統治政策と遺産とは? わかりやすく解説

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統治政策と遺産

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 21:18 UTC 版)

ムハンマド2世 (ナスル朝)」の記事における「統治政策と遺産」の解説

ムハンマド2世父親によって築かれ初期国家着実に強化し、他の勢力、特にカスティーリャマリーン朝との間で交互に同盟を結び、時には両者互いに戦うように仕向けることによって領土独立守り続けた。そして宗教イスラーム教)、言語アラビア語)、さらにはロマンス語を話すキリスト教徒隣人から生き残る上で絶え存在する脅威自覚することによって団結し国家支配する領域一体感生まれた歴史家イブン・ハルドゥーンは、これらの結びつきアサビーヤないしは国家興亡基本を成すと考えていた部族連帯代わる役目果たした述べている。 ムハンマド2世行政軍事制度改革推進したナスル朝真の組織であったかなりの量に及ぶムハンマド2世立法関連活動にはナスル朝王室儀典rusūmal-mulk)とアブー・アブドゥッラー・ブン・アル=ハキーム英語版)(ムハンマド3世治世にはワズィールとなった)が長官務めた宮廷書記官(al-kitāba)の制度の確立含まれている。また、キリスト教徒からナスル朝防衛するために北アフリカ出身者採用して構成され軍事集団であるアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン組織の拡大制度化をみた。この軍事集団マリーン朝から追放され一族部族出身兵士多数占めていた。組織兵士一部グラナダの町に定住してセネーテ(ベルベル人のゼナータ族(英語版)に因んだ名称)の居住区確立し、他の一部ロンダその周辺地域を含むナスル朝領内西部地域居住した。これらの者たちは国家から報酬受け取ったが、一方で定住した地域でしばしば地元住民衝突した1280年代初頭ナスル朝マリーン朝衝突した際にアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンナスル朝忠義示し続け同時期にカスティーリャから攻撃受けた際もナスル朝防衛した。そして時が経つにつれてナスル朝における最も強力な軍事力を持つ組織となり、ムハンマド2世治世の終わりには10,000人を擁しナスル朝領内から徴兵され軍隊凌駕したアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン長官であるシャイフ・アル=グザートはナスル朝政治において影響力のある地位保持したムハンマド2世自身治世異な時期に、アリー・ブン・アビー・イヤード・アブドゥルハック、ターシュフィーン・ブン・ムウティー、アブドゥルハック・ブン・ラッフ、そしてイブラーヒーム・ブン・ヤフヤーを含む複数人物をシャイフ・アル=グザートに任命した領土面においてムハンマド2世はケサーダやアルカウデテを含むハエン王国英語版)(カスティーリャ連合王国構成する王国内のいくつかの拠点手に入れナスル朝領域をより強固なものにした。一方で最終的にカスティーリャ奪われる形でタリファ失いそれ以降タリファ二度とイスラーム教の手に戻ることはなかった。アシュキールーラ家による内部脅威取り除かれムハンマド2世繰り返されマリーン朝攻撃をうまく退けただけでなく、アル=アンダルスにおけるマリーン朝領土を奪うことにも成功した。さらに領土防衛のために大規模な防衛施設群の建設計画主導し東西にわって戦略的な場所に配置され十分な数に及ぶ一連の施設群建設した。これらの防衛施設その後の数世紀わたってナスル朝国境防衛基盤形成した。さらにアルカウデテの堀(khandaq)の建設の際には自ら指揮当たったまた、ムハンマド2世建設した防衛施設世襲領主ではなく宮廷によって任命交代が行われる軍事総督qa'id)によって管理されていたため、王権の強化にも役立った。これらは大抵において山岳部などの到達困難な場所に存在し大きな犠牲要する包囲戦によってのみ征服する破壊することが可能であったムハンマド2世ナスル朝におけるワズィール宰相)の重要性高めたムハンマド2世にとって信頼のおける協力者となったアブー・スルターン・アズィーズ・ブン・アリー・ブン・アル=ムニイム・アル=ダーニーがその長い治世における唯一のワズィールであった。アブー・スルターン・アズィーズはマリーン朝対すムハンマド2世大使務めいくつかの軍事作戦指揮し数多く王室文書共同署名したまた、ムハンマド2世アルハンブラ宮殿拡張し、主に父親によって建設され要塞とその関連施設大部分占めていた場所に徐々に宮殿建設していった。父親手掛けていた王族用の領域を囲む壁や多数居住用の建物さらには浴場建設進めた初期ナスル朝におけるアルハンブラ宮殿各部分の建築年代は後のイスラーム教もしくはキリスト教徒支配者たちによる変更修復加えられたために必ずしも明確ではないものの、ムハンマド2世今日サン・フランシスコ修道院の元となる宮殿ヘネラリフェのダール・アル=マムラカ・アル=サイーダ原型となる建物建設したことは確実とみられている。同様にムハンマド2世貴婦人の塔(Torre de las Damas息子ムハンマド3世によって建てられ今日のパルタル宮に位置する)と、くちばしの塔(Torre de los Picos)を建設した対外的にはムハンマド2世キリスト教世界ヨーロッパ、特にジェノヴァピサから訪れイタリア貿易業者との交易拡大追求した1279年4月18日にはジェノヴァ大使条約締結しジェノヴァ同盟結んでいない他のイスラーム勢力との対立起きた際にナスル朝船舶供給する見返りに、6.5%という特に低い税率ナスル朝産品輸出し領内商館設置する権利与えたムハンマド2世は、文字通りイスラーム法学者」を意味するアル=ファキーフの通り名によって知られているものの、この言葉は「賢者」としても理解でき、自身教育水準の高さだけではなく学者詩人とともに過ごす環境へのムハンマド2世好み反映している。同時代生きたカスティーリャアルフォンソ10世と同様にムハンマド2世は詩を書きイブン・アル=ハティーブによれば相当な水準詩人であった)、宮廷において数多く文化活動促進したまた、学識のある人々、特にキリスト教徒によって征服され地域からイスラーム教徒の科学者を招くことでアルフォンソ10世に対抗したムハンマド2世宮廷迎え入れた人物の中には数学者医師のムハンマド・アッ=リクーティー(英語版)や天文学者数学者のイブン・アッ=ラッカーム(英語版)(アルフォンソ10世から改宗しキリスト教徒領内留まるであれば多額報酬与えると持ちかけられていたにもかかわらずグラナダ移住した)がいた。スペインの歴史家のアナ・イサベル・カラスコ・マンチャドは次のように記している。「アル=ファキーフはアンダルシア統治者の中では珍しい通り名である。これはファキーフの活動重なり合う知的活動実践信仰さらには公正さ法的規範とのつながり通してファキーフへの賛意表したムハンマド政治的人格強調している」。

※この「統治政策と遺産」の解説は、「ムハンマド2世 (ナスル朝)」の解説の一部です。
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