知的障害の兄がいる。今40代だが精神は6歳児程度の発達だと言われている。
会話は基本オウム返しで、「人を叩いたらいけません、叩いたらちゃんと謝って」と教えたら「ごめんなさい」と言いながら叩くような人に成長した。
もっとも、兄が叩くのは身内だけなので警察沙汰になったことはない。
ひとりで留守番はさせられないし、ひとりでお出かけするのも難しいが、事前に決めた駅までなら電車に乗って作業所に行き、少しのお金を稼ぐこともできる。
自分の家はなかなか特殊で、きっと他の家よりも大変なんだろうと思っていた。
しかし大人になってASDやら境界知能やらの存在を知って、SNSにあふれる主に母親たちの投稿を見て、そちらのほうがかえって大変そうだと思った。
前述の通り兄とは会話らしい会話が成り立たない。「○○する?」「○○する」「わかった?」「わかった」みたいなやりとりだけでコミュニケーションを取ってきた。
それは逆に言えば相手の言動がこちらの想像をほとんど越えないことを意味する。対応が比較的楽ということだ。
兄よりも明らかに「賢そう」な子供の話には賢いゆえの大変さが見える。
買い物をする能力があるが故に散財していることに気づかずにお金を使いすぎていたり。
遠くに行く能力があるから親の目を振り切ってとんでもないところに行ってしまったり。
そして重度の知的障害者として一生を色々な福祉にお世話になることが確定している兄と違って、大人になったら「普通の大人」として扱われて社会に放り出される。そして周囲とトラブルになって、その原因を自分ではどうすることもできずに苦しむのだ。
そう考えると「賢さ」とは何なのだろう。
普通よりもちょっと劣っているくらいが一番生きにくいというのもなんだか皮肉ではある。
高すぎても生きにくいらしいが、こちらはそもそも絶対数が少ないからか話を見かけること自体が少ない。
とりあえずはきちんと公的機関の助けを受けて兄の療育を投げ出さずにずっと続けてきた両親に感謝すると共に、今苦労しているボーダーライン上の人々やその家族がもう少し生きやすくなることを祈るばかりだ。