少なくとも昨今のフェミニズムは女が単純に男の地位に迫り、逆転させるような社会の在り方を希求していないと思う。
男の地位に女がなり変ったとして、もともと女性が感じている「生きにくさ」の構造はなんら払しょくされない。主語が入れ替わっただけなのだから。
そうではなく、今の社会構造そのものを(主に男に)自覚させ、社会構造を変革し女がより「生きやすく」するよう考究することがフェミニズムの現代的課題ではなかったのか。
社会構造のあり様そのものを変える作法は、マルクス主義的フェミニズムでも、メディアにおける性差別(アナウンサーの男女の人数構成や話題の内容の男女差など)でも、とっかかりは色々ある。
今こうした研究をしている人たちは、単純に男と女とを挿げ替えることを発想しているのではないのではないか。
男女の入れ替えは、古臭いテンプレ化した譬えとはいえ、社会構造の自覚には有為に働くだろう。今回の文章もこうした点に効果を求めているのだろう。
だが、その向こう側は?
こうした次元での議論が注目されると、論点が男女の権威・権力のシーソーゲームに矮小化してしまい、今後男も女もひっくるめた新しい社会構造への議論という可能性が見えにくくなる。
男女の単純な挿げ替えは、一見すると非常に「わかりやすい」が、実は事態を「わかりにくく」している。