届かない投票券と今日の政治権力の二側面

朝、いつも投票するときに選管から届く、あのハガキみたいな奴、投票券というのか、名前もよく知らなかったが、日曜が投票日だというのにまだ届いてないぞと思ってツイートしたが、直後に、その問題が記事になっているのを見た。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/155647


ここに書いてある通り、この券が無くても投票は出来るのである。
だが、そんなことを知ったのも、私はそんなに以前のことではない。知らない人だって、世の中にはたくさん居るはずだ。
そんなことは、投票しようという意志があれば、問い合わせれば分かるではないかと思うかもしれないが、そこまでする意志の人が少ないから、こんな政治状況になってるわけだ。そして、この投票する意志の少ない人々に、少しでも投票への関心を持たせるように工夫することが、民主主義の精神というものではないのか。そこは自己責任で、放置するとでも言うのか?
投票券が来なくても、投票日には投票所に行こうなどという人間は、よほど政治に対するモチベーションのある人間だ。少し前までの私なら、投票には行かないだろう。
選管は、いや、政治家やマスメディアといったものの総体が、そういう種類の人間を、政治の場、民主主義の場から排除しようとしていると思う。


実際には、そういう消極的な人間が世の中に大勢居るから、こんなに予想投票率も低いわけで、そこに働きかけなければ投票率が上がるはずはないのだが、(多くの人がまだ投票先を決めかねていることなどは、あまり伝えず)「自民圧勝」で大勢が決しているという面ばかりを伝える大半のマスコミの「客観」報道を見ても、また、この投票券の件や、35%もの投票所で投票終了時刻を繰り上げるなどという、ふざけた選管の振る舞いを見ても、この消極的な多数の人達が少しでも選挙に関心をもったり、投票所に足を向けやすい条件を整えて、政治参加を促そうなどという気持ちは、まったくない事が分かる。
むしろ逆に、行なわれていることは、政治(投票)に参加する人の範囲を、従来よりも非常に狭く制限してしまおうということだ。つまり、「政治に参加するべき人」と「参加する必要がない(すべきでない)人」とを区分し、後者を政治的に無力化していこう、政治の場(公共圏)から排除して行こうという方向性を感じる。
これは、上の日刊ゲンダイの記事にあるように、たしかに、投票率が下がった方が有利だといわれる現与党の思惑に沿ったものとも考えられるが(なにしろ、すべて力づくでやってしまおうという政権だから、何をするか分かったものではないが)、同時にまた、現在の世界的な議会政治の傾向であるとも考えられる。
それはつまり、ポピュリズムと呼ばれるような、大衆を巧みに操作することで、投票行動を通して権力の維持を図ろうとする支配層の技法に代って、大衆の大部分を議会制民主主義の枠の外に追放し、あらゆる面で政治的に無力化するという、新たな技法が出現しつつあるということなのかも知れないのだ。
それはひと口に言えば、前近代的・前民主主義的な政治権力の復権、ということになろう。
日本の安倍政治は、その尖兵のようなものだとも考えられる。
このように考えるなら、例えば、台湾や香港で最近起きている政治的反乱は、この世界的な「前近代的統治の復権」の流れに対する、それぞれの国における異議申し立て、抵抗の現われであるとも捉えられるわけだ。
日本においては、この「復権」が、際立って容易に進んでいることは間違いないだろう。
戦後の日本には、民主主義なるものは、たしかにあることはあったのだが、それはこの上もなく脆弱な代物であったことが、明らかになっているのだと思う。


ところで、この「前近代的な政治の復権」の動きは、二つの側面において捉える必要があると思う。
それは、A「大衆に政治参加をあきらめさせる」力という側面と、B「政治的な場を著しく狭く限定する」傾向という側面、とである。
このうち、Aについては、とりあえず、デモに行こうとか、投票に行こうといったことが対抗手段になるわけだが、ここでは特にBの方について注意しておきたい。
それは、たとえば階層によって(制限選挙)、制度によって(小選挙区制)、そして政治的主体性や意志のような主意的契機によって(モチベーションの有無)、いずれにせよ、政治の場に存在しうる者の資格を、狭く限定して行こうとする傾向である。政治家の発言やマスコミの報道、そして選管のサボタージュ的な行為によって示唆される「政治に消極的な大衆は、投票日は家で寝てろ」というような、暗黙または露骨なメッセージは、この三番目のものを推し進めているのである。
例えば、選管による投票券の送付の遅れや広報の不備、また投票終了時刻の繰り上げといった怠慢な態度は、あたかも大衆の投票行動が事務手続きの円滑さよりも価値の劣るものだと印象付けることで、民主主義的な政治参加の心理的価値を切り下げる効果を生んでいる。
このように、政治家や行政や資本(無論、大マスコミはその一部だ)の攻勢によって、大衆の政治行動の意義はその価値を切り下げられ、私たちは今や、政治と公共性のフィールドから、すっかり追い出される一歩手前のところまで来ている。その次には、生存の場そのものからさえ、大規模な追放が起こりかねないのである。
だが、ここで考えておくべきことの一つは、この傾向は、議会制民主主義という近代的な仕組みが元々はらんでいた制限的な性格の帰結であるのかもしれない、ということだ。つまり、政治的な場(公共圏)への参加の資格を、出来るだけ狭く限定しようとする支配層の意図が、議会制民主主義には含まれており、そのことが、今日の「民主主義の危機」を招来する遠因になっているのではないか。
支配の装置としての民主主義は、少し前まではポピュリズムという形態をとることで大衆を動員して機能していたが、それはいま起きている「大衆の排除」という新たな政治形態の前段階だったのかもしれない。安倍政権が、小泉ポピュリズム政権の後継者のようにして登場してきたことも、こう考えれば理解しやすいだろう。
つまり、われわれの行なうべき抵抗においては、民主主義を圧殺しようとする前近代的志向を持つ権力への対峙と同時に、民主主義という近代の仕組みの問題性も問われなければならないということである。
例えば、投票などの政治行動へのモチベーションや関心、能力などが低いという理由で、一定の人々を蔑視したり排除するような政治についての考え方そのものを、批判していかなくてはならない。そのようにして、近代主義を乗り越えていかなくては、新たな政治権力の形態への抵抗は不可能であろう。
特にアジア諸国での民衆の動きは、そのことを示唆しているようにも思われる。つまりそれらは、アジアが西洋的理念を懐疑する前近代的政治権力の磁力の強い地域であることを示しているばかりではなく、(しばしば自国の政府の力を介してのしかかってくる)帝国主義や植民地主義といった近代的権力に対する民衆の抵抗の歴史の長さと強さを示しているのかも知れないのだ。