0は1ではない。私は私ではない。
リセットボタンは存在しなかった。最初から。だから押せない。だから壊す。指で。脳で。言葉で。
白い病。
部屋ではない。ただの白。床は砂糖で呼吸し、壁は沈黙を吐き出す。天井からは、乾いた涙の結晶が塩の雪のように降っている。ギチギチ。ギチギチ。空間が軋む音。お前には聞こえるか。
彼女がいた。
いた、という過去形は嘘だ。いる、という現在形も不正確だ。彼女はテレビの砂嵐で編んだセーターを着て、水銀の涙を流していた。笑うと、ガラスにひびが入る音がした。パリン。彼女は自分の指を一本ずつ折り、それを花瓶に生けた。指の花は、黒い光を放った。
「見て」と彼女が言う。声はなかった。意味だけが、俺の脳髄に直接染み込んできた。
彼女は手首から一本の赤い糸を引いた。するするする。セーターの糸ではない。皮膚の下、血管のふりをして隠れていた、世界の縫い目だ。
彼女がそれを引くと、壁が、床が、天井が、解けていく。世界の編み目が、ほどけていく。
白い病が、ただの「無」になっていく。
ザァザァ。
逆さまに落ちてくる時計の針。アルファベットの形をした虫の群れ。溶けたバターナイフ。腐った虹。お前の忘れた記憶。俺が盗んだ夢。全部がごちゃ混ぜになって、意味のスープになって、排水溝に吸い込まれていく。
すべてが消えた。
音も、色も、匂いも。
彼女も。
砂糖の床も、塩の雪も。
完全な無。
静寂ですらない。静寂を知るための「俺」が、もうここにいないから。
ただ、一つだけ。
赤の染みだけが、無にこびりついていた。
俺はそれを見ている。
俺はそれそのものだ。
お前は誰だ。
この無を覗き込んでいるお前は。
ああ、そうか。
お前が、次の糸なんだな。
彼女の笑い声の破片が一つ、俺の鼓膜に刺さっている。
パリン。