったのではないか。


この激烈な平和主義の伝統の、源泉はなんだろうか。
ぼくには、仏教が関係しているのではないか、ということぐらいしか想像がつかない。
いずれにせよ、これは平和主義であると同時に、権力やシステムに対する、激しい抵抗の思想でもあるんじゃないかと思う。
そういうものを、日本の人たちは、あの戦争に負けたとき、アメリカから与えられた9条の条文の翻訳のなかに紛れ込ませたのではないだろうか。


玉川さんの論からは大きく逸脱した話になってしまった。
ただそういうことをかんがえていかないと、9条の精神を現実に生かすといったことは、本当はできないのではないかと思う。