税体系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:47 UTC 版)
「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「税体系」の解説
詳細は「アガル・タマル」を参照 モンゴル帝国は基本的に征服地では現地の収税体系を踏襲したが、一方で「クブチュル(コプチュルとも)税」と呼ばれる新規の税目を持ち込んだ。「クブチュル」とは「集める」「微発する」といった意味のモンゴル語クブチリがベルシア語に入った単語で、「家畜や牛乳といった遊牧生産物のー定割合の供給」、また「供給されたもの」それ自体をも意味する。この税目は元来、モンゴル高原の遊牧社会で困窮化したモンゴル兵を救済するため、もしくは駅伝制度(ジャムチ)維持のために設定されたもので、「夫役(強制労働)」を意味する「アルバ」を加えて「アルバ・クブチリ」とも呼ばれた。 この税目は東方の漢文文化圏では「差発」、西方のペルシア語文化圏では「クブチュル税(qūpchūr)」と呼ばれており、例えば『黒韃事略』は牛馬・車仗・人夫・羊肉・馬奶を供出して草原を管理することを「草地の差発」と呼称している。東方の大元ウルス領では差発は「科差」と「差役」に分けられ、「科差」は更に「絲料」と「包銀」の2種類に分けられていた。このうち投下領主の取り分として認められていたのが「絲料」であった。「絲料」とは五戸ごとに「絲(絹織物の原料)」を年1回供出するよう定められた税目で、その内の内7分の5がカアン(朝廷)、7分の2が投下領主の取り分と定められていた。これにより、投下領主に属する戸は「五戸絲戸」とも呼ばれ、一般の民戸たる「大数目戸」とは区別されていた。投下領主の取り分たる「五戸絲」はモンゴル語で「アガル・タマル」と呼ばれており、「アガル・タマル」こそが投下領主の主な財源と位置づけられていた。 また、この「五戸絲戸」とは別に諸王は「匠戸・打捕戸・鷹房子・金銀鍛冶戸」などと呼ばれる特殊な技能集団を所有していた。前述したように、モンゴル帝国の諸王は早い段階から技能集団の確保を重視しており、当初は捕虜とした職人たちをモンゴル高原に連れ帰っていたが、征服地の拡大にともなって現地でそのまま生産に従事させるようになった。これらの技能集団はそれぞれの生産物を領主に納める代わりに正税を免除されており、税の一部を納めるに過ぎない「五戸絲戸」よりも純粋に投下領主のため生産を行う存在であったといえる。 東アジア地域では、 これらの技能集団は征服戦争による獲得のみならず、「漏籍戸(戸籍調査から漏れた戸)・還俗僧道(還俗した仏僧・道士)・弟兄析居(兄弟が分居してできた戸)・放良戸(奴隷身分から解放されてできた戸)」と呼ばれる正規の戸籍に登録されていない者たちから諸王自身が集めていた点に特長があった。 例えば、『元史』には「打捕・鷹房人戸は、多くは析居・放良及び漏籍・ブラルキ・還俗僧道から取る」、「命じて析居・放良・還俗僧道等戸を招集し、諸色匠芸を習わせ、ゲルン・コウン(怯憐口)総官府を立て就業させた」と記録されており、これらの技能集団が投下領主によって非正規戸から集められ技能実習も行われたことが記録されている。 一方、カアン(朝廷)の側ではこのような諸王側の動きを決して快く思っておらず、数度にわたって「人戸招収(非正規戸を集めること)」を禁じる命令(ジャルリク)が出されている。また、これらの技能集団には「打捕鷹坊民匠総管府」といった名前が与えられており、形式的には国家の側で一種の公的官司として設置されるものであった。そのため、印を持つのがたてまえとされていたが、実際には有していない者も多かった(元典章巻10)。このように、カアン(朝廷)が投下領主が独自に非正規戸を集めて技能集団とするのを嫌う一方、投下領主が技能集団を私有することそれ自体は否定せず公的な官名を与えることでこれを管理しようとする態度は、カアンが「専制的支配者」と「一族の代表者」という二面性を有することのあらわれと評されている。 以上のように、「五戸絲戸」が納めるアガル・タマルを主要財源とし、「匠戸・打捕戸・鷹房子・金銀鍛冶戸」らが製作・納入する物品/家畜を副収入として得るのが投下の基本的な税体系であった。
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