西部国境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 17:18 UTC 版)
最初の主要な軍事紛争は、1935年1月に、満州西部フルンボイル(ホロンバイル)平原の満蒙国境地帯で発生した哈爾哈(ハルハ)廟事件であった。哈爾哈廟周辺を占領したモンゴル軍に対して、満州国軍が攻撃をかけて戦闘が発生した。月末には日本の関東軍所属の騎兵集団も部隊を出動させるに至ったが、モンゴル軍が退却したため、日本軍が直接交戦することはなかった。 その後、西部国境では、同年6月に日本軍測量隊が逮捕されるホルステン川事件(ハイラーステンゴール事件)が起きた。主張国境線防衛のため満州国軍はフルンボイル平原に監視部隊を常駐させるようになり、満蒙両軍の軍事衝突が増えた。ただし、モンゴル軍は、日本軍部隊が出動すれば、哈爾哈廟事件同様に抵抗せずに撤退する行動をとっていた。 1935年12月に貝爾湖(ボイル湖)南西へ監視哨設置に向かった満州国軍が、モンゴル軍から銃撃を受けたことから、オラホドガ(オラン・ホトック)付近でにらみ合いとなりオラホドガ事件が始まった。航空部隊まで投入したモンゴル側に対して、翌年2月に日本軍も騎兵1個中隊や九二式重装甲車小隊から成る杉本支隊(長:杉本泰雄大尉)を出動させた。杉本支隊は、装甲車を含むモンゴル軍と遭遇戦となり、戦死8名と負傷4名の損害を受けた。モンゴル軍は満州国側の主張国境外へと退去した。関東軍司令部は不拡大方針を強調する一方、戦術上の必要があればやむを得ず越境することも許すとした方針を決め、独立混成第1旅団の一部などをハイラルへ派遣して防衛体制を強化した。 1936年(昭和11年)3月には、警備交代とオラホドガ偵察任務の渋谷支隊(長:渋谷安秋大佐。歩兵・機関銃・戦車各1個中隊基幹)がフルンボイル国境地帯に向かったところ、モンゴル軍機の空襲を受けて指揮下の満州国軍トラックが破壊されたことから、タウラン事件が発生した。このとき、モンゴル軍も騎兵300騎と歩兵・砲兵各1個中隊のほか、装甲車10数両の地上部隊を付近に展開させていた。渋谷支隊はタウラン付近で再び激しい空襲を受け、偵察に前進した軽装甲車2両がモンゴル軍装甲車と交戦して撃破された。モンゴル軍地上部隊は撤退したが、日本軍航空機の攻撃で損害を受けた。この事件で日本軍は13名が戦死して1名が捕虜となり、トラックの大半が損傷した。モンゴル軍も装甲車を鹵獲されるなど、かなりの損害を受けた。本格的機甲戦や空中戦こそなかったものの、双方とも有力な装甲車両や航空機を投入した近代戦となった。
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