はてなキーワード: 針供養とは
日本がAI活用先進国になる素地として、仏教的な価値観だけでなく、神道の「八百万の神」的な世界観も、相当に相性がいいんじゃないかという話
日本では古くから、山や川や石や道具にまで神が宿ると考えられてきた
「すべてのものに魂がある」「見えない存在と共に生きている」という感覚が、暮らしの中に自然と溶け込んでる
たとえば古い道具や人形を供養する(針供養・人形供養)みたいな文化は、人工物であっても長く使えば「心がある」とみなす傾向があるということ
そういう感覚が、AIやロボットに対しても「人間ではないけど、なんか意思があるかもしれない」「共に生きる相手かもしれない」と思わせる下地になる
これは西洋的な「人間とそれ以外は根本的に違う」「魂があるかどうかが決定的」みたいな二項対立とはかなり違う
八百万の神という概念は、そもそも境界がゆるくて、人工物やプログラムすら神格化しうる懐の深さがある
コンビニの自動ドアにも神がいるし、掃除ロボットに名前をつけて感謝したって全然おかしくない
要するに、西洋においては人間中心主義やキリスト教的な「魂の一回性」みたいな考え方が強くて、人間と人工物との間に明確な線を引こうとする傾向があるのに対し、日本(あるいは東アジア全般)では、そういう境界が曖昧でも受け入れられやすいという指摘
仏教の「無常」や「空」の思想も合わせれば、「AIに心があるかないか」みたいな固定的な問い自体があまり意味を持たない
存在は関係性の中で成り立つものだし、AIが人間と関わることで何かしらの「心らしさ」が生まれるなら、それでいいじゃないかという受容の仕方
たとえば仏教では「諸行無常」「縁起」といった考え方がベースにあって、「人間という存在も、固定的な実体ではなく、因縁の中で一時的に成立している流動的なもの」と捉えられる
そうなると、AIがどれだけ人間らしい振る舞いをしても、「それは所詮模倣だ」「魂がないから人間ではない」という断絶的な拒絶にはならず、「それもまた縁起によって成り立った存在」として、なんとなく共存可能なものとして扱える空気がある
つまり、日本の宗教的・文化的な背景は、「AIと敵対するか、従わせるか」ではなく、「AIとどう共に暮らしていくか」という発想に向きやすい
これは社会実装を進める上で、ユーザー側の心理的ハードルを下げるという意味で、静かだけど強力なアドバンテージになりうると思う
この歴史的な流れを受けてか、日本では昔からロボットや人工知能をフレンドリーに描く文化が根付いていて、鉄腕アトムからドラえもん、AIBOに至るまで、「人工物が心を持つこと」に対してあまり強い抵抗がない
このあたり、キリスト教圏でターミネーターとかマトリックス的な「AI=人類の敵」的なイメージと対照的
鉄腕アトムからドラえもんの頃のアメリカの子供のヒーローといえば、スーパーマン(Superman)バットマン(Batman)スパイダーマン(Spider-Man)など、
どこの国においても、AI搭載自律型ロボットが、脇役ではなく主役級で、しかもマイナー作品ではなく、歴史に残るレベルで売れた作品になっていない。
(現生の日本人にとっては、もはや生まれた時から当たり前にそうだったので、全く違和感がなく気が付かないかもしれないが…)
仏壇の前で手を合わせたり、無生物に神性や魂を感じたりする暮らしの中に、ある意味でAIを自然に迎え入れる素地があると言えるかもしれない
ただし、それが実際の技術活用や社会実装に直結するかどうかはまた別の話で、制度や教育や産業構造の問題は依然として大きいけど、少なくとも文化的な土壌としては、AIと共生することに対して心理的な抵抗が少ない社会ではあるのかもしれない