憲法9条・戦争放棄・権利と義務

このところ、憲法に関するエントリーについて、コメントやトラックバックをいくつかいただいている。教えていただいたり、基本的な部分を考えなおすきっかけになって大変ありがたい。
そのなかで、5月15日の記事のコメント欄に、玉川さんとおっしゃる方が詳細なご意見を書き込んでくださった。貴重な指摘であると思うので、いま考えられるところを記しておきたい。
はじめに、憲法9条の全文を、以下に書き写してみる。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
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 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


ぼくも、15日前後のエントリーを書くためにこの条文をあらためて読んだとき、釈然としないものを感じた。この条文が厳密に何を放棄すると言っているのか、分かりにくかったのだ。
コメント欄で言われている「権利としての戦争」というのは、条文中の「国権の発動たる戦争」という部分を指すのであろう。たしかに、この条文では「戦争」行為一般ではなく、「権利としての戦争」だけを放棄していると読める。もちろん、「国権の発動たる」を「戦争」にかかる限定ではなく、たんなる形容句として読む解釈も成り立つのだろうが。
少なくとも第1項だけを読む限り、この条文が軍隊を持たないことを宣言しているとは、必ずしも思えない。
これ以上細かい解釈を言っても論旨から反れてしまう。
ここで確認したいのは、まず玉川さんのご意見どおり、戦争は所有できるものでも放棄できるものでもないだろう、ということだ。もし「放棄する」というのであれば、戦争を行なう権利(国権)を放棄するとの解釈が妥当だろう。
ここで問題になるのは、戦争を行なう権利の放棄はよいとして、国家には他国の侵略から国民あるいは住民、納税者を守る義務があると考えられるが、その義務も一緒に放棄してしまっていると考えられるのか、ということではないか。
以下の玉川さんの文章は、そのことを問うているのではないかと思う。

これらは戦争を所有しているのではなく、安全を確保しようとしたことになります。
従って、戦争は所有できるものではなく、放棄できればいいが放棄できるのではないと感じられているのでしょう。9条は注意深く権利としての戦争を放棄すると規定しています。日本の人々が権利としての戦争を放棄すれば、満州攻撃や真珠湾攻撃のようなことは起こらず、世界は平和になると想定されているように思います。
9条は権利としての戦争を放棄していますが、「義務としての戦争」、「権利としての防衛」、「義務としての防衛」については規定がありません。それらは放棄することも保持することもできるものです。
(中略)
戦争は「攻撃は最大の防御である」という命題に従うものであり、防衛は「防御は最小の攻撃である」という命題に従うものです。
9条に規定されていない「義務としての戦争」、「権利としての防衛」、「義務としての防衛」をどのようにするかという考察が必要を思います。


結局、これまでの9条についてのぼくの主張は、この条文は「義務としての戦争」、つまり「義務(権利)としての防衛」までも放棄していると考えるべきではないか、ということだった。
これは、第2項を単独に読めばそのように読める。また、9条についての一般的な解釈も「本当はそうだが・・・」ということではないだろうか。
だが上に述べた通り、これは国家が国民もしくは住民を守るという義務を放棄することではないか。もし憲法がそれをうたっているのだとすると、主権者は国民だから、われわれ国民は自ら「他国の侵略に対してわれわれを守ってくれなくてよい」、いやある意味では「守ってはならない」と国に命じていることになる。
ぼくはこの要素が、9条と現行憲法全体の中心部にあるのではないか、と考えるわけだ。
この憲法が「安全の思想」とは根本的に異なるものではないかと書いたのは、そういう意味である。*1


おっしゃるように、この「絶対的平和主義」の考えは、容易に受け入れられがたいものだろう。
放棄されているのは「権利(国権の発動)としての戦争」であり、「義務としての防衛」ではない、と考えるのが現実に受容可能な解釈であるかもしれない。
だがそこで、当然ながら、「義務としての防衛」である戦争と、それを越えるような戦争とを、現実にはどう区分するか、という問題が出てくる。
実際には、多くの戦争は「防衛」や「国民の安全の確保」の名の元に行われるので、ここを区分することはたいへん難しい。そこで、あえて軍事力と交戦権を放棄することで、「防衛」を拡大解釈的にはみ出る様な「国権の発動」を抑止しようというのが、この条文の知恵だったとも考えられよう。
これに関連して、国の行っている行為が、「防衛」の範囲内にあるものか否かを判断する情報が、国民に十分に与えられうるかどうか、ということも大きな問題だろう。


玉川さんのご主張は、9条は「権利としての戦争」を放棄したものと考えて残し、それとは別に「義務としての戦争(防衛)」についての規定を行う条文を作成して加えるべきではないか、ということだと思う。
その通りだとすると、これは現実的な「9条擁護・部分改憲論」ということになろうかと思う。いずれにせよ、傾聴すべきご意見である。
繰り返しになるが、このご意見を読んでぼくがポイントだと思ったことは、憲法9条において、国は国民や居住者を他国の軍事的行動から守る義務まで放棄しているのか、ということだ。そうだとすると、憲法というものの性質上、われわれ主権者がそれを望んでいることになる。
ぼくの見解は、断言はできないが、この条文と憲法全体には、そういう意味合いが込められているのではないかと思う。それは、「安全のために」という口実で「国権の発動」が行われてしまう事態を、人々が何度も目のあたりにしたからではないか。その結果、この国の人々も、それ以外の人々も、もっとも安全でない事態に陥ってしまった。
憲法を変えない場合も、変える場合にも、このことはよく考慮されなければならないと思う。


もうひとつ、憲法9条について言うと、この条文を守れということが言われる場合、その主張の最大の論拠は、「歯止め論」であるのが現状だと思う。
つまり、軍事力に他ならない自衛隊というものがあり、また日米の同盟と在日米軍基地があったわけだから、憲法のこの条文は実際には有名無実だったようであるが、戦後の日本が本格的に戦争に入っていかないための最後の「歯止め」にはなっていた。イラクでの戦争以後の状況のなかで強まってきた改憲への動きは、この「歯止め」を失くしてしまおうという動きに他ならない、という主張だ。
その通りなのだろうと思うが、この「歯止め」が無かった場合に、実際にどうなっていたのかという、「ありえたかもしれない歴史」に対する想像力が、社会一般に欠如している事実があろう。
それが取り戻されないと、9条の価値や重要さは、現実性でなく理念としてしか伝わらず、多くの人の共感を得ることが難しいのではないか。
だからどうすればいいのかは分からないが、「平和主義者」の一人として今言えるのは、そういうことである。

*1:ここでもうひとつの問題は、国民はそれでよいとして、日本の領内に住む国民以外の居住者の安全についてはどう考えるのか、ということだろう。