『<自己責任>とは何か』を読む

桜井哲夫著『<自己責任>とは何か』(講談社現代新書)。

「自己責任」とは何か (講談社現代新書)

「自己責任」とは何か (講談社現代新書)


この書名だけを見た人は、昨年イラクで起こった日本人人質事件に関することを題材にした本と思うだろう。ところが、この本の出版は1998年である。イラクでの事件とは直接には何の関係もない。本当は関係あるのだが。
90年代の後半、日本社会では、「市場の開放」とか「規制緩和」が叫ばれ、いわゆるグローバル化の流れの中で「日本社会の特殊性」への批判が高まった。そのなかで、「自己責任」という言葉が濫用されるようになった。
「金融ビッグバンの時代は預金者の自己責任が重要」とか、「女性が恋愛をして結婚相手を選ぶのも自己責任で」といった具合だ。
この本は、そういう当時の風潮に異論を唱え、警鐘を鳴らしたものである。


これは、いまの言葉で言うと「新自由主義的」な風潮、ということになるのか。「自己責任」という言葉の意味するところはそういう考え方だと思うが、この時代は、もっぱら「グローバル化」という言葉を使っていた。では、「新自由主義」とグローバリゼーションは一緒なのか?そういうこともよく知らないのだ。
それと、去年のイラクの事件での政府の対応を思い出すと分かるように、政府や官僚の責任回避の口実として、国民に「自己責任」を押し付けるという構図になっていると思う。グローバル化が引き起こしたものは本来、官僚体制の閉鎖的な構造を打破する動きでもあったと思うのだが、今の日本では「自己責任」という語が逆に既存の体制を守るための口実として使われている。これも、腑に落ちない点だ。
まあとにかく、『<自己責任>とは何か』を読んでみよう。この本はたいへん勉強になったが、納得しがたい点もある。
(注意 長いです。)

「責任」と「自己責任」

まず最初に紹介しておきたいのは、「責任」とは何かについての、著者のたいへん明快な考え方である。これは、上記の「自己責任」という言葉の使われ方を通して、今の日本の社会のあり方を考える場合に、たいへん参考になる立派な考察だと思う。
著者がいうには、「責任」(responsibility)という言葉の本来の意味は、「ある約束に対する応答」ということである。
たとえば、90年代後半の日本を騒がせたいわゆる「住専問題」に関して著者は言う。
この問題では、「責任」があるといえるのは、大蔵省の「政策上の責任」、銀行や農協系金融機関の「経営管理・監督の責任」、それにお金を借りたのに返済できない諸組織の側の「借り手の責任」が、それぞれあるはずである。

そしてこの問題の場合、責任はないのが、一般国民です。確かに、バブルに踊ったものもいたでしょうが、それは少数派であって、大部分の国民にとって縁のない話でした。ですから、いち早く国民の税金(公的資金)を使って処理をしようとするのは、責任を負う必要のない者に対して責任を負わせようとするものだということが言えます。私は、「バブルに踊った日本国民は同罪である」という思考がその背後にある処理方法は、あたかも責任追及をうやむやにしようとした、かつての「一億総懺悔」のような話だと考えます。
                               (p171)

「責任」を弱い立場のものに押し付けることによって、権力者が本来の責任を逃れて問題を処理してしまうという構図が、ここにあった。
そして「結びにかえて」では、「責任」概念一般に関してこう述べている。

住専問題を例にとって説明しましたが、どのような場合も、必ず出来事の原因はあります。その出来事のルーツにさかのぼって、失敗を検証し、その都度の責任者の所在を明確にしていくことが必要です。直接責任のないものに対して共同責任や連帯責任をとらせるのは、失政をごまかす権力者の常套手段なのです。「自己責任」という言葉も、責任概念を曖昧化する方向でしかないことは、明らかだと言えます。責任とは、語源について説明したように、「ある約束に対する応答」であることを忘れてはなりません。
                               (p194)

金融自由化に伴ってよく使われるようになった「自己責任」という言葉は、新自由主義の論理をあらわすといわれるが、日本では官僚や政治家、大銀行や大企業の経営者たちの失政、失策をごまかすために、国民個々に責任を担わせるという、卑劣な言い逃れのレトリックとして用いられたのが実体である。
著者は、このようなレトリックがまかり通るのは、弱い者に抑圧のひずみが押し付けられていく「抑圧移譲の原理」というものが、近代以後の日本の社会では強く働いているからだとかんがえている。


日本社会における「責任」概念ということについての著者の考え方は、本書からは具体的には読み取り辛かったが、要は、権力のある者が責任をとらずに下のものに押し付けていくという構造が近代以後出来上がったのだという、丸山真男的な見解であると思う。
だがこの構造が、丸山真男のように「日本特殊的」なもの(封建的遺制)とは考えず、近代以後の世界に普遍的な社会構造の一つの表れと見る点が、この著者の大きな特徴だ。なぜなら、この本での著者の基本的な意図は、「規制緩和」を求めるグローバル化論者たちの「日本特殊論」が根拠のないものであることを示す点にあるからである。

「規制緩和」論議についての考え・「統制経済」は万国共通

著者によると、「規制緩和」や「市場の開放」を要求するグローバリゼーションの動きは、結局は「家族」や日本的な「会社」(組合と結びついている)といった、これまで機能してきた国内的なシステムを否定し破壊しようとする動きである。
こうしたシステムは、著者はこの言葉を使っていないが、「中間集団」と呼んでも差し支えないものだと思う。国際経済の市場の暴力から、つまり資本主義的な競争社会の過酷さから人々を保護する避難所とかネットのような役割を持つ社会集団。
それは、政治的には社民主義的、経済的には「計画経済」的という特徴を持つ。グローバル化の推進者は、これを、特殊日本的なものとして批判するが、著者によると、実はこれは日本だけのものではなく、二度の世界大戦を通して世界が構築してきた各国共通のシステムなのである、という。この主張が、本書の重要な要点である(これは、上記の「近代日本のシステムが特殊的ではない」という話とは別の話題だが、ナショナルな特殊性の否定ということでは同型の議論)。


つまり、ぼくも最近このブログに書いたことだが、戦後の日本社会のシステムの原型は、かつて満州国の権力者や官僚であった人たちが中心になって作り上げた、戦時中の「統制経済」のモデルに起源を持つことを、著者も強調する。岸信介や、石原莞爾といった人たちがデザインして、実験場だった満州から「総動員体制」時代(つまり、「総力戦」の時代)の日本に持ち込まれ行われたシステムが、戦後の経済・社会の原型になった。
たとえば、終身雇用制や年功賃金といった方法や、労使が協調する日本的な労使関係。それに税の源泉徴収制度と、それに基づく中央が税金を集中的に集めて地方に支出することで地方自治をコントロールする仕組み。政治家が公共事業のバラまきを通して票を確保する戦後の「土建国家」の形態も、この戦時中のシステムに根がある。
また、戦前の「株主主権型の企業システム」に変わって、「総動員体制」時代には、今日で言う「メインバンク制」の導入により「経営と所有の分離」が行われ、『株主の役割と権限が制限され、経営者と従業員の地位が上昇』した。つまり、大株主(所有者)に変わって、融資者としての銀行が企業経営に強い発言力を持つようになると同時に、『利潤の分配に労働者が参加する』「従業員管理企業」が登場して、従業員の地位の向上が実現した。さらに、日本独特の「下請け制度」による企業の系列化が、行政の指導のもとにはじめて行われたのも、この時代である。
このように、戦後日本の経済システムの原型は、「総動員体制」時代に確立されたということができる。


だが大事なことは、と著者は言う。こうした「統制経済」は、日本特有の現象ではなく、第一次世界大戦以後の世界の全世界的な流れに沿うものであった。アメリカのニューディール政策、ソビエトの五カ年計画、ドイツの国家社会主義(ナチズム)、すべてこの線上にあった。これを総括して著者は、「計画主義(プラニズム)」の時代と呼ぶ。1930年代に世界中で顕著となったこの流れの、ヨーロッパでの代表者は、ベルギーの社会主義者アンリ・ド・マンであるという。この人はたしか、あのポール・ド・マンのおじさんだ。
それはともかく、この流れは、国家機能を強大にし、国民統制を強化することで、経済をコントロールするという思想の産物である。こうした流れのなかに日本の「統制経済」もあるわけだが、第二次大戦後は、世界中でさらにその傾向が拡大され定着することになったと、著者は言う。

第二次大戦後は、ある意味で、社会主義が体制内に移植された時代だとも言えるのです。
                                   (p156)

したがって、「総動員体制」期の「統制経済」のシステムが戦後も継続したというのは、何も日本の特殊的な事態ではない。GHQ民政局のニューディール官僚たちが、戦後日本に行った社会主義的な改革は、岸や石原莞爾の敷いた路線と、なんら矛盾するものではなかったのだ。
たとえば従業員間の「給与格差」などは、戦時体制下ですでに減少する方向にあったのだが、戦後の社会主義的な改革は、それを追認し加速させただけである。そうして、今日われわれがイメージする「日本型経営」や「日本型労使関係」、そして「総中流社会」は、完成されていったのだ。
だから、こうしたドメスティック(国内的)な制度や仕組みを、日本の悪しき特殊性のように言い立てて、(グローバル・スタンダードの名の下に)「規制緩和」による「開国」を促すような言説はお門違いである、というのが著者の意見だ。

法人資本主義

ところで、株式のことに関して言うと、戦後の日本経済の大きな特徴は、個人の大株主の比率が大幅に減り、大企業の株を企業のみが持つ「法人資本主義」(奥村宏)であることだという。これは、会社乗っ取り、特に外国資本による乗っ取りを防ごうという意図から、60年ごろから加速した傾向で、そのなかからグループの企業同士で相互に株を持ち合うという特異な資本形態も誕生したらしい。
戦前の個人の大株主による企業支配が、「総動員体制」とそれを継承したGHQによる財閥解体で姿を消し、変わって企業同士による株の持ち合いというシステムが出来上がったわけだ。閉鎖的な民族資本のあり方、という点では戦前(総動員体制以前)から変わっていないようにも思えるが、何が本質的に変わったとかんがえるべきなのか?勉強不足で分からない。

中間領域擁護論と保守主義的傾向

さて、上に書いたように著者の主張は、経済のグローバル化による「規制緩和」や「市場開放」の要求は、絶対的な正義ではない、ということだ。「日本型経営」のような一見ドメスティックな日本特殊的とみえるシステムの存在は、実は世界経済の普遍的な仕組みの一つだったのであり、それは、各国の国民経済を成り立たせてきた計画主義的、社民主義的な装置の一種である。これを解体せよと迫ること(つまり、グローバリゼーション)は、人間を世界資本主義の過酷な競争から保護してきた各国の国民国家的な体制への介入である。

つまるところ、金融ビッグバンというのは、国境を越える資本による各コミュニティ(国民国家)の政治的・文化的なあり方への介入にほかなりません。
                                   (p183)

やや意外だが、著者の主張は、グローバル化から国民国家の統制主義的・社民主義的な体制と文化を守れ、ということである。「護送船団」必ずしも悪ならず。国民国家や「日本型経営」には悪い点もあったかもしれないが、過酷な資本の力から人々を守る役割も果たしてきたではないか。それを「グローバル化だ」といって解体を迫るのは、資本の暴力だ、というわけである。
これは、見ようによっては保守主義的なスタンスだ。じつは、ここがこの本の大きな要点であり、ぼくがやや違和感を持つ点でもある。
この保守主義的な態度というのは、次の文によくあらわれている。

資本制社会の究極の理想は、「無家族」です。家族という、システムにとって非効率な中間領域を解体して、バラバラの個人そのものを管理する方がずっと楽だからです。
                               (p29)

この、資本(競争社会)の暴力から個人を守る「中間領域」「アジール(聖域、避難所)」としての「家族」という考え方に、著者の思想的な立場がよく示されている。国民国家への原則的肯定も、統制主義的システムの容認も、これに基づく。
つまり、資本という暴力から個人を守る「家族」や(日本的)会社、組合などの中間集団は大切だ、という主張。
この「家族」についての言及は、恋愛による結婚を「自由競争」に見立てた林真理子や上野千鶴子の発言に対する反論としてなされているもので、結局、「自由競争」とか「規制緩和」といったことが一種のイデオロギーとして90年代後半の日本社会を蔽っていたことへの反駁なのである。
上野千鶴子というのは、こういうところでたいてい名前の出てくる人だが、著者の文脈では、グローバル化や新自由主義の圧力ということと、上野的なフェミニズムの「行き過ぎ」ということとが、重ね合わされて反駁され批判されることになっている。これはなにかというと、フェミニズムのようなアンチ・システム運動一般が批判されているわけではなくて、じつは、上野の過激な言説は、丸山真男に通じる近代主義的な過剰な「日本特殊性批判」として斥けられているのである。つまり、丸山・上野的な啓蒙的近代主義が、家族という中間領域の解体を夢見る資本の欲望と同種のものとして非難される。
著者が上野や林真理子の結婚観・家族論を、家庭を工場に見立てたタルコット・パーソンズ(この人もよく聞く名だが、読んだことない)などのアメリカ社会学のかんがえ方に近いものとして論じている点に、それがよく示されている。
「グローバル化の圧力」=「啓蒙的近代主義の行き過ぎ」という等式は、90年代以後の日本の、特に中年以上の男性論客たちによる保守主義的言説の大きな特徴になっているのではないだろうか。思い出すところでは、養老孟司、内田樹、小谷野敦、多くのおじさんやおじいさんたちが、異口同音にそんなことを言い続けている気がする。ぼくには、「異口同音に」としか思えないぐらい、よく目や耳にする。

ぼくの違和感・アーレントの「親密さ」

ぼくが、ここでの著者の考え方のどこに違和感を持つのかというと、たとえば「家族」というものの捉え方である。著者は、家族を資本にとっての外部のように言うが、少なくとも近代以後の社会では、家族は資本の装置の一部としても働いてきたではないか。つまり、家族が資本の要求に見合うように個人を鋳型に嵌める役割を果たしてきた、また排他的な集団として機能してきた、という側面も無視できない。
これは、「日本的経営」といったものについても、同様に当てはまる。「総動員体制」の時代に見やすいように、それは従業員の地位を向上させたが、従業員以外の底辺の労働者や、国内・国外の労働者・消費者に対して、収奪や圧迫の装置としても機能してきたではないか。
その部分を軽視して、国際資本の暴力から人々を守るためという理由で、これらのドメスティックな中間集団を擁護するという態度には、結果として排外的な方向に傾いていく危険を感じる。そして、日本の社会全体は実際に傾いていったのだ、と思うのだ。


それに関連して、やや突っ込んだことを書くと、著者が私的領域と公的領域という問題に関連して、アーレントの「親密さ」(『人間の条件』)という概念に言及しているくだりに注目したい。

彼女は、さらに、近代社会が「親密さ(インティマシー)」を発見したのは、外部の世界からの主観的な個人の内面への逃亡のためであり、この個人の主観は、かつては私的領域によって隠され、保護されていたものだったと論じています。
                               (p86)

アーレントによる「私的領域」の重視は、近代の資本主義的な社会に対する批判的思考として、ぼくも非常に重要なものであると思う。
しかし問題は、アーレントの言う「親密さ」が、果たして著者が言う「家族」のようなドメスティックな「避難所」によって保護され維持されてきたものと同質なのか、という点だ。
ぼくはむしろ、こうしたドメスティックな装置には、アーレント的な「親密さ」を破壊し奪いとる役割を資本のために果たしてきた部分があると思う。だからある場合には、そのドメスティックな装置を断念することによってしか、「親密さ」が守られないということがありうるのではないか。
これは、著者ばかりでなく、90年代以後の日本の保守主義的な言説全体に対しての、ぼくの異論である。


グローバル化にともなう計画主義的な制度の崩壊という事態を考えるとき、たしかに原則的には、ぼくも著者の意見に賛成である。「会社」や「組合」など従来の社民主義的な枠組みが解体されることによって、人々が過酷な競争社会のなかに投げ込まれていく状況は、悲惨な現実をすでに生んでいる。
これは、もっとも見やすい例としては、東西統一以後のドイツのことを考えてみればよい。旧東ドイツで行われていた「計画主義的」なシステムの崩壊は、今日ドイツの多くの人たちに、「誤りであった」と考えられている。党中心の官僚機構と社会主義経済による社会の運営は、それ自体としては崩れ去る必然性があったとはいえ、社会主義的なシステム、つまり「中間集団の経済社会への導入」というテーマの重要性までも一緒に葬り去ってしまったことはやはり間違いだった、という反省が、いまのドイツにはある。
これと同じことが、「統制経済」(日本型経営、組合)崩壊後の日本に関しても言えるはずである。「グローバル化」「自由競争」の名のもとに、「硬直した旧体制」と一緒に、人間が生きるための何か大切なものまで流し去ろうとしているのではないか、という自問は、われわれにとっても切実であろう。
だが一方で、「旧体制」がこれまで行使してきた「非人間的」な機能についても反省が必要である。それがないと、アンチ・グローバリズムは、アンチ・システムではなく、たんなる保守主義に終わってしまう。

「特殊性」について

ところで、著者の考え方の大きな特徴は、先ほども述べたように、ある国の文化や社会を論じるにあたって、「特殊性」という概念を認めないということである。どんな国の文化や社会も、複合的に成り立っているもので、時代によってもその性質は大きく異なるはずだ、ということである。これは、「構築主義的」といわれる立場になるのだろうが、この本の文脈ではグローバル化論者たちの「ジャパン・バッシング」における「日本文化特殊論」への一般的な反駁として出てきているものだ。
この立場自体は理解しやすいもので、多くの真理を含んでいると思う。
ただ、著者は「日本文化特殊論」を「純粋主義」の産物として斥けているのだが、その一方で日本文化の「柔軟性や雑居性」については、これを守るべき美質(つまり特殊性)と位置づけている。これはちょっと、矛盾してないだろうか?
揚げ足を取るようだが、グローバル化への反発が保守主義に向かうという日本の状況に関係しているかもしれないので、あえて指摘しておきたい。


特殊性に関して言うと、ぼくは、グローバリゼーションなどの立場からの闇雲な攻撃は論外としても、たとえば「日本的特殊性」なる属性の存在をまったく認めないわけにはいかないと思う。
たとえば「無責任の体系」のようなものがある種の社会的な傾向としてどこの国のどの社会にも存在しうるものに還元できるとしても、著者も認めているように、そうした傾向が特に出現しやすいフィジカルな条件というものは存在するだろう。
たとえば地理的・気候的な条件(辺境の島国であること)とか、文字表記のシステム、あるいは家族構造などである。それらは、基本的に変わらないものであったり、長い歴史を通して継続してきた条件である。「幻想」ではない。
こうした条件に基づいてある社会に何らかの傾向が多く出現しているのなら、それを「特殊性」と認めないわけにはいかない。だから、「日本的特殊性」についての思考や議論は、それが「日本人は〜」といった悪しき本質主義に陥らない限りは、行われる妥当性を持つ。
だが、じつはこれは著者も認めている点である。

行政改革と規制緩和の違い?

ところで著者は、日本社会の「旧体制」については、改革の必要をまったく認めていないのかというと、そうではない。
著者は、「行政改革」の必要性を、「規制緩和」とは区別して強調している。
それは、現代世界共通の要請なのであるが、日本社会においても、長らく続いてきた「統制経済」的な官僚主導の社会システムは、色々な歪みが生じ始めているのだというのが、著者の見解である。
世界共通の要請であるというのは、著者が戦後の世界的な「計画主義」の社会を、西側においても東側においても、官僚による管理、つまりテクノクラート支配を本質とすると考えていることによる。
著者は、同性愛解放運動やフェミニズム、少数民族解放運動、環境保護運動などの、日本でも80年代頃から盛んになった新しい社会運動の形態を、ウォーラーステインにならって「68年革命」にルーツを持つ「アンチ・システム」運動としてとらえている。このシステムというのがなにかというと、戦後の世界において支配的であったテクノクラート支配の体制だった、というわけだ。
テクノクラート支配のほころびは、社会主義圏の腐敗と崩壊という状況を生み出すと同時に、日本でもやはり官僚体制や政治の腐敗といった現実を露呈させた。
こうした特権的な官僚体制を解体していくこと(行政改革)はぜひとも必要であり、それは「中間集団」を解体する「規制緩和」とは別のことだ、というわけである。
だがこの区別が、ぼくにはもうひとつ判然としない。

総括

著者は丸山真男の「無責任の体系」の論理をやや批判的に援用しながら、それを脱近代主義的に用いて日本社会の現状をとらえようとしているわけだが、結局のところ、それが「脱近代主義的」ではなく、たんに前近代主義的、言い換えれば悪い意味で近代主義を脱していない、という気がする。
だから、彼の構造的な日本社会への分析は、結局分かりにくい。丸山真男の悪い面を継承しているという気がする。
「家族」をめぐる議論のところで見たように、むしろ上野千鶴子の暴力的な裁断の方に、アーレントのいう「親密さ」の、つまり本当の意味での「人間らしさ」の確保につながる可能性があるように思える。
著者のグローバル化批判は、結局きわめて「日本特殊的」な議論に終わっていると思う。「何を守りたいのか」が、いまひとつ判然としないのである。


ただ、著者の「責任」、「自己責任」についての議論は、たいへん説得力があるし、重要である。
ただし、イラクの事件を経験した現在の私たちにとっては、これを「大きな権力」対弱い個人という抑圧的な図式のなかでだけ考えるのでは不十分に思える。しかしそれは、私たち自身が考えるべき課題である。


「総動員体制」の継続という問題が、日本固有の事態ではないという本書の指摘は、ぼくにはたいへん示唆的であった。20世紀を「計画主義の時代」ととらえ、冷戦崩壊までの戦後の世界をその強固な枠組みのなかに見出す著者の視点は、より大きな視野のなかで日本の現状を考えることを可能にするだろう。
また同時に、文化・社会についての構築主義的なとらえ方の提示(たとえば、戦前の日本社会や日本の社会運動の家父長制的な性格は、ドイツからの移入に由来している、といった)によって、「日本近代の性格」という、より長いスパンのテーマを、ナショナルな限定を越えたところで考える視座も、本書は提供してくれていると思う。