第二帝政
第二帝政
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ドイツ諸邦中最大の国家であるプロイセン王国の覇権のもとに、1867年に成立した北ドイツ連邦は、プロイセン王を連邦主席とし、加盟各邦の調整機関である連邦参議院、帝国議会(Reichstag)、簡素な連邦行政府を有していた。この行政府の頂点としてプロイセン首相(Ministerpräsident)、オットー・フォン・ビスマルクが連邦宰相(Bundeskanzler) を兼務した(連邦参議院の業務はプロイセン外相が行っていたため、立場上プロイセン外相は連邦宰相より上位となる。それ故にビスマルクは連邦宰相、プロイセン首相、外相を兼務していた)。 宰相(Kanzler)という称号は中世前期から皇帝ないし国王の最高輔弼者に与えられており、プロイセン改革におけるカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクの「宰相独裁」のように、君主制的・官僚制的・反議会的な要素を象徴していた。すなわち、宰相の権限は君主の信任にのみ依拠し、議会から独立しているという点、さらに内閣において他の大臣より特別の地位(例えば、ハルデンベルクはプロイセン宰相在職中、国王への上奏権の独占を認められていた)を占めているという点において、「宰相」と内閣の首席大臣たる「首相」(Ministerpräsident)は異なっていた。従って、連邦宰相ないし帝国宰相という職、そして宰相によって統率される行政府は、1848年の三月革命で成立したフランクフルト国民議会において選出された帝国大臣主席(Reichsministerpräsident)と、大臣主席を長とする帝国内閣(Reichsministerium)と違うものとして捉えられていた。 1871年1月18日、南ドイツ諸邦が北ドイツ連邦に編入され、ドイツ帝国(ドイツ・ライヒ)が成立した。これに伴い、連邦主席の称号は皇帝に、連邦宰相は帝国宰相(Reichskanzler)に改められた。初代帝国宰相には引き続き、オットー・フォン・ビスマルクが就任した。同年4月16日、ドイツ帝国憲法が発布され、新帝国の統治体制が定まった。帝国宰相は、ドイツ帝国の元首である皇帝によって任命され、皇帝の権限である帝国法律の制定・公布・執行の監督、勅令及び処分について責任を負った。すなわち、帝国宰相は政治上の責任を皇帝に対してのみ負い、帝国議会から独立して政務に当たったのである。なお、帝国宰相は連邦参議院の議長を務め、その諸事務を主宰した。帝国の中央政府は、帝国を構成する諸邦の既得権を侵さないという条件で設置されたため、正式には帝国指導部(Reichsleitung)とよばれた。このため、建国当初、中央省庁の数は少なく、多くの法案作成や行政事務をプロイセン政府に依存した。ゆえに帝国宰相は、1892年から1894年の一時期を除いて、プロイセン首相が兼任した。また憲法上、帝国宰相を助ける大臣や内閣についての規定はなく、1918年まで帝国各省庁の長は、君主に対して宰相と同様に責任を負う大臣(Minister)という称号を帯びなかった。つまり、帝国各省庁の長はその業務について自立した大臣ではなく、帝国宰相の下僚としてその指示に厳格に従う国務長官(Staatssekretär)であった。このように、帝国宰相はドイツ帝国の統治体制上大きな権限を掌握していたのであるが、皇帝の意向やプロイセンをはじめとする諸邦政府の動向に配慮せねばならず、また自己の政策に対して国民的支持を取り付けようとする場合、帝国議会に与党多数派を形成しなくてはならないなど、その地位は複雑なものであった。 1918年、第一次世界大戦でドイツの敗戦が濃厚になり、改革の気運が高まっていった。10月28日に憲法が修正され、帝国宰相はその職務遂行に際して帝国議会の信任を必要とし、連邦参議院及び帝国議会に対して責任を負うこと、皇帝が権限を行使する際に帝国宰相が責任を負うこととなった。しかし、このような「議会主義的帝政」も国民の支持するところとなり得ず、11月3日にドイツ革命が始まった。9日、帝国宰相マクシミリアン・フォン・バーデンは皇帝の退位を独断で発表し、社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトに帝国宰相職を譲り渡した。同日、フィリップ・シャイデマンが共和国成立を宣言し、帝政は崩壊した。
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