属性と意味づけ・ルール変更

滅多にトラックバックはしないのだが、「記識の外」さんのこちらの記事の内容がたいへん面白かったので、書かれていることを糸口にして自分なりに少しかんがえてみたい。


まず、ここのところ。

そもそもフリーターや派遣労働者などの非正規雇用労働力の存在を社会が求め、ニートが増加している中で、いったい「公の領域で効率よく生産活動に従事して社会を動か」す、ということはどのような事柄を指しているのだろうか、という疑問がある。非正規雇用労働力の市場においては男性も女性も等しく安価な使い捨て労働力として企業から期待されているだけであるし、そうした社会空間においても男性は「公の領域で効率良く生産活動に従事して社会を動か」していると言えるのだろうか。このような労働の場面においても、もちろん「男性/女性」というコードは社会的相互作用を可能にするためのコードとして十分に機能している。そして多くの場合管理職に就くことができる機会が与えられているのは、まだ男性のほうが多いだろう。けれども、現在の労働現場における混迷した状況を、単純にジェンダー間の支配秩序の問題だけに落とし込んでしまうのは間違いであるような気がする。それはかつてのマルクス主義に見られた還元主義と同じ論理なのではないだろうか。


いわゆる「非正規雇用労働力」を、グローバル化のなかでの生き残りのために日本の企業が期待しているのだという現実、この認識を出発点とすることには同意できる。現在の日本の教育体制は、ここで言われている「安価な使い捨て労働力」を大量に生産しようとする意図のもとに変容していきつつある、とぼくは考えている。これは、産業の分野だけでなく、軍事的な面に関しても同じことが言えるとも思っているが、この点はここでは保留。


ところで上の文章で語られているのは、この労働現場の状況の変容のなかでは、「男性/女性」という差異は以前ほど決定的な意味を持たなくなってきているので、ジェンダー間の支配秩序の問題だけにこだわっていたのでは、問題の本質を見失ってしまうのではないか、という危惧であろう。階級闘争的な抑圧モデルの重視が、現在の産業構造のなかで起こっている現実の問題への対処にどこまで有効か、あるいはどの程度邪魔になるのか、という主題に一般化できるだろう。
これはもちろん一概に答えを出せる問題ではないが、ぼくの関心の範囲内で、一般的に言えるのは次のようなことになるとおもう。


ぼくは先日のこのエントリーのなかで、「線引きの恣意性」ということを書いた。優遇されるものと、冷遇されあるいは迫害されるものとを分かつ線を引くのは、結局、権力を持つものだ。当面、それを分かりやすく「国家」とか「企業」と呼んでもいいだろう。われわれは、この区分線のどちら側に位置しようとも、「線を引かれる」立場にいるという点では変わりがない。基本的に、自分では線は引けない。社会的に弱い立場だということ、あるいは権力を持たないということの定義は、「線を引かれる」立場であるということだろう。これは、法や政治制度の問題とは、少し違うみたいだ。
そして、この線をどう引くかは、結局権力の恣意に委ねられる。制度上はそうなってはいけないのだろうが、現実にはそうなってきた。きのうまで「国民」だ「男」だといって威張ってきたが、明日から「差別される側ですよ」と国から言い渡されるということは、つねに起こりうるし、起こってきた。
国とか、それに結びつく大きな権力を持っている人たちというのは、ルールを勝手に変えられるのだ。だから、それをちょっとでも抑制しようとして憲法とかいろんな仕組みを考えてきたが、うまく働かない場合が多いようだ。


ちょっと話がずれるが、ぼくの親たちが子どもの頃、日本は戦争に負けて国の経済がやりくりできなくなり、それを打開するために突然お金の価値を切り下げるという政策をとったそうだ。百万円貯めていたお金が、突然十万円の価値しか持たなくなる。理不尽極まりない話だが、最終的には文句が言えない、いや、言ってもどうにもならなかったのだ。言った人たちもいただろうが、ねじ伏せられた。
この時代を経験した人たちは、それ以後の世代よりも、国やその制度について、本当には信用していないところがある。これは「愛国心」といったこととは、また別だ。ともかく「まあ世の中は、そんなもんだ」という感覚があるらしい。ぼくには正直、そういう感覚はあまりない。これは経験しないと分からんことなんやろなあ。


それでぼくが言いたいのは、ルールは勝手に変えられてしまいますよ、ということだ。
たしかに、上で言われているように、「男性/女性」という枠組み(区分線)は、今日でも社会の支配秩序の一つとして有力に働いている。しかし、たとえばその枠組みが現実の利益や支配秩序において、どのぐらい重大な意味を持つかということ、また、その枠組みがどの程度揺るがしがたいものであるかということを決めるのは、「われわれ」ではない。少なくとも、ぼくではない。
だから、自分の身体に引かれているこの区分線(ジェンダーに限らない)に拘ることも大切だが、その区分線によって規定されるものが、最終的には他人の手で意味や価値付けを変更されうるということを忘れない程度にしておくべきだ、ということしかいえない。というのは、この枠組み(区分線)という奴には、それに拘ることによって(反体制的なこだわりかたであっても)、その変更可能性を意識しないようにさせること、それによって権力の実体を個々の意識から見えにくくしておこうとする意図が、込められているようにおもえるからだ。つまり、「分断統治」みたいなもの。


このことは、「枠組み」という言葉を、「属性」と言い換えれば理解しやすくなろう。
たとえば「女性」であること、「国民でない」こと、「失業者」であること、といった諸属性は、いずれも社会的な不利益を生じさせるものとして意味づけられうる。だが肝心なのは、人が属性を持つということと、その属性がある社会のなかで何らかの社会的な意味を付与されているということ(階級闘争的問題)とは、たぶん別だということだ。「権力」の実体が何かは別にして、とにかくそういう意味づけをするものが権力だといえよう。
ということは、これらのどれがもっとも深刻な不利益を生じさせる属性であるかは、権力によって好きなように変更されうるのである。たとえば、「国民」であることが、もはやかつてのような特権性を保証しないというルール変更が、いまなされ始めている。
このとき、各々が置かれた属性に本質的に結びついた意味や価値があるかのように思い込み、自分ではなく、自分の属性が社会的な権利と価値を認められることに拘泥するなら、本末転倒となり、それぞれの属性を持った人同士の連帯の可能性は失われる。
これが、ぼくがいま確認しておきたいことである。


権力による一方的なルール(属性の意味づけ)の変更というものは、気がついたときには有無を言わせず行われていた後だったという場合が多いようだ。みんな普通は、属性の社会的な意味がまったく恣意的に「決められてしまう」ものだということに、なかなか気づく機会がないからだろう。


あと、以下の部分について少し。

前回ちらっと「性を通じた関係性やパートナーシップの在り方・作り方についても同時にそこで学んでいく必要があるだろう」と書いたけど、これから結婚して家庭生活を営むことになるかもしれない男子や女子に教えるべきなのは、ジェンダー支配秩序のような実証するのが難しい社会構造の話というよりも(ただしこれがまったく不必要であるということを意味していない)、むしろこれからのパートナーシップにおいて実際に平等な関係性を実現できるような「付き合い方」の方図なのではないかな。


「ジェンダー支配秩序」は「実証するのが難しい」というのは、ぼくには具体的によく分からないが、まあ、そうかもしれない。
いえるのは、たぶん「付き合い方」の具体的な実践の方が、社会構造の話よりも難しいが大切なことだろう、ということだけだ。
しかし、上に付言されているように、後者が「まったく不必要」というわけではない。これは消極的な評価のように聞こえるが、まあ、理論とか学問というものは、その程度の位置づけであった方が好ましいとおもう。あんまり、偉くなろうとしてはいけない。というのは、そうなろうとすると、権力からの援軍が必要になるだろうから。それにもともと、自分で思っているより力の強いものであるから、力加減を考えた方がよい、という理由もある。


それは別にして、ぼく自身のことを言うと、自分は「具体的な実践」にかかわることが、たいへん不得手だと思っているが、どうなのだろう。まあ、いろんな実践があっていいのだろうが。
理論や学問の道に行くということも難しいので、どうしたものかと思う今日この頃だ。