竹内好「近代の超克」その2 戦争と生命線

小林秀雄

きのうの続き。


最初に余談。
きのう小林秀雄のことに少し触れたが、小林は、戦前から戦後にかけて際立ったカリスマ性を持ち続けた日本の文化人の一人だ。
戦後第一のカリスマ三島由紀夫が代表作『金閣寺』を発表した直後、小林と対談し、たしか次のようなやりとりがあった。

小林 『三島君。世間ではあの小説を叙事詩だと言ってるようだが、あれは抒情詩だね。』
三島 『いやあ。分かりますか。』

このくだりを読んだとき、「そんなこと、俺でも言えるわ」と思ったが、小林にじかに言われると、さすがの三島も恐れ入ってしまう、というところがあったんだろうな。三島はいまの基準で考えても、文学者のなかでは超絶的に頭のいい人だったと思うが、小林の前に出ると、やはり呑まれたりすることもあったのだろう。
小林のこういう印象批評的な一言というのは、パドック解説で故大川慶次郎がよく言っていた、「この馬、バカによく見えますね」というのと同じで、内容ではなく言表したということ自体に、相手を黙らせ考え込ませるような力があったということであろう。
写真を見ると、どこか胡散臭そうなおっさんなのだが、「カリスマ」たる由縁である。

「抵抗」についての議論

さて、「近代の超克」の話。
この論文の重要な論点の一つは、進行していく戦争の各段階における文学者や知識人の「抵抗」をどのように具体的にとらえるかということ。すなわち、段階的な抵抗というものの可能性がここで探られている。
以前読んだときは、ここに無理があるように感じた。今回読んでみると、そうでもないのかな、と思えた。どちらが正しいのか。要は、現在の状況が「別の段階」に入ってしまっているということだろうが。

抵抗と屈服とは、具体的な状況に照らして見なければならぬので、今日から何とも不様に見える「近代の超克」にしても、まだ一点の救済の余地はあるように私には思われる。(中略)抵抗にも幾段階もあり、屈服にも幾段階もある。

戦争一般を原理的に否定するものは絶対平和主義しかない。しかし絶対平和主義は、具体的状況への適応能力には欠けている。(中略)戦争に反対する立場は、どの段階でのどの性質の戦争に反対するかによって評価が決まる。

通常、戦争中には表立った組織的な抵抗というものは日本ではなかったということになっていて、竹内もその通りだと認めている。また、個人としての抵抗もきわめて少なかったはずだと書かれている。この「抵抗」という言葉をどう位置づけるかをめぐって、戦後ずっと議論がなされてきた。
たとえば刑務所に入れられ「獄中不転向」を貫いた人たちがいたわけだが、この人たちの態度というのは、戦争に突っ走っていく全体主義の社会を変えるためになにか具体的な働きかけをしたことになってるのか、という疑問が戦後多く出された。つまり、「獄中不転向」は、自己満足であって、「抵抗」でもなんでもない、という批判である。
吉本隆明の議論は、その代表的なものだが、竹内好のここでの論も、それに近い立場からなされているといえる。「大衆」と解離したところで「抵抗」などありえないと考える点で、吉本と竹内は近い位置に立っている。だが、「大衆」という言葉のとらえ方において、両者には大きな違いがあったのではないか、とも思う。
吉本らのこうした批判的言説の大きな背景は、よく知られているように、日本共産党のヘゲモニーに対する左翼内部の闘争ということだったわけだが、このことには、ここでは立ち入らない。
また、竹内が考える「総力戦」の時期の「抵抗」の具体例が、きのう書いたように中野重治の仕事であるわけだが、それについては後述。

「生命線」論・日本近代のアポリア・安保

この論文で、竹内は日中戦争の段階と、太平洋戦争突入後の「総力戦」の段階とを明確に区別している。座談会「近代の超克」は、その変わり目の段階でなされた知識人たちの「抵抗」(「総力戦」への)の最後の試みであったが、「アジア認識の浅さ」を一因とする思想性の欠如ゆえに、その試みは挫折したのだというのが、竹内の見方である。

おそらく問題の焦点は、戦争の性質をどう解するかにかかっている。そして戦争は、一九四一年十二月八日に突如はじまったのでなく、はるか前から連続して進行していた。戦争の開始は一九三七年にさかのぼることもできるし、一九三一年までさかのぼることもできる。そしてこの段階では、戦争反対勢力がまだ存在していた。しかし、連続する進行のなかで戦争の性質が各段階ごとに変化するのに対応して、有効に戦争反対勢力の戦線を組むことができず、いつも手おくれになって、一九四一年まで来てしまったのが歴史の事実である。
「支那事変」とよばれる戦争状態が、中国に対する侵略戦争であることは、「文学界」同人をふくめて、当時の知識人の間のほぼ通念であった。しかし、その認識の論理は、民族的使命観の一支柱である「生命線」論の実感的な強さに対抗できるだけ強くなかった。一方、侵略戦争を原則的に否定する共産主義は、原則を固執して状況適応の柔軟さを欠いていた。

竹内の議論だと、アジアへの侵略戦争は悪であるが、アメリカや先進国との戦争はそうとは言い切れず、だから太平洋戦争に突入したことによって日本の知識人には戦争に反対する強い根拠が失われた、という整理になるであろう。
しかし、そういうなしくずしのようなことになった根本的な原因は、侵略戦争を否定しきれなかった『「生命線」論の実感的な強さ』というものに求められよう。このことが今日重要だと思うのは、現在においても、アメリカの軍事力の行使に対する支持・追従・協力に関して、「アメリカに逆らうとたいへんなことになる」という言い方が、最後の決め手のようになされるのを見てきたからだ。つまり、日米同盟とアメリカへの食料・資源などの依存が、現在の「生命線」論であり、誰しも逆らいがたい「民族的使命観の一支柱」なのだ。


竹内は、この「生命線」論が「実感的な強さ」を持ってしまったことの理由を、「日本近代史のアポリア」に見出しているといえる。これは、日本の近代化の過程、欧米からの独立獲得の過程がアジアへの侵略の過程に他ならなかったという事情を指す。
竹内は、大川周明を引いて言う。

大川の嘆きは一九四一年における日華事変の解決不能に対して発せられたものであるが、それは一九四五年にも解決されず、一九五九年の現在もまだ解決されていないのは周知のとおりである。なぜ解決されないか。太平洋戦争の二重構造が認識されないままに忘れられようとしているからであり、さかのぼっていえば、明治国家の二重構造が認識の対象にされないからである。明治時代を一貫する日本の基本国策は、完全独立の実現にあった。開国に際しての安政の不平等条約の最終廃棄(関税自主権)は明治四十四年まで持ち越された。しかし一方、日本は早くも明治九年に朝鮮に不平等条約を押しつけている。朝鮮や中国への不平等条約の強要が日本自身の不平等条約からの脱却と相関的であった。(中略)
安政の不平等条約からの脱却のためには五十年かかった。しかもその解決は間違っていた。

これが、日本の近代と戦争についての、竹内の基本的な認識だ。
彼の言いたいのは、欧米の支配と戦うこと(独立の確保)と、アジアの独占的な支配者になることという二重の目的を持ったところに、太平洋戦争の基本的な構造があるが、この二重構造は日本近代史全体の本質でもあったということだ。「アポリア」とはこの意味である。
戦争を遂行する側は、「大東亜戦争」を、アジアを欧米の支配から解放する戦争と位置づけようとしたが、アジアにとっての「欧米」的な支配者とは何よりも日本であったのだから、『連帯の基礎は現実にはなかった。』と竹内は述べる。


この竹内の見方が正しいとすると、日本が太平洋戦争に敗北したということの大きな意味は、資源・食料などの面での「欧米からの独立」の確保に失敗したことである、といえるだろう。敗戦から日米安保条約の締結という流れは、ナショナリスト竹内にとっては、そういう欧米への従属の過程として見えていたはずである。敗戦から15年という時点において、「安保闘争」が(冷戦下であるにもかかわらず)部分的ながら左右の共闘として行われえた大きな理由は、ここにあろう。
実際、そのことによって過去のアジアへの侵略が正当化できるかどうかは別にして、第二次大戦の敗北によってもたらされたものが、日本のアメリカへの総合的な依存・従属に他ならなかったという事実は、否定することができないのではないか。
そしてこの対米従属は、アジアからの日本の断絶・孤立化によって決定的なものになったとかんがえられる。アジア諸国からの日本の孤立化は、現在も変わらぬアメリカの極東政策の根本だが、日本の近代史を振り返るとき、日本のアジアに対する「生命線」確保のやり方がもっと違ったものであれば、少なくともそれがどこかで修正されていれば、ここまでやすやすと日本がアジア諸国から切り離され、アメリカに「生命線」を牛耳られる状況にはならなかったのではないか。そうも思う。

絶対平和主義と「生命線」論

一方で、竹内がその実効性を批判する「絶対平和主義」が、『「生命線」論の実感的な強さ』に打ち克ちうる、唯一の力だったのではないか、という見方ももちろん成り立つ。
「民族の生命線」という物言いに対して、他の人々(といっても、結果的に自国民も含むわけだが)の生命の犠牲によって成り立つ「生命線」になんの正当性があるのか、という異議は当然成り立つだろう。
もしかすると「生命線」という概念自体が、「民族の」といった形容があえて付されていなくても、ナショナリズムや自民族中心主義と通底するところを持つのかもしれず、とするとナショナリズムは「生命線」の名のもとでの暴力(戦争)の遂行には決して抗えないのであり、ナショナリズムを原理として戦争に抵抗するということ自体が、本当は無理なのかもしれない。
竹内は、戦争をトータルに否定するものとしての「絶対平和主義」の立場は、『日本では問題にならぬくらい弱』かったとだけ語り、だから「総力戦」の時代における段階的な抵抗の哲学と方法が今後も探究されねばならないと言っているのだが、「絶対平和主義」の立場がなぜ日本では弱かったのか、そこが大事なところだとおもう。
竹内の議論で一番違和感のあるのは、やはりこの部分だ。
ナショナリズムを越えるような連帯の原理を、「生命線」論を越えるような生命重視の思想を、なぜ近代の日本の人たちが育むことが出来なかったのか、そういう問いかけは、今後も繰り返しなされるべきであると思う。

竹内の戦争観への疑問

話がえらく前後したが、日中戦争の段階から太平洋戦争の「総力戦」の段階に移行する時期において、座談会「近代の超克」はなされた。
竹内の視点からすれば、この段階でなされるべき思想としての「抵抗」は、如上の「欧米からの独立」と「アジアへの侵略」という、戦争と日本近代全体の二重構造を明るみに出すということであった。

(総力戦の段階に際して戦争に抵抗しうるような思想は)発見はされなかったが、発見への努力はあった。戦争の二重構造にクサビを打ち込み、戦争の性格を変えることによってそれは可能となる。

竹内は、座談会「近代の超克」を含めた戦前・戦中の思想的な営為は、この二重構造(アポリア)を明確にすることが出来なかったがゆえに、有効な抵抗をなしえなかったのだ、と言いたいのである。
結局のところ竹内は、戦争そのものについてどうかんがえているのか、そこが判然としない。いや、竹内にははっきりしているのだろうが、ぼくには理解しきれないところがある。
「二重構造にクサビを打ち込む」というのは、日本のナショナリズムの戦いの向かうべき道を明確にするための方法であって、戦争の遂行に対する「抵抗」では必ずしもない気がする。「独立」や「解放」という名目で正当化されていれば、竹内はどんな戦争をも容認するのだろうか。それとも、思想的な自立が確保されているなら、そういう破壊的なことには決してならない、という考えであろうか。


やっぱり長くなってきたので、明日に続きます。