鉄鋼・化学産業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:44 UTC 版)
鉄鋼産業については、鉄鋼第一次合理化計画(1951年 - 1955年)と鉄鋼第二次合理化計画(1956年 - 1960年)が構想された。また、通商産業省は昭和30年度を始期とする石油化学工業育成計画を構想した。1955年から1960年にかけての第1期石油化学計画では四日市市・新居浜市・岩国市・川崎市を拠点開発した。 川崎市内の日本鋼管川崎製鉄所(現・JFE スチール東日本製鉄所)は第一次世界大戦が起きた1914年に第一号平炉が稼働した。創業当初工場敷地10万平方メートル・工場労働者数約50人だった工場は、条網・鋼管・合金板・鋼板と製品を拡張したことで、1918年には約50万平方メートル・約4000人へと拡大した。1936年に扇町工場が完成、1941年に水江工場の建設が着工されるなど、太平洋戦争前に有数の規模となっていた。高度経済成長期の1968年には工場労働者数2万6000人まで規模が拡大した。川崎・水江・鶴見の3つの製鉄所が統合して京浜製鉄所と呼ばれるようになり、1971年に扇島埋立地に起工式が実施された。1979年に二号高炉に火入れが行われたが、環境庁から窒素酸化物の環境対策不十分との指導を受け、焼結工場の排ガス処理設備のみ脱硝装置が設置された。
※この「鉄鋼・化学産業」の解説は、「川崎公害」の解説の一部です。
「鉄鋼・化学産業」を含む「川崎公害」の記事については、「川崎公害」の概要を参照ください。
- 鉄鋼・化学産業のページへのリンク